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  たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

5巻35-36章

2023-12-31 14:00:33 | 世界史

【35章】
続いて別のガリア人が同じ道を通ってアルプスを越えた。彼らはチェノマンニ族で、指導者はエリトヴィウスだった。
(日本訳注)

ガリアにはチェノマンニという名前の部族が二つあった。一つはマルヌ県のチェノマンニ族である。マルヌ県の北隣のノルマンディーに住む部族とマルヌ県の東に住む部族が初回のアルプス越えに参加しており、チェノマンニ族が噂を聞いて、二回目のアルプス越えを企てたのかもしれない。なおノルマンディーのアウレルチとマルヌ県のチェノマンニは同族である。
もう一つはマルセイユのチェノマンニ族であり、名前は同じだが、マルヌ県のチェノマンニ族と無関係である。初回のアルプス越えをした集団はマルセイユに行ってから、アルプスに向かっており、フランス中央部・北部のケルト人がイタリアに向かったのを知って、自分たちもと思ったかもしれない。しかし温暖で快適なマルセイユに住む人々にとって、イタリアはそれほど魅力的ではなく、近隣の民族から逃げる必要でもなければ、動機は低い。
2回目のアルプス越えをしたのはマルヌ県のチェノマンニ族である可能性が高い、としか言えない。初回のアルプス越えはブールジュの部族が中心となり、彼らに6部族の人々が加わった。リヴィウスは「二回目の集団は初回と同じルートでアルプスを越えた」と書いているが、彼が語るアルプス越えの経路からは二回目の集団がフランスのどこからアルプスに向かったかはわからない。トリノ経由でアルプスを越えたことはわかるが、フラン側の起点はわからない。リヴィウスはフランス側の起点には関心がなく、彼にとってアルプス越えとは「トリノの峠道とその先の渓谷を通る」ことなのである。近代・現代において「アルプス越え」はフランス側の起点とイタリア側の終点が注目される。トリノは終点の一つである。リヴィウスがフランス側の起点に関心がないため、二回目の集団がマルヌ県から出発したか、マルセイユから出発したのかについてヒントは得られない。もっともカエサルのガリア遠征以後も、ローマ人の関心は北イタリアまでで、フランスについては関心が低かったので仕方がない。(日本訳注終了)

後続のガリア人が到着すると、最初にイタリアに来たガリア人の指導者は喜んで彼らを迎えた。新しく来た人々は、現在のブリクシア(現在のブレシア)とヴェローナに町を建設した。さらにリブイ族( Libui;居住地不明)とサルエス族(マルセイユ北東のリグリア人)がやって来て、古代のリグリア人であるラエビ族の近隣に住んだ。古代のラエビ族はチキヌス川流域に住んでいた。

(日本訳注)⓵チキヌス川はスイスを水源とし。ミラノの西を流れ、パヴィア付近でポー川に合流。
②リグリア人のラエビ族はチキヌム(現在のパビア)に町を建設した。パビアはミラノの南。(日本訳注終了)

さらにボイイ族とリンゴネス族がペンニン・アルプス(イタリア・アルプス=アオスタ渓谷とピエモンテ)を越えた。こうしてポー川とアルプスの間の地域はすべて新来の人々によって占拠された。

(日本訳注)⓵ボイイ族はオーストリアとハンガリーに住んでいたケルト人。
②リンゴネス族はブルゴーニュ地方のラングルに住んでいたケルト人。ラングルは現在高地マルヌ県の都市。高地マルヌ県にはマルヌ川の水源がある。(日本訳注終了)

移住者たちはいかだでポー川を越え、エトルリア人を追い払い、さらにウンブリア人をも追い払った。そこで彼らの侵攻は止まり、彼らはアペニン山脈の北に留まった。最後にセノンネ族(セーヌ盆地のケルト人、初回のアルプス越えに参加した)がやって来て、ウティス( Utis;場所不明)からアエシス(Aesis;ウンブリア州のアッシジ?)に至る地域を占拠した。クルシウム(現在のキウジ。トスカナ州南東部、ウンブリア州に近い)を攻撃したのはこのセノンネ族であるとわかった。セノンネ族はその後ローマに襲来した。彼らは単独でクルシウムに来たのか、ポー川以北のすべての部族と共に来たのか、わからない。クルシウムの人々はガリア人の異様な姿に恐れおののいた。またガリア人の人数はあまりに多く、見慣れない武器を持っていた。ポー川の両岸でエトルリア軍が何度も敗北したという話がクルシウムの人々に伝わっていた。クルシウムは大使をローマに派遣し、元老院に助けを求めた。クルシウムはローマの同盟国ではなく、友好な関係にさえなく、ローマは彼らを助ける義務がなかった。もっともローマがヴェイイと戦っていた時、クルシウムは同族のヴェイイを助けなかったので、ローマの敵ではなかったかもしれない。そういうわけで、クルシウムの大使は積極的な援助を得られなかった。ファビウス・アンブストゥスの三人の息子が大使としてガリア人のもとに派遣された。三人の大使はクルシウムを攻撃しないようよう警告した。「クルシウムはガリア人に何の損害も与えていない。クルシウムはローマの友人であり、同盟国である。状況次第では、ローマ軍はクルシウムを防衛するだろう。ローマは戦争を避けたい。ローマは未知の相手との戦争を望まない。平和的にガリア人と知り合いになりたい」。

