たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

6巻22ー24章

2024-07-30 07:21:39 | 世界史

【22章】
翌年の執政副司令官 Sp・パピリウスと L・パピリウスは軍隊を率いてヴェリトラエに向かった。残りの執政副司令官 Ser・コルネリウス・マルギネンシス、Q・セルヴィリウス、C・スルピキウス、L・アエミリウスはローマに残り、首都の防衛にあたった。エトルリアの各地で戦争の動きあり、彼らに備えななければならなかったからである。ヴェリトラエに集まっていた兵の中で、反乱した植民者より、プラエネステからの応援兵が多かった。ローマ軍はただちに彼らを攻撃し、勝利した。戦場はヴェリトラエから近かったので、彼らは早い段階で唯一の避難所である城内に逃げ込んだ。ローマの二人の司令官はヴェリトラエを攻撃しなかった。成功しそうになかったし、ローマの植民地を破壊したくなかったのである。戦地からローマへ派遣された伝令は「我々はヴェリトラエ兵よりプラエネステ兵を多く殺害した」と語った。この報告を聞いて、元老院はプラエネステとの戦争を決定し、市民も同意した。翌年プラエネステ軍はヴォルスキ軍に合流し、サトゥリクムのローマ植民地を急襲し、植民者の執拗な抵抗にもかかわらず、植民地を占領した。勝者となった彼らは残虐にふるまった。この事件を知って、ローマの市民は歯ぎしりした。
   (日本訳注:サトゥリクムはローマの南東60km、ポンプティン地方の内陸の町。ティレニア海沿岸の都市アンティウムの東。サトゥリクムはラテン人のアルバ王国によって建設されたが、紀元前488年ヴォルスキに征服された。紀元前386年ローマはサトゥリクムを奪取した。)
M・フリウス・カミルスが6回目の執政副司令官に選ばれた。残りの執政副司令官は A・ポストゥミウス・レギレンシス、L・ポストゥミウス・レギレンシス、L・フリウス、L・ルクレティウス、M・ファビウス・アンブストゥスだった。元老院の特別命令により、フリウス・カミルスがヴォルスキ戦を指揮することになった。彼の副将はくじ引きで L・フリウスに決まった。L・フリウスはカミルスの名声をさらに高めるのに政治面で貢献した。性急なマンリウスが起こした騒動により、国家の威信は地に落ちていたが、副将フリウスは国家の威信を取り戻した。カミルスは高齢だったので、執政副司令官に就任するのを辞退しが、市民は受け入れなかった。年齢にもかかわらず、カミルスの胸は力強く鼓動動しており、視覚や聴覚も衰えていなかった。彼は国内の政治を注視していたが、戦争が始まると彼の関心はそちらに移った。4つの軍団が編成された。一個軍団は4000人の兵士からなっていた。翌日ローマ軍はエスキリン門(東側の門)に集合し、サトゥリクムに向かって出発した。サトゥリクムを占領した敵は自分たちの人数が多かったので自信満々で、ローマ軍を待ち受けていた。ローマ軍が近づいてくると、彼らはすぐに迎え撃った。彼らはできるだけ早く決着をつけるつもりだった。そうすれば人数の少ないローマ軍は指揮官が作戦する間もなく敗れるだろう、と考えた。ローマ軍の強みはは優秀な指揮官だけだからである。
【23章】
一方で、ローマ軍とカミルスの副将も闘志に燃えていた。ローマ兵は正将カミルスの用心深さと権威を信じ、何も恐れず猛攻するつもりだった。カミルスの作戦は戦闘を長引かせ、その間に巧妙な戦術を使用し、ローマ兵の強さを勝利に結びつけることだった。ローマ軍は自信がないと見て、ヴォルスキ軍とプラエネステ軍は執拗にローマ軍を攻め立てた。彼らは自軍の陣地の前で戦いを開始したが、数の優勢を頼みに、平原の中央にまで進み出てローマ軍の塹壕にまで軍旗を進めた。敵がローマ軍をなめているので、ローマ兵は怒った。 副将の L・フリウスはもっと怒った。彼は若く気性が激しく、兵士の絶望に影響された。兵士たちの士気に陰りが見えた。彼はカミルスの唯一の弱点である年齢をあてこすりなながら、兵士を勇気づけた。「戦場の主役は若者である。体力が頂点の時、勇気は頂点に達し、体力が失われると、勇気も失われる。かつてカミルスは最も優秀な戦士だったが、現在は臆病だ。昔の彼は戦場や敵の城壁に近づくと、直ちに攻撃し、勝利したものだが、現在はぐずぐずしている。時間をかければ、我が軍の戦力が増し、敵の戦力が減少するというのか。いかなる好運、いかなる時期、いかなる場所で彼は作戦を実行するつもりなのか。あの老人の計画のせいで、多くの兵士が失われるだろう。彼は軍隊の名誉を共有するだけでなく、兵士の損失に責任がある。国家の軍隊の運命を衰弱した老人に委ねることで、何が得られるだろう」。
