たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

5巻29-31章

2023-11-30 05:44:16 | 世界史

【29章】

護民官の煽動はこれまで成果がなかったが、平民は土地改革を提唱する護民官の再任を求めた。これに対抗し、貴族は土地改革を否決した護民官の再選をはかった。結局平民が勝利した。元老院は仕返しに、翌年の最高官を執政官にすると決定した。平民が執政官という職を憎んでいたため、もう何年も執政副司令官が最高官になっていた。15年ぶりに執政官が復活した。執政官に選ばれたのは L・ルクレティウス・フラヴゥスとセルヴィウス・スルピキウス・カメリヌスの二人だった。年初に護民官は懸案を実現しようと決意した。彼らは団結しており、拒否権を行使する護民官はいなかった。これに対し執政官は頑強に抵抗した。全ての市民がこの問題に没頭している時、アエクイがヴィテリアのローマ植民地を襲撃し、成功した。ヴィテリアはアエクイの領土にある。

(日本訳注)ヴィテリア(vitellia)は2巻39章で一度登場している。発音がやや違い、ヴェテリア(Vetellia)となっていたが、同じ町である。2巻39章では、ヴォルスキ軍はティレニア海沿岸部から軍事遠征を開始し、北上した。本文は次の通り。

「続いて彼らは荒野を渡り、ラテン街道に入り、ラヴィニウム(沿岸部、コリオリの西)を奪回すると、コルビオ(場所不明)、ヴェテリア(場所不明)、トゥレビウム(場所不明)、ラビクム(ローマの東)、ペドゥム(ラビクムの北東)を奪取した」。

沿岸部のラヴィニウムから北上して、ヴェテリアを経由してラビクムに至ったことがわかる。ラヴィニウムからラビクムまではかなり距離があり、ヴェテリアの位置は推測できない。ただしアエクイの領土はほぼローマの東にあり、おそらくヴィテリアはラビクムの近くだろう。次の地図ではローマの東にプラエネステがあり、プラエネステの西にラビクム(Labicun)がある。(日本訳注終了)

 

 

ヴィテリアのローマ人は大部分無事だった。夜陰に乗じた卑怯な攻撃がかえって幸いし、植民者はこっそり反対側に逃げ、ローマに向かった。L・ルクレティウスがアエクイの討伐に派遣された。アエクイ軍とローマ軍の戦闘になり、ローマ軍が勝利した。ローマ軍は首都に帰還した。首都ではもっと深刻な試練がルクレティウスを待っていた。かつて二年連続で護民官を務めた A・ヴェルギニウスとQ・ポンポニウスが告発され、裁判の日が定められた。元老院の全議員が二人を守ろうとした。彼らにとってこれは名誉の問題だった。私人としての生活でも、公的な立場においても、二人は何一つ責められる点がなかった。起訴の理由は元老院に気に入られようとして拒否権を行使したことだった。平民の怒りが元老院の影響力を上回り、罪のない二人がそれぞれ10,000アスの罰金を科された。これは最悪の先例となった。元老院は深く落胆した。カミルスは真っ向から平民を批判した。「自分たちの代弁者である護民官を敵のように扱うのは裏切りだ。この不正な判決は護民官から拒否権を奪い、彼らの権力を無効にしてしまった。護民官が節度をを失っても元老院が我慢すると期待するのは考え違いだ。護民官の横暴が同僚の拒否権によって制止されないなら、元老院は別の手段を見つけるだろう」。

同時にカミルスは執政官の責任をも追及した。

「元老院が護民官を操ることは国法の破壊である。執政官はこれを許してはならない」。

カミルスはあからさまな批判を繰り返したので、人々は日を追うごとに彼を嫌うようになった。

【30章】

護民官提出の法案はヴェイイへの移住を制度化するものだったので、カミルスはこれを阻止するよう繰り返し元老院を説得した。「祖国と神々の神殿のために戦う決意がないなら、法案が採決される日に、元老たちは中央広場に行くべきでない。家庭の炉と神殿の祭壇を守らなければならない。私自身についていえば、国家の存立が危うい時、自分の評判を気にするようなら、私が獲得した町が市民の行楽地となってもかまわない。私の記念碑が勝利の日の行進をいつも思い出させ、都市のあらゆるものが私の名声を思い出させてくれるのだから。しかし住民がいなくなり、守護神さえも去ってしまったヴェイイに再び人が住み始めることは天に対する冒とくである。まして、見捨てられた土地にローマ人が移住するなら、勝利したローマが征服された土地となるだろう」。