【36章】
ローマの大使が託された伝言は十分平和的だったが、残念ながら使節のニ人はガリア人に似ていて、気性が荒かった。元老院の意向を伝えると、ガリア人の指導部は次のように返答した。
「我々はローマという名前を初めて聞いたが、クルシウムの指導者が危機にあって助けを求めたのを見ると、ローマは勇敢な国民に違いない。武力によらず、話し合いでクルシウムを守りたいということであるが、我々も平和的に解決したい。そこで我々の要望を述べたい。我々は土地が不足しており、クルシウムの領土の一部を我々に譲渡してほしい。クルシウムは耕作できる範囲をはるかに越えて、土地を所有している。我々の要求が認められない限り、平和的な解決はない。あなた方の面前で、クルシウムに返答してもらいたい。土地が得られないなら、我々は諸君の面前でただちに戦闘を開始する。ガリア人の勇気がいかなる民族をも越えているを見てくれ。そしてローマの人々に報告してほしい」。
これに対し、ローマの大使は言った。「どんな権利があって他国の土地を要求するのか。戦争をちらつかせて、他国の土地を奪うつもりか。諸君はエトルリアと何の関係があるのか」。
するとガリア人は居丈高に答えた。「我々は武力で権利を獲得する。勇敢な者は何でも所有できる」。
双方の闘志に火が付き、ガリア人は武器を取りに行った。国際法に違反し、ローマの大使も武器を取った。運命が急速にローマを破滅に向かわせた。クルシウム軍の兵士たちは初めてローマ人を見た。勇敢で高邁な三人のローマ人を見て、彼らは圧倒された。ガリアの首長がエトルリアの旗手に襲い掛かかろうとした時、Q・ファビウスが首長に向かって馬を走らせ、首長の横腹に槍を突き刺し、なぎ倒した。彼が首長の首を取ろうとした時、これを見たガリア人が叫び、ガリアの兵士全員にファビウスの行為が伝わった。ガリア兵はクルシウムが敵であることを忘れ、ローマに対する怒りで頭に血が上った。ガリア人はクルシウムから去った。
ガリア人の一部はローマに向かって進軍すべきだと主張した。年配のガリア人はまずローマに大使を送り、正式に抗議し、国際法違反の代償としてファビウス兄弟を引き渡すよう要求すべきだと考えた。一方ローマに帰った大使たちは結果を元老院に報告した。元老院はファビウス兄弟の行動を間違いと考え、ガリア人の要求を正当であると認めたが、高い地位にある人間を犯罪者と正式に断罪することに、政治的にためらいを感じた。ガリア人との戦争に負けた場合、自分たちだけの責任にならないよう、元老院はガリア人の要求にどう対処すべきか、市民の判断に委ねた。ちょうど年末だったので、翌年の執政副司令官の選挙となった。選挙においては勇気があり、影響力のある人間が支持を得た。処罰されるべき三人が執政副司令官に選ばれた。選挙結果はガリア人の大使を怒らせ、これをローマの最終的な決断、つまり戦争の宣言と受け止めた。彼らは元老院を威嚇してから帰っていった。
ファビウス家の三人以外の執政副司令官は Q・スルピキウス・ロングス、Q・セルヴィリウス(4回目の就任)、P・コルネリウス・マルグネンシスだった。

 