陣地の兵士たちはの副将 L・フリウスの考えを受け入れ、多くの部隊が戦闘開始を要求した。そこで副将はカミルスに言った。「兵士の猛烈な戦意を抑えられません。我々が出撃をためらったので、敵は我々を完全に見下し、勢いを増しました。あなたの作戦に、全員が反対しています。兵士全員の考えを受け入れてください。さもなければ我々は敗北します」。
カミルスは答えた。「今日まで私は唯一の指揮官として行動してきた。私の能力と幸運を疑う者はいなかったし、私も自分の能力が低下したとは考えていない。私と同等の権限と地位にあるあなたが、私より体力があり、活動的なことを、私は知っている。私は命令するのに慣れていて、命令されるのが嫌いだ。しかしあなたは私の同僚であり、私はあなたの権威を否定しないし、邪魔するつもりもない。あなたが最善と考えることやらせてみよう。天が応援してくれるだろう。私は老人なので、前線から下がらせてもらいたい。私は老人であるが、戦闘において任務を果たすことができるし、不足するものはないと自分では思っているが、あなたにやらせてみよう。私の作戦が最善だったということにならないよう神々に祈る」。
兵士たちはカミルスの有益な助言を受け入れなかった。また、不滅の神々は愛国的な彼の祈りを聞き入れなかった。副将 L・フリウスに率いられ、兵士たちが陣地から撃って出ると、どんどん前に進んだ。カミルスは強力な予備部隊を陣地の前に置き、小高い丘の上から心配そうに戦況を見つめた。
【24章】
両軍が衝突すると、敵軍は後退し始めた。敵はローマ軍を恐れたわけでなく、これは作戦だった。彼らの後方はヴォルスキの陣地に向かってゆるやかに上り坂となっていた。彼らはは人数に余裕があったので、陣地に数個大隊を残しておくことができた。(一個大隊=480人)
数個大隊は伏兵であり、戦闘が始まり、ローマ軍が彼らのほうに近づいてきたら、飛び出すつもりだった。ローマ軍は敵を追いかけ、隊列を乱しながら上り坂に近づいた。チャンスと見て、伏兵の数個大隊が攻撃を開始した。勝っていると思い込んでいたローマ軍は新しい敵の出現に驚き、また上り坂の戦いで不利となり、後退し始めた。伏兵の数個大隊は容赦なく攻め続けた。間もなく、戦術的な後退をした本隊も攻撃を開始した。ローマ軍は総崩れとななり、少し前まで意気盛んだったことを忘れ、ローマ軍の栄光ある伝統を忘れ、散り散りになって逃げ出した。多くの兵がローマ軍の陣地へ向かって逃げた。カミルスは周囲の兵士に助けられながら馬に乗ると、予備の部隊を連れ出し、逃げ戻ってきた兵たちをひき止めた。カミルスは彼らをしかりつけた。「あれだけ勇ましく始めた戦闘の結果がこのあり様だ。これは誰の責任か。いかなる神の責任か。ほかでもない、諸君の向こう見ずな考えが原因だ。そして諸君は今や臆病だ。この瞬間から私が諸君の指揮官だ。ローマ兵であることを思い出し、勝利するのだ。陣地の防壁を頼りにするな。勝利するまで、私は誰も陣地に入らせない」。
兵士たちは自責の念に駆られ、逃げるのをやめた。予備部隊の旗手が走り出し、隊列が敵に向かって前進するの見て、彼らは反省し、互いに励ましあった。指揮官のカミルスは老人にもかかわらず、危険な最前線に出た。これを見て、兵士たちは戦場に響き渡るような掛け声を上げた。カミルスは百戦百勝の戦歴を持つ名将であり、年をとっても精神は変わっていなかった。副将 L・フリウスは不要になった。カミルスの命令により、フリウスは騎兵を指揮することになった。歩兵が総崩れの状態では、騎兵の出番はなく、フリウスは騎兵たちを叱責しなかった。フリウスは歩兵の指揮に失敗したので、もはや権威がなかった。彼は弱々しい声で騎兵全員に「作戦の失敗を許してくれ」と言った。「カミルスの反対を押し切って、私は兵士たちの向こう見ずな考えに同調してしまい、カミルスの慎重な作戦を無視した。カミルスは最悪な戦況においても、兵士たちに勇気を与えることができる人間だ。もしこの戦争が失敗に終わったら、私は諸君たちと一緒に惨めな敗北にうちひしがれるだろう。その責任は私一人が負うことになる。歩兵が逃げ腰なので、騎兵が戦うしかない。馬を降り、歩兵として戦ってくれ」。
槍を持ち、際だって勇敢な騎兵が出撃すると、戦場ではローマの歩兵は全面的に後退しいた。騎兵の将校も配下の騎兵も競って決然と、勇敢に戦った。彼らのたゆまない勇気が結果となって表れた。少し前までローマ兵に恐怖を与えてていたヴォルスキ兵はうろたえ、逃げだした。戦闘中において、また逃げる段階で、多くのヴォルスキ兵が殺された。ローマの騎兵はヴォルスキの陣地を襲撃し、ここでもヴォルスキ兵が殺された。

