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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ダマスカスの保安本部を爆破④  2012年7月18日

2017-12-23 06:32:30 | シリア内戦

 

2012年7月18日ダマスカスの保安本部で爆発が起き、シリア軍最高幹部4人が死亡した。国防大臣、副国防大臣、国家安全保障局長、元国防大臣の4人である。

シリアの反政府デモは2011年3月に始まったが、5月になると、反対派のリーダーたちは無力感にとらわれた。チュニジア、エジプト、リビアの政権はデモ発生後短期間で倒れたが、シリアの政権は倒れそうもなかった。反対派の中でも政府軍から離脱した将校たちは、武装反乱を考えるようになった。デモをやっても犠牲者が出るだけで、政権は揺るがないと考えたからである。しかし武装反乱をするにしても、彼らには武器がなかった。連隊ごと脱走する場合は連隊の武器すべてを持ち去ることができただろうが、連隊は言うに及ばず中隊全部が脱走した例さえなかった。離反将校は部隊の宿舎からこっそり抜け出したのである。

2011年末反対派を支援する国々が本格的な武器援助を開始した。これにより反対派は念願の武装反乱を開始することができた。その後7日か月間反対派は着実に支配地を広げ、7月半ば首都でも武装反乱が始まった。反対派は首都の攻防を反乱の最終段階と見ていた。英国はシリアに臨時政府を樹立するため、国連の行動を求めた。保安本部爆破事件はシリアの反乱が頂点に達した時期に起きた。

バシャール・アサドは2000年に大統領に就任したが、その時まで彼は政治と軍事について未経験だった。彼は歯科医師になるための研修をしていたからである。大統領就任後の数年間彼には実権がなく、軍と情報機関の幹部が政権を支えた。ハフェズ・アサド前大統領の死後10年間シリアを指導してきたのは彼らだった。今回殺害された4人はその代表的な人物である。特に副国防大臣アセフ・シャウカトは影の大統領であるとみなされていた。実質的な大統領はシャウカトであり、バシャールは名目的な大統領に過ぎないという見方が一般的だった。2005年レバノンのハリリ前首相が暗殺された時アサド大統領の責任が追及されたが、実際に作戦を命令・指揮したのはシャウカトとイクティヤル安全保障局長だった。この2人は7月18日の爆破事件で死亡した。

大統領と共に政権を運営する4人が殺害されたのであり、アル・アラビヤは「アサド政権の終末が近い」と書いた。

 

===《シリアの国防相、大統領の義兄らが爆死》=====

Bomb kills Syria defense minister, Assad’s brother-in-law and key aides

                  Al Arabiya 2012年7月18日

反対派は政権の中枢を攻撃することに成功した。ダマスカスの保安本部を爆破し、政権の最高幹部たちを殺害した。ダマスカスの北西の地区ムハジリーンでも5発の爆破があった。そこは大統領の弟マヘルが指揮する第四機甲師団の基地に近い。

シリア国民会議は述べた。

「この事件はアサド政権の終末を早めるであろう」。

アブドル・セイダ(Abdul Basset Seyda )はカタールの首都ドーハで述べた。

反乱は最終段階にある。政権の終末は近い。今日はシリアの歴史の転換点だ。反対派はさらに攻勢を強めるだろう。政権は倒れる日は近い。数週間、遅くとも数か月以内だ」。

英国のヘイグ外相は次のように述べた。

「シリアは崩壊と混乱に向かっている。臨時政府を樹立するため、国連の安全保障理事会は確固とした立場をとらなければならない。シリアの状況は急速に悪化している。シリア全土で戦闘が激化しており、首都ダマスカスでも日々戦闘が報告されている。これを反映し、避難民の数が増えている」。

==================(アル・アラビア終了)

 

保安本部の爆破は反対派にとって大戦果だった。自由シリア軍とイスラム大隊が犯行声明を出したが、真相は謎のままである。イスラム大隊は小さな集団であり、これ以後の5年間成長することもなく、小集団にとどまった。保安本部は大統領官邸と並ぶが政権の本拠である。厳重に警備された保安本部に、無名の集団がどのように忍び込んだのだろうか。

高官暗殺の計画は今回が初めてではなく、一度失敗している。2か月前にシリア政府高官6人を殺害する試みがあったが、これは失敗した。今回死亡した4人はこの時もターゲットとなっている。シリアの政権は2か月前の未遂事件を教訓にしなかったのであるか。再発にいかに備えても、警備体制の欠陥を修復できなかったのだろうか。考えられるのは、大統領に近い位置にいる人間の裏切りである。ロイターによれば、犯人は高官のボディガードということだが、詳しくはわからない。今回の事件についてはこれ以上の手がかりはない。

2か月前の高官暗殺未遂事件は少しだけヒントになる。

同年5月19日サハバ大隊と名のるグループが「高官6名を殺害した」と発表した。チームのリーダーらしき人物の声明がネットに投稿された。もちろんアラビア語で話しているが、英訳がある。以下の通り(全文)である。

 

===《FSA Claims Assassination of Assef Shawket 》===

     <https://www.youtube.com/watch?v=xCMEJijY-JE&feature=youtu.be>

                      syrian scenes   2012年5月19日

 

憐みと慈悲深き神の名において!