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5巻32ー34章

2023-12-10 14:27:15 | 世界史

【32章】

執政副指令官に選ばれたのは L・ルクレティウス、セルヴィウス・スルピキウス、C・アエミリウス、L・フリウス・メドゥリヌス(7回目の就任)、アグリッパ・フリウス、C・アエミリウス(2回目の就任)だった。彼らは7月1日に就任した。 L・ルクレティウスと C・アエミリウスはヴォルシニ湖周辺のエトルリア人との戦争を指揮することになった。アグリッパ・フリウスとセルヴィウス・スルピキウスはサルピヌム人との戦争を指揮することになった。ヴォルシニ湖の敵との戦闘が先に始まり、敵は大軍勢だったが、それほど強くなかった。最初の衝突後、彼らの隊列が崩れた。ローマの騎兵に包囲され、8000人が武器を捨てて降伏した。これを知ったサルピヌム人はローマ軍と正面から戦っても負けるだけと判断し、城壁に頼って防衛に専念することにした。ローマ兵はサルピヌムの領土とヴォルシニ湖周辺の二都市の領土を全面的に略奪した。ローマ兵は何の抵抗も受けなかった。多くの兵を失ったヴォルシニ湖周辺の二都市はローマ軍に降伏を申し出た。敵対行為への賠償金の支払いを条件に、二都市は20年間の休戦を認められた。賠償金にはローマ兵の給与の支払いが含まれていた。

この年マルクス・カエディキウスという名前の平民が執政副司令官に次のように報告した。

「ヴェスタ神殿の上方を通っている、新街道を歩いていた私が礼拝堂のそばに来た時、夜の静けさの中で、人間の声とは思えぬ大きな声が響き渡りました。『ガリア人が近づいていると高官に告げよ』」。

身分の低い者からの情報であり、ガリアは遠く、未知の国であったので、執政副司令官はカエディキウスの話を信じなかった。危険が迫っている時に、神々の警告が無視されただけではなかった。恐ろしい運命からローマを救うはずの人間、M・フッリウス・カミルスがローマから追放された。護民官 L・アプレイウスはヴェイイでの戦利品の問題でカミルスを告発した。カミルスは息子を失ったばかりだったのに、アプレイウスは容赦しなかった。
(日本訳注)ヴェイイ攻略後カミルスは兵士に略奪を許したので、平民に不満はない。ヴェイイの膨大な富のすべてを兵士に与えたので、貴族は怒っていた。長年の戦争により、国庫が底をついていたので、ヴェイイの富の何割かは、国庫に回すべきだった。カミルスは捕虜を奴隷として売却し、売上金のすべてを国庫に納めており、一定の配慮をしたが、国家主義者には不十分に思えた。護民官の多くは平民派であるが、アプレイウスは国権派だったのだろう。あるいはアプレイウスは平民派だったが、どういう理由であれ、カミルスを断罪したかったのかもしれない。(日本訳注終了)
カミルスは一族とその従者たちを家に招き、彼をどう思っているか探った。彼の一族の従者は平民のかなりの部分を構成していた。彼らは罰金が高額でも支払う用意があるが、カミルスを無罪にはできないだろうと述べた。カミルスは不滅の神々に祈った。「無実の私が理由のない苦しみを味わうことになった。恩知らずの人々が私を必要とする日が遠からず来ることを願っています」。
こうして彼は亡命した。彼が不在のまま、15000アスの罰金が言い渡された。
 【33章】
波乱の多い人間の世界に唯一確かなことがあるとすれば、カミルスがいればローマは陥落しなかったということである。カミルルスがローマを去ってから、ローマの破滅の日が急速に近づいた。クルシウム(Clusium)から使節が来て、ガリア人と戦う際め援軍を送ってほしと願った。(クルシウムは現在のキウジ、トスカナ州南東部、ウンブリア州との州境に近い)