 

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6巻19-21章

2024-07-16 05:02:19 | 世界史

【19章】
元老院は個人の家で集会が開かれていることを問題視した。M・マンリウスの家はカピトルの丘にあり、丘の安全が脅かされているからである。元老の多くがセルヴィリウス・アハラのような人物が必要だと感じた。かつてアハラは危険人物を投獄するのではなく、殺害することにより内乱を終わらせた。しかし元老院は極端な処置を避け、表面的には穏健だが実効性のある決定をした。マンリウスの危険な計画が社会に害を与えないよう、最高官に対策を考えさせたのである。元老員の決定に従い、執政副司令官と護民官が集まり、必要な対策について話し合った。護民官はマンリウスの独裁者者的な性格を恐れれていた。市民は自由を失い、護民官の地位も廃止されるからである。それで護民官は元老院の決定を前向きに受け入れた。協議の参加者は武力行使と流血以外の手段を思いつかなかったが、そのようなやり方は恐るべき内戦に発展しかねなかった。二人の護民官、M・メネニウスとQ・プブリウスが発言した。「国家と危険人物の争いを貴族と平民の内戦にしてはならない。我々が平民と戦う必要はない。平民がマンリウスと敵と見るようにすればよい。平民の期待を膨らませたことが裏目に出て、マンリウスは自滅するだろう。まず裁判の日を決めるのです。平民はマンリウスが国王になるのを望んでいます。裁かれるのがマンリウスだとわかれば、群集はマンリウスを支持するのをやめ、裁判で有罪にするでしょう。貴族の一人が国王になる野心を抱いたために裁かれるのを見て、群集は自分たちの自由が失われかけたことに気づくでしょう。誰かに期待することの危険を知るでしょう」。
【20章】
話し合いの参加者全員が賛成し、マンリウスの裁判の日が決まった。これを知って
平民は動揺した。マンリウスは貴族仲間からから見捨てられ、親戚からも見捨てられ、いつも一人で、喪服姿で歩いていた。奇妙なのはマンリウスの二人の兄弟、アウルス・マンリウスとティトゥス・マンリウスが喪服を着ていたことだった。誰かが重罪で裁かれる時、彼の兄弟が喪服を着ることはなかった。アッピウス・クラウディウスが投獄された時、彼の敵であったカイウス・クラウディウスとクラウディウス家の全員が喪服を着たことを人々は思い出した。そして彼らは考えた。「マンリウスを裁判にかけるのは、大衆にとっての英雄を破滅させる陰謀だ」。
マンリウスは貴族でありながら、平民の側に移った最初の人だった。裁判が始まったが、反逆罪の証拠は提示されなかったようである。自宅で集会を開いただけでなく、反乱を呼びかける発言、黄金についての虚言が証拠とされたという記録は存在しない。にもかかわらず彼が重罪を宣告されたことは確かである。人々が裁判の結果を恐れたのは、マンリウスの行動が重罪に値したからではなく、裁判が特別な場所でおこなわれたからである。英雄的で偉大な行動をした者であっても、国王の権力を得ようとすれば、すべての功績を否定される。また人々から呪われるということを、マンリウスの裁判は教えている。