国民の敵と戦え! 神に代わって彼らに罰を与えよ! 力の限り戦い、勝利せよ! 神を信ずる人たちをなぐさめよ! 私アフマド・タクタク中尉は、サハバ大隊(Sahabah Battalions)の野戦指揮官の一人でである。我々はダマスカスとその周辺で活動している。私はサハバ大隊を代表し、我々の特殊作戦中隊が決行した成果を報告する。この中隊は秘密作戦を実行した。中隊は政権の危機管理チームのメンバーを2か月間監視した。そして中隊のひとりが秘密作戦を実行した。彼は危機管理チームのメンバーを殺害した。殺害方法は秘密である。作戦の細部について明らかにすることは控えたい。神の助けにより、次の者たちを殺害した。

①アサド一族のひとりであり、情報総局長官アセフ・シャウカト

②内務大臣ムハンマド・シャー

③国防大臣ダウド・ラジハ

④副大統領代理ハッサン・トルクマニ

⑤バース党保安局長ヒシャム・ビクティヤル大将   

⑥バース党副書記長ムハンマド・ビクティヤル

我々は明確に宣言する。「政権が倒れるまで戦い続ける」。

================(youtube終了)

サハバ大隊が6人の高官の死を発表したにもかかわらず、全員生きていた。

 

=====《ダマスカスの戦闘に伴い、高官暗殺か》=======

Syria: Damascus clashes prompt claims of high-level assassinations

                       Guardian 2012年5月20日

5月19日夜自由シリア軍が発表した。「アサド政権の高官6名を殺害した」。大統領の義理の兄アセフ・シャウカトも死亡者の一人であるという。その他の犠牲者は内務大臣ムハンマド・シャー、国防大臣ダウド・ラジハ、大統領代理ハッサン・トルクマニなどである。

シリア国営メディアは自由シリア軍の発表を全面的に否定した。死んだとされるシャー内務大臣八記者会見に姿を現し、生きていることを証明した。トルクマニ大統領代理は執務室で国営テレビのインタビューに答え、「自由シリア軍の発表はとんでもない嘘だ」と語った。

しかしシャウカトの生死に関する報道はなく、また彼がメディアに姿を現すこともなかった。

「ダマスカス革命議会」の女性報道官が次のように語った。

「殺害の方法は毒殺である。死者の人数については、確定できていないが、すでに発表されているリストの中の1ー2名が死んでいる。テレビに出演した者以外は死亡しているか、重傷者である。政権は死者が出た事実を隠し、重傷者については回復を待っている。

======================(ガーディアン終了)

 

反抗声明を出したサハバ大隊はダマスカス南部を拠点とする有力なイスラム主義グループである。

2か月後の7月18日ダマスカスの保安本部の爆破後、犯行声明を出したのは別のグループであり、こちらはイスラム大隊である。イスラム大隊もダマスカスを拠点としているが、かなり小さなグループである。

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ダマスカスの保安本部の爆破③ 2012年7月18日

2017-12-07 06:47:18 | シリア内戦

2012年7月18日ダマスカスの保安本部で爆発が起き、シリア軍の最高幹部が殺害された。死亡したのは、国防大臣、国防副大臣、国家安全保障局長、元国防大臣の4人である。

 

        〈ラジハ国防相〉

       

ダウド・ラジハはキリスト教徒でありながら、シリア軍の中心的な存在であり、2009年以来参謀長に就任した。

2011年3月半ば反対派による抗議運動が始まり、徐々に拡大していった。抗議運動開始の4か月後(8月8日)アリ・ハビブ国防相が辞任し、ダウド・ラジハ参謀長が国防相に就任した。

ハーレッツ(Haaretz)紙が2011年8月8日の国防相交代について書いている。

=========《参謀長が国防相に就任》=======

Syria's Assad Replaces Defense Minister With Army Chief of Staff

              Haaretz 2011年8月8日

シリア政府による血の弾圧に対し、国際的な批判が高まっている。こうした中、8月8日シリア政府は国防相を変えた。アリ・ハビブに代わり、ダウド・ラジハ参謀長が国防相に就任した