傑出した人物の訴えを聞いて、元老たちは奮い立ち、老いも若きも法案が採決される民会にやって来た。彼らは分散して各部族のところに行き、自分と同族の人々の手を取り、涙を浮かべながら祖国を見捨てないでくれと懇願した。「祖先と我々はローマのために勇敢に戦い、勝利した」と言いながら、カピトルの丘とヴェスタの神殿を指さし、またその他複数の聖なる神殿を指さした。「ローマ市民を亡命者にしないでほしい。住む家を追われた人々のようにしないでほしい。祖国と家族の神を捨て、敵であった都市へ移住させないでくれ」。

さらに彼らは「ヴェイイを陥落させたのは誤りだった」とさえ言った。「ヴェイイに移住するなどという考えが生まれたのは、ヴェイイを奪取したからだ」。

元老たちは暴力に訴えるつもりがなく、ひたすら懇願し、しばしば神々の名前を引用したので、多くの投票人は宗教的に重要な問題についての選択であると理解した。一つの部族の過半数が反対し、ヴェイイへの移住案は否決された。元老院は非常に喜び、翌日執政官の勧めに従い、ヴェイイの土地を平民全員に分配すると決定した。家族の長ではなく、子供たち一人一人に一定のユゲラ(広さの単位、71mx35m)の土地が与えられることになったので、人々はできるだけ多くの子供を育てるだろうと考えられた。

【31章】

元老院が気前良く土地を与えたので、平民の感情が良好になった。翌年の最高官が執政官と決定されても、平民は反対しなかった。翌年の執政官に選ばれたのは L・ヴァレリウス・ポティトゥスと M・マンリウスだった。マンリウスは後にカピトリヌスという称号を与えられることになる。二人は大競技会を開催した。ヴェイイとの戦争が行き詰っていた時独裁官 M・フリウスが競技の開催を約束したのであるが、ようやく約束が果たされた。またフリウスは女王神ユノーの神殿の建設を誓っていたが、それもこの年実現した。特に女性たちがこの神殿の建立に強い関心を示したと伝えられている。大勢の女性が神殿の周りに集まった。

アルギドゥス山にアエクイ軍が進出し、取るに足らない戦闘が起きた。

(日本訳注;アルギドゥス山はアルバ湖の東側の丘で、ラテン街道がこの丘を通っていた。)

アエクイ兵はローマ軍が近づくと逃げてしまった。ヴァレリウスはとことん追いかけた。元老院はヴァレリウスを凱旋将軍と宣言し、もう一人の執政官マンリウスをも称賛した。

同じ年、ヴォルシニ湖周辺のエトルリア人が戦争を始めた。異常な暑さと干ばつのせいで、ローマの周辺で疫病が流行し、ローマ軍の出動は不可能だった。これを好機と見て、ヴォルシニ湖周辺のエトルリア人は大胆になり、サルピヌム人(ヴォルシニ湖北東の都市)と連合してローマの領土に侵入した。ローマは戦争を宣言した。

(日本訳注)ヴォルシニ湖は現在ボルセナ湖と呼ばれており、ローマの北120km、現在のラツィオ州ヴィテルボ県の北端にあり、北西はトスカナ州、北東はウンブリア州となっている。ヴォルシニ湖周辺に二つのエトルリア都市があり、一つはヴォルシニ湖岸にあり、もう一つは湖の少し北、トスカナ州、ラツィオ州、ウンブリア州の州境にある。この二つの都市と同盟したサルピヌムはヴォルシニ湖の北東のオルヴィエート(ウンブリア州南西部)と推定されている。ヴォルシニ湖周辺の二つの都市と同様、サルピヌムは強大な都市であり、堅固な城壁に守られ、広大な領土を持っていた。サルピヌムはエトルリア連盟に所属していない、独立都市だった。(日本訳注終了)