言い伝えによると、エトルリアは果物が豊富で、ワインの産地だったので、ガリア人はその噂を聞いて、とりわけワインは彼らにとって珍しく、おいしい飲み物だったので、アルプスを越えてエトルリア人の土地に侵入したのだという。クルシウムのアッルンという人物がワインをガリアに輸出し、ガリア人を魅了し、彼らをエトルリアに呼び込んだのだという。アッルンの妻がルクモという人物に誘惑された。ルクモはアッルンに保護される立場にあったが、大きな影響力を持つ若者であり、アッルンは彼を処罰できず、外国の力を借りることにした。それで彼はガリア人を呼び込んだのだというのである。アッルンまたはクルシウムの誰かがガリア人を招き入れた可能性はあるが、クルシウムを攻撃したガリア人は最初にアルプスを越えた人々ではなく、ずっと前にイタリア北部に移住した人々の子孫である。ガリア人がイタリアに入ってきたのはこの時より200年前である。ガリア人が最初に襲撃した都市はクルシウムではない。ずっと以前からアルプス山脈とアペニン山脈の間に住むエトルリア人はガリア人と戦争を繰り返していた。ローマの覇権が成立する以前は、エトルリア人の支配が陸と海の広い範囲に及んでいた。彼らの勢力範囲は地名を見ればわかる。イタリア半島は海に囲まれているが、西の海は「トゥスク人の海」と呼ばれており、東の海はアトリア海と呼ばれている。ローマ人はエトルリア人をしばしばトゥスク人と呼んでいた。アトリアはヴェネト地方の町であるが、エトルリア人の植民地だった。ギリシャ人は西の海をティレニア海と呼び、東の海をアドリア海と呼んでいる。
(日本訳注)
⓵ トゥスクとトスクは同一であり、トスカナは「トゥスク人の土地」という意味である。エトルリアの植民地アトリアは後にエトルリアの都市となった。
② ギリシャ人はエトルリア人をティレニア人と呼んでいた。(日本訳注終了)
ローマ人もギリシャ人も、イタリア半島をエトルリア人の土地と考えていた。エトルリア人は最初アペニン山脈の西側に住んでいて、12の都市が成立した。その後彼らは山脈の東側に12の植民地を建設した。西側の一つの都市がそれぞれ一つの植民地を建設したのである。これらの植民地はポー川を越えアルプス以南の全域に進出した。唯一の例外はヴェネトの人々で、彼らはアトリア海北部の入り江の周辺に留まった。アルプスの諸部族、特にラエティ族は間違いなくヴェネトの原住民と同類で、厳しい風土の影響により野蛮であり、言語以外先祖の性格を失っていた。彼らは野蛮でありながら、文明人のように堕落していた。
(日本訳注)
⓵ ヴェネトの原住民の故郷はアルプス南麓のガルダ湖とパドヴァの間の地域である。ガルダ湖は現在ヴェネト州の北西部にあり、ロンバルディア州との境界になっている。パドヴァはヴェネト州の都市である。ヴェネトの原住民の言語はラテン語などのイタリック語とケルト語とゲルマン語の混合だった。エトルリア人が植民地としたのはアトリアだけで、それ以外のヴェネトの居住地には侵入しなかった。
② 博物誌の著者プリニウス(紀元後23年生ー79年没)によれば、ラエティ人はエトルリア人であり、ポー川周辺に住んでいたが、ガリア人に追われ、アルプスに移住した。紀元前600ー400年にガリア人はアルプスを越えて、イタリアに侵入したので、この時ラエティ人がアルプス山中に逃げたと考えられてきた。しかし現在の歴史家はラエティ人の移動を否定している。ラエティ人はもともとアルプス山中に住んでいたと考えられている。ほとんどのエトルリア人がイタリアに向かったのに、ラエティのグループだけがアルプス山中に留まったようだ。あるいはプリニウスの移動説は正しく、ガリア人に追われたのではなく、ずっと昔にポー川周辺からアルプス山中に移住したのかのかもしれない。ラエティ人の居住地域はローマ属州ラエティアとほぼ重なる。(日本訳注終了)