シリアの政府と軍はアラウィ派が支配的である。シリア軍が弾圧を強める中、市民7名が死亡した。国防相の交代はこれが契機となった。

7名の死者はダラア県の3名とデリゾール市の4名である。

ダラア県で葬儀の行進をする人びとに、治安部隊が実弾を発射し3名死亡した。

デリゾール市内で2人の女性と2人の子供が撃たれて死んだ。

====================(ハーレッツ終了)

反対派は国防相の交代によって弾圧が緩和されることを期待したが、期待は裏切られた。新国防相のもとでも残酷な弾圧に変化はなく、ラジハ国防相は血の弾圧の張本人とみなされるようになった。反対派は彼を悪魔の化身であるかのように嫌った。

 

         〈イクティヤル安全保障局長〉

前2回国家安全保障局長について紹介しなかったが、他の3人に劣らず重要な人物である。ソ連のKGB局長に相当する。ソ連崩壊後共産党の幹部が民主化を受け入れた結果、国家が崩壊した。KGBだけはソ連国家の継続を貫こうとした。KGBは自己の利益を追求する集団に成り下がった側面もあるが、国家の本質を最もよく理解し、ロシア帝国以来続く国家の維持を追求した集団である。ソ連軍人の中にも困難な時期に国家に忠誠をつくした人物がいる。悪の権化とされるKGBであるが、国家崩壊の時期に一貫性を示した点は評価すべきかもしれない。

       

=======《ヒシャム・イクティヤル》=========

     Hisham Ikhtiyar                wikipedia

ヒシャム・イクティヤルは有能な情報将校であり、2001 年ー2005年情報総局の局長だった。情報総局は3つの部門からなるスパイ総局である。

①国内治安部:国内の反政府分子を逮捕

②国外保安部:国外でのスパイ・破壊工作

③パレスチナ問題部:パレスチナ支援

彼が局長だった時、重要な課題はムスリム同胞団を監視し、抑圧することだった。

2005年イクティヤルはバース党国家安全保障局(NSB)の長官に就任した。彼は情報総局の長官を兼務し、大統領の補佐官でもあった。2006年テロリスト支援の理由で、彼は米国への入国を禁止された。シリアは米国のイラク侵攻に反対し、イスラム過激派をイラクに送っていた。またイスラエルを敵とするヒズボラを支援していた。シリアがレバノンへの影響力を高める過程で、彼は作戦を指導し成功に導いた。

2011年ダラアで反政府デモが起きた時、イクティヤルはデモの鎮圧を指導したと言われる。ダラアのデモはシリア内戦の発端となった。ダラアのデモに対する弾圧が残酷だったため、反政府運動が拡大した。2011年5月EUと米国がシリアの国家安全保障局に経済制裁を課した。抗議する市民に極端な暴力を行使したという理由である。

2012月7月18日、ダマスカスの保安本部が爆破された時、イクティヤルは重傷を負った。2日後シリア国営放送は彼の死を告げた。

 

        〈シャウカト副国防相〉

     

アサド政権内においてアセフ・シャウカトが特別な地位にいることはすでに述べた。副国防相という地位に加え、彼は大統領の親族でもある。シャウカトは大統領の姉ブシュラの夫である。ブシュラには4人の弟がいる。

長男バースィル :1994年交通事故で死亡

次男バシャール :2000年大統領に就任

三男マジド   :政治に関わらず2009年に病死

四男マヘル   :現役の陸軍少将

四男マヘルは陸軍少将に過ぎないが、軍隊内で参謀長や国防大臣と並ぶ権威を持っている。大統領の義理の兄であるシャウカトも

同様であり、副国防大臣という地位以上の権威を持っている。

政権の内幕について、ロイターが興味深い話を書いている。

 

========《影の権力者》============ 

   Assef Shawkat, Syria's shadowy enforcer

                     by Erica Solomon

                      Reuters  2012年7月18日

シャウカトの写真は少ない。彼が何をやり、どのように権力を行使しているのか、ほとんど知られていない。しかし彼は政権の柱である、とほとんどのシリア人が言う。

アセフ・シャウカトは軍情報部副部長を経て部長になり、その後副国防相に就任した。副国防相という地位は闇の権力者に適していた。ウイキ・リークスが暴露した米国の外交電報によれば、「彼は頭がよく、読書家である。暗殺事件の責任者のひとりである」。

2006年レバノンの元首相ラフィク・ハリリが暗殺された事件に責任があるとして、米国はシリア軍高官を経済制裁した。シャウカトはその一人である。レバノノンに対するシリアの影響力が強まることを、米国は恐れた。