査察官 C・ユリウスが死んだ。M・コルネリウスが査察官に任命されたが、彼の在任中にローマが占領されたので、彼の任命には宗教的な誤りがあったと考えられた。これ以後死者の部屋で査察官を任命することはなくなった。

執政官が二人とも疫病にかかったので、暫定執政官が新たに神意を占うことになった。元老院の決定に従い執政官が辞任し、M・フリウス・カミルスが暫定執政官に任命された。カミルスは P・コルネリウス・スキピピオに暫定執政官の職を譲った。コルネリウスは L・ヴァレリウス・ポティトゥスに職を譲った。ヴァレリウスは6人の執政副指令官を任命した。最高官が6人いれば、全員が病気で倒れる危険が少ないからである。

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5巻26-28章

2023-11-19 07:19:46 | 世界史

【26章】

執政副司令官の選挙において、貴族は M・フリウス・カミルスを当選させようと努力し、成功した。近いうちに戦争が起きそうなので、有能な将軍が必要だと彼らは主張した。しかし内実は、腐敗した護民官に対抗できる人物が必要だったのである。カミルス以外の執政副司令官は 以下の4人だった。L・フリウス・メドゥリヌス(6回目の就任)、C・アエミリウス、L・ヴァレリウス・プブリコラ、S・ポストゥミウス、P・コルネリウス(2回目の就任)。

護民官は最初おとなしくしていた。カミルスがファリスク人との戦争に出かけてしまうと、チャンスが生まれたが、出鼻をくじかれた護民官はやる気を失っていた。彼らはカミルスを非常に恐れていた。彼らの敵カミルスはファリスク人に勝利した。ファリスク人は安全な作戦を選び、城壁に頼り防衛に専念した。しかしローマ軍が畑を荒らし、農家を焼き討ちすると、彼らは城外に出てきた。とはいえ遠くへは行かず、城の1マイル(1.6km)のところに、陣を敷いた。場外ではあったが、その場所は接近が困難で比較的安全だった。周辺一帯が荒れ地で、ところどころ大きく陥没し、道路は非常に狭い場所がり、崖もあった。カミルスは捕虜に周辺の様子を聞き、さらに道案内させた。カミルスは真夜中に陣地をたたみ、夜が明けると、町を見下ろす高台にローマ軍を導いた。別動隊は塹壕を掘り、本隊は戦う準備をした。塹壕を掘っていると、敵は邪魔しに来たが、ローマ兵は彼らに襲い掛かった。ファリスク兵はパニックにおちいり、逃げ出した。彼らは陣地で抵抗する気力もなく、城内に逃げ帰った。しかし城門に逃げこむ前に多くの兵が殺され、負傷した。ローマ兵は敵の陣地を奪取し、戦利品を獲得した。カミルスは戦利品を売却し、売上金を財務官に渡した。兵士たちは非常に怒ったが、カミルスの厳格な処罰を恐れて、何も言えなかった。兵士たちは厳正なカミルスを憎んでいたが、同時に尊敬していた。

ローマ軍は次にファリスク人の町を包囲し、通常の攻城設備を建設した。ファリスク兵はチャンスをうかがい、ローマ軍の前哨地点を攻撃してきた。それでしばしば小競り合いとなった。時間がたつにつれ、どちらの軍も勝利が遠のいた。ファリスク人はあらかじめトウモロコシなどを備蓄していたので、ローマ軍より、食料の心配がなかった。ヴェイイ戦の時と同じように、包囲は長引くように思われた。しかし幸運にも、カミルスの偉大な精神を発揮する機会が訪れた。彼の能力は以前の戦争で証明済みであり、彼は今回も勝利を手に入れた。

【27章】

ファリスク人は子供の監督と世話をする人間を雇っていて、ちいさな男の子たちは数日間彼のもとに預けられた。現在でもギリシャ人の間に同じ習慣がある。身分の高い家庭の子供たちの教育は、学識があると評判の教師にまかされていた。平和な時代には、この教師は子供たちを市外に連れ出し、運動や競技をさせていた。彼は戦争が始まっても、この習慣をやめなかった。城門に近い場所を選ぶこともあれば、遠くに行くこともあった。良い場所を見つけると、男の子たちはいつもより長く運動したり、会話をした。ある時彼らはローマ軍の前哨地点の近くに来た。教師は子供たちをローマ軍の陣地に連れて行くと、本部のテントにまで行き、カミルスに面会した。これだけでも悪党の行為なのに、さらにひどい言葉を発した。「ファレリー(ファリスク人の最大の都市)はすでにローマに征服されたので、ファレリーの為政者たちの子供たちもローマの支配下にあります」。