【34章】
ガリア人のイタリアへの侵入について、以下のように説明されている。タルクイヌス・プリスクスがローマの国王だった時(紀元前6世紀前半)、ガリアのケルト人を支配していたのはビトゥリゲス族だった。ガリア地方の住民の三分の一がケルト人だった。ビトゥリゲス族はケルト人の支配者を長年輩出してきた。この時国王になっていたのはアンビガトゥスだった。彼は勇気があり、広い土地を所有していることで有名で、広大な領域を支配していた。彼の時代に作物の収穫が豊富になり、ガリアの人口が急激に増えた。人口が多すぎて、統治が困難になった。年老いた国王は人口過剰をどうにかしたいと考え、妹の二人の息子を運に任せて見知らぬ土地に移住させることにした。国王の二人の甥、ベラブススとセゴヴススは進取的な性格の若者だった。移住先の住民に追い払われても対抗できるだけの仲間が必要なので、二人は遠征への参加者を募集した。どこへ行けばよいか、神意を占うと、セゴヴススにはヘルシニアの森(フランス北東部からドイツ南部に至る山地)が勧められた。神々はベラブススにもっと快適な土地、即ちイタリアを与えることにした。ベラブススは6部族の余剰な人口を集めた。6部族の名前はビトゥリゲス、アヴェルニ、セノンネ、アエドゥイ、アンバリ、カルヌト、アウレルチである。大勢の騎兵と歩兵を引き連れ、セゴヴススはトゥリスカスティン(ローヌ川流域、リヨン以南)までやって来た。彼の前にアルプスが巨大な障壁のように立ちはだかった。「越えられない」と彼らが感じても、驚くにあたらない。記録をたどる限り、当時アルプス越えの道は存在しなかった。ヘラクレスについての神話を信じれば別であるが。巨峰が天まで届き、向こう側は未知の世界だった。ガリア人たちは行く先を阻まれたが、それでもどこかに山越えの道がないか、探し回った。
彼らには宗教的な恐れもあった。新しい土地を探し求めた人々がサルエス人(マルセイユの北東に住んでいたリグリア人)に襲撃されたという話が伝えられていた。犠牲になった人々はフォカイア(ギリシャのイオニア地方の都市)からマッシリア(現在のマルセイユ)にやって来たギリシャ人だった。この事件はガリア人にとって悪い前兆だったので、ギリシャ人が最初に上陸した場所の防備を強化するのを手伝った。幸い、サルエス人は防壁の建設を妨害しなかった。
ガリア人はタウリニ(現在のトリノ)の峠道とドゥーリア渓谷を通ってアルプスを越えた。ティキヌス川のずっと手前でエトルリア人と戦闘になり、勝利した。彼らが住むことにした場所(現在のミラノ)はインスブレ族(先住のケルト人)の領土だと知った。インスブレという名前はヘドゥイ族(現在のブルゴーニュ地方に住んでいたガリア人)の土地と同じ名前である。部族は違うが同じケルト人の土地なら縁起が良いので、ガリア人はそこに町を建設し、メディオラヌム(ミラノ)と名付けた。
(日本訳注)
⓵ドゥーリア渓谷は現在のドラ・バルテア川:Dora Baltea。モンブランの水源からアオスタを通り、トリノの東でポー川に合流。
②ティキヌス川は現在のチキノ川。スイスの水源から南に流れ、ミラノの西を過ぎてポー川に合流。
③ リヴィウスは「この時代アルプス越えの道はなかった」と書いており、ガリア人がどのような経路でアルプスを越えたか、興味をそそられるが、彼の記述は現代人にはわかりにくい。近代・現代において「アルプス越え」はフランス側の起点とイタリア側の終点が注目され、トリノは終点の一つである。しかしリヴィウスはフランス側の起点には関心がなく、彼にとってアルプス越えとは「トリノの峠道とその先の渓谷を通る」ことなのである。リヴィウスはフランス側の起点に関心がないため、読者にはフランス側の出発点が分からない。ガリア人がフランス中央部からリヨンの南まで来たことまでは、はっきりしているが、そこでアルプス越えを決心していながら、急にマルセイユに行ってしまう。マルセイユからドリノまでの軽路は全然わからない。現在ではフランス側の起点はグルノーブルやその北や南の都市であり、終点はトリノやその他のピエモンテ州の都市である。ガリア人のアルプス越えから350年後、ハンニバルもフランスからアルプスを越えてイタリアに入っている。ハンニバルのアルプス越えは関心が高く、どのような経路でアルプスを越えたか、研究されてきた。グルノーブル方面からトリノ周辺に向かったという説が有力である。沿岸部にはローマ軍が来ているかもしれなかったので、ハンニバルはローヌ川中流から、アルプスに向かった。アルプスを越えた後は、ポー川流域のガリア人を味方にしてからローマと戦うつもりだった。
④ インスブレ族はケルト人で、ミラノに最初に町を建設した。34章はガリアのケルト人のアルプス越えが語られているが、アルプス南麓には別のケルト人がずっと以前から住んでいた。彼らはレオンティと呼ばれている。レオンティの居住地の南に住んでいたのがインスブレ族である。インスブレ族は紀元前6世紀前半にミラノに町を建設したが、その後エトルリア人に圧迫され、エトルリアの支配を受け入れ たようである。トリノから東に進んだガリア人が衝突したのはインスブレ族ではなく、エトルリア人だった。紀元前750-500年の地図によると、エトルリアの支配がミラノ周辺に及んでいるものの、ここはエトルリアの辺境であり、エトルリアは都市を建設していない。
⑤ リグリア人はイタリア北西部の沿岸およびフランスのプロヴァンスに住んでいた独自の民族。リヴィウスはプロヴァンスのリグリア人について書いている。「マルセイユに到着したギリシャ人を、リグリア人が襲撃した」。
(日本訳注終了)

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