米財務省は当時次のように述べた。

「シャウカトはシリアによるレバノン支配を計画している。また彼はイスラエルに対するテロを支援している」。

反対派にとってシャウカトは体制の鉄拳であり、反乱に対する容赦しない弾圧の推進者である。

アサド政権に近いレバノンの治安関係者は次のように言う。

「シャウカトは緊密にまとまった政権中枢の一員として行動しているにすぎない。シャウカトシャウカトは力の行使を好むが、政策を決定するグループの一員にすぎない。政権は主にアラウィ派のネットワークによって維持されており、このネットワークはシリアの上流階級に張り巡らされている。しかし現在多数派でありながら負け犬であるスンニ派の反抗に直面している。  

          〈政権の中枢〉

前大統領ハフェズ・アサドは30年間シリアを統治したが、2000年に世を去った。息子のバシャールが大統領に就任するまで、ハフェズの側近数人が政権を支えた。シャウカトはその一人だった。新大統領の選挙期間、政権に批判的な連中がバシャール・マヘル兄弟とシャウカトの3人を茶化すポスターを掲示した。

「シリアで最初の選挙! バシャールが当選すると、おまけにマヘルとシャウカトがついてくる!」

この冗談はハフェズ・アサドの死後の変化を物語っていた。ハフェズ・アサドの時代は、大統領が注意深く神格化され、個人支配が貫徹していた。新政権は複数のリーダーによるチーム支配に移行した。

反対派は次のように語る。

「政府は透明性を欠き、政権上層部の人たちは秘密に包まれている。そのため政権と交渉することができない。抗議運動が武装抵抗に代わってから、シャウカトが公衆の前に姿を見せたのは、2度だけである。最初彼はザバダニに行った。ザバダニはレバノン国境に近く、夏涼しい。ダマスカスから近く、市民のリゾート地になっている。反対派が短期間ザバダニを支配した。

その後シャウカトは反乱の中心地であるホムスにいった。シリア軍がホムスの反対派を攻撃している時だった。ザバダニとホムスで、それぞれ数百人死亡した。彼は反対派と会い、言った。「ここを去れ。そうすれば電気と水を供給する。我々は攻撃をやめる」。ザバダニとホムスの反対派は撤退した。電気と水は回復した。反対派が去ったにもかかわらず、翌日攻撃が再開した。シャウカトは約束の一つを守り、もう一つの約束を破った。

これについて活動家が言う。

「我々は理解できない。シャウカトは反対派をだましたのだろうか。それとも彼は軍隊に命令することができないのだろうか。

        〈シャウカトの出世〉

アサド家との縁組はシャウカトに幸運と不運の両方をもたらした。彼は趣味で小説を書くが、彼の人生はメロドララマのようだ。アラウィ派であるという共通点以外、シャウカトとハフェズ・アサドの子供たちの間に共通点はない。

シャウカトは地中海岸部のタルトゥスに生まれた。両親は平均的な市民だった。陸軍に入隊後、彼は努力により昇進していった。彼は最初の妻と離婚し、ハフェズ・アサドの娘と結婚した。

ブシュラとの結婚はシャウカトの人生を大きく変えた。しかしこの結婚は簡単ではなく、決断を要した。外交官と情報部門の人たちの話によれば、両親と長男はシャウカトを評価していなかった。シャウカトは下層階級の出身なのでアサドけにふさわしくない、と長男バシルは考えた。シャウカトをブシュラから遠ざけるため、バシルは1993年シャウカトを投獄した。このことは情報関係者が話しており、ウィキ・リークスが暴露した米国の外交電報に書かれている。翌年(1994年)長男バシルが交通事故で死亡し、シャウカトはブシュラと結婚した。ハフェズ・アサドはシャウカトを軍情報部の副部長に任命した。

2005年バシャールはシャウカトを軍情報部長に任命した。この地位を得たことにより、シャウカトは問題を抱えているイラクとレバノンで陰謀に従事することになった。

米国の外交電報は彼を「復帰した実力者」と呼んでいる。

しかしシャウカトとハフェズ・アサドの子供たちとの関係は順調ではなかった。

外交官たちの話によれば、大統領の弟マヘルがシャウカトを銃で撃った。に発砲した。マヘルは共和国防衛隊の司令官である。大統領もシャウカトと姉ブシュラを嫌っていたという説もある。ブシュラは父ハフェズ・アサドの最愛の娘だった。

ハフェズ・アサドの伝記を書いたパトリック・シールが次のように述べた。

「大統領と姉不夫婦はライバル関係にある。ブシュラ・シャウカト夫妻は自分たちのほうが、バシャール・アズマ夫妻よりも大統領夫妻として適している、と長い間考えていた」。

しかしシャウカトはアサド家とアラウィ派の政権を守ることを最優先しているようである。

アサド政権を熟知するレバノン人は次のように述べた。

「彼らは共通の運命にあることを自覚している。内部分裂が破局につながることを知っている」。

===================《ロイター終了)

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