教師に対し、カミルスは言った。「恥知らずな奴め。お前はローマという国家そしてその司令官がお前と同類だと考えたのか。ローマは裏切り者など祖相手にしない。あさましい申し出をしても無駄だ。ローマとファリスク人の間に正式な外交関係がない。お互いに赤の他人だ。しかし同じ人間として最低限の共通性があり、我々ローマ人はそれを前提に行動するだろう。戦時ににおいても平時においても正当な権利が認められている。戦争において、我々は勇気だけでなく正義を重視してきた。我々は子供を傷つけない。町を占領した時でも、子供を敵と見なさない。武器を持った人間しか相手にしない。我々が挑発も攻撃もしていないのに、ヴェイイ戦の時でも、我が陣地を襲撃した奴らが我々の敵だった。ヴェイイは前例のない卑劣さで勝利を得た。我々はそのような連中を許さない。卑劣なファリスク人はヴェイイと同じ運命をたどるだろう。我々は特別な作戦によってヴェイイを滅ぼした」。

カミルスは教師を裸にし、後ろ手に縛ると、子供たちに引き

渡した。彼は子供たちに棒を与え、「裏切りを懲らしめなさがい」と言った。子供たちは教師をなぐりながら、ファレリーに帰った。この様子を見ようと、ファレリーの市民が集まってきた。ファレリーの高官たちは元老院を招集し、異常な事件について話し合った。ローマの仕打ちを憎み、怒りが頂点に達した元老もいた。彼らはいきり立って言った。「たとえヴェイイのような結果になろうと、ローマと最後まで戦おう」。

しかし最後には彼らでさえ、平和を求める大多数の市民の側に回った。すでにカペナは降伏していたので、ファレリーの市民は降服に傾いていた。ファレリーの元老院や広場では、名誉を尊ぶローマ人と正義を愛する将軍についての話でもちきりだった。市民全員の希望により、ローマ軍の陣地にいるカミルスへ使節を派遣することになった。カミルスに降服を願い出るためだった。またカミルスの許可を得て、ローマの元老院に降伏を申し出るためだった。

ファレリーの使節たちはローマの元老院に紹介されると、次のように述べたと伝えられている。

「元老院の皆様。我々はローマの将軍に敗れました。あなたがたに降伏を申し出ます。戦いの結果につては、いかなる神も予測できず、人間にはなおさら不可能です。我々はローマの支配を受け、ローマの法律に従う方がよいと考えました。敗者を支配下に置くことは勝者にとって最大の栄光です。この戦争を通じて、人類の救いとなる前例が生まれました。ローマ人は勝利より名誉を重んじました。我々はローマの精神に打ち負かされので、進んで敗北を受け入れることにしました。我々はあなたがたに従います。武器を引き渡し、人質を差し出します。城門を開き、都市をあなた方に明け渡します。我々の忠誠心が揺らぐことはありません。我々はローマの支配に満足するでしょう」。

最後に使節たちはカミルスに感謝した。もちろんローマの人々もカミルスに感謝した。ローマはこの年の兵士の給与をファリスク人に払わせた。ローマの人々に戦争税を負担させないためだった。和平が実現し、ローマ軍は首都に帰還した。

【28章】

カミルスは正義感と信念により敵を屈服させた。白馬に引かれた馬車で帰還した時より気高い栄光に包まれ、彼はローマに帰った。黄金の深皿はまだデルフィに送られていなかった。カミルスの無言の批判に耐えられず、元老院はに黄金の深皿をギリシャに届けることにし、三人の使者を任命した。 L・ヴァレリウス、 L・セルギウス、A・マンリウスがカミルスの代理として、黄金の深皿をアポロに献呈することになった。しかし三人の乗った船はシチリア海峡付近で、リーパリ島を根城とする海賊に襲われ、彼らの島に連れていかれた。この島の海賊は国家が運営しており、略奪による収益は島民に分配された。ティマスティテウスがこの年の最高官だった。この人物は島民の中では異色であり、むしろローマ人に似ていた。彼はローマの使者

たちの名前を知っていて、人柄と地位を尊敬していた。また彼らがアポロへの贈り物を運んでいることを知っていたので、島の人々に訓戒した。島民は宗教的な勤めのように指導者の言うことを受け入れた。使者たちは迎賓館に案内さた。いよいよ出発となり、護衛の船数隻に伴われ、デルフィへ向かった。帰りも護衛の船に守られながら、使者たちは無事ローマへ帰った。リーパリ島の指導者とローマの間に友好関係が生まれ、ローマはティマスティテウスに贈り物をした。

この年アエクイと戦争になり、勝敗があいまいなまま終わり、ローマ軍も市民も自分たちが勝ったのか負けたのかわからなかった。ローマ軍を指揮していたのは、二人の執政副司令官、C・アエミリウスとスプリウス・ポストゥミウスだった。最初二人は共同で指揮していたが、敵が敗走したので、アエミリウスはヴェッルゴを奪取し、ポストゥミウスは郊外を略奪することにした。

(日本訳注)ヴェッルゴはヴォルスキの町あるいは村。場所

不明。紀元前445年ローマがここを占領し、砦を築いた。しかしローマの前進基地はヴォルスキにとって目障りであり、彼らは砦を奪った。ローマはこれを取り返し、ローマとヴォルスキが争奪を繰り返した。(日本訳注終了)

ヴォルスキが敗走したので、ポストゥミウスは少し油断していた。彼の兵士たちは勝手に略奪をした。すると突然アエクイが攻撃してきて、ローマ兵はパニックに陥り、慌てて近くの丘に逃げた。ヴェッルゴのローマ兵も不安になった。丘の上は比較的安全だった。ポストゥミウスは兵士たちを集め、彼らに訓戒した。「驚いて逃げるるとは何事か。相手は負けてばかりいる臆病者ではないか」。

兵士全員が司令官の叱責はもっともだと納得した。彼らは恥ずべき失態を後悔した。彼らは失敗を取り返すことを誓った。「敵が喜ぶのもつかの間だ」。

兵士たちは「ただちにアエクイの陣地を攻撃しましょう」と進言した。丘から見おろすと一面の平野であり、その中にアエクイの陣地が見えていた。あの陣地を夕方までに攻略できなければ、どんな厳罰もやむを得ない、と兵士は覚悟を決めた。司令官は兵士たちの士気をほめた。「一休みしたら、四時までに戦闘の準備をせよ」。

一方アエクイはローマ兵を軽く見ており、ローマ兵は夜の間に逃げるだろうと考えていた。アエクイの兵士たちはヴェッルゴへ至る街道に行き、ローマ兵を待ち伏せることにした。彼らが街道に向かった時、まだ夜が明けていなかったが、一晩中月明かりがあり、彼らの動きはよく見えた。

戦闘が始まると、叫び声がヴェッルゴまで聞こえ、ローマ兵はポストゥミウスの部隊の陣地が攻撃されと思った。兵士たちは分散して逃げ出し、トゥスクルムに向かった。司令官アエミリウスは必至で引き留めようとしが、無駄だった。ポストゥミウスの部隊が全滅したという噂がローマに伝わった。

ポストゥミウスは夜が明けるのを待つつもりだった。暗い中で敵を遠くまで追撃するなら、待ち伏せの危険が高かったからである。しかし兵士たちの戦意が高く、ポストゥミウスは攻撃開始を命令した。ローマ軍が猛烈な勢いで襲い掛かったので、アエクイ軍はひとたまりもなかった。逃げ惑う兵士が殺戮された。勝者の勇気より怒りが勝っている場合の常であるが、アエクイ兵は一人残らず命を失った。トゥスクルムから悲観的な情報がローマに届き、市民は不安になった。間もなく、ポストゥミウスの急使がやって来て、ローマ軍の勝利とアエクイ軍の全滅を伝えた。

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