裁判が始まると、マンリウスは400人の市民に無利子でお金を貸したと語った。「そのおかげで、彼らは債権者に引き渡されれずにすにすみ、奴隷として売られずにすんだ」。続いてマンリウスは軍事的功績を数え上げ、殺害した30人の敵兵の遺品を証拠として差し出した。また40人の司令官から与えられた褒賞品を提示した。その中には守護神を象徴する王冠2個と軍功のあった兵士に与えられる王冠8個があった。さらに彼は市民たちを敵兵からから救ったと語った。その中には騎兵長官、C・セルヴィリウスがいると語ったが、セルヴィリウスは証人として出廷しなかった。マンリウスは戦場における功績を中心に彼の遠大な目的にふさわしい演説をした。彼は時折胸をたたき、輝かしい表現で自分の功績を語った。戦場で受けた傷の跡が荘厳に見えた。彼は繰り返しカピトルの丘を見上げ、危機にある自分を助けてくれるよう、ユピテルと他の神々に願った。自分が最悪の状態にある時、かつて自分に勇気を与えた神々がローマ市民に勇気を与えるよう、彼は祈った。最後に彼は審判員全員に呼びかけた。「カピトルの丘をしっかり見て、不滅の神々を見ながら、判決してください」。
兵役経験者はマルティウスの練兵場に集まり、百人隊ごとに判決しようとしていた。マンリウスを擁護する市民はカ後ろを向いてカピトルの丘に向かって手を伸ばし、神々に祈った。マンリウスの英雄的行為を思い出させる丘が見えないようにしない限り、これらの人々の呪縛を解けない、と護民官は思った。兵役経験者の頭はマンリウスの英雄的な行為と善行でいっぱいで、マンリウスに有罪の投票をするはずがなかった。投票は翌日に持ち越された。兵士経験者はフルメンタン門(北端の門)の外のぺテリンの森に集められた。この場所から、カピトルの丘は見えなかった。
  (日本訳注:これまで北端の門といえば、コリナ門であったが。コリナ門と対をなす形で、フルメンタン門があった。東にコリナ門、西にフルメンタン門である。フルメンタン門は現在のポポロ門である。)
カピトルの丘が見えない場所の集会でマンリウスの有罪が確定した。人々はマンリウスの訴えに心を閉ざし、恐ろしい刑を票決した。審判員である市民にとってぞっとする判決だった。信頼できる記録によれば、実は市民が票決したのではなく、反逆罪を裁くため二人の特別裁判官が任命され、彼らの決定に従い、護民官がマンリウスをタルペイアの崖から投げ落としたのである。マンリウスの比類ない栄光の場所であった崖が、彼の処刑の場所となった。彼の死後、二つの汚名が彼に与えられた。まず国家が彼を人非人として扱った。マンリウスの家はお金の神ユノーの神殿と硬貨の鋳造所の近くにあったので、今後貴族はカピトルの丘と砦に住んではならないことになった。次にマンリウスの親族が彼の名前を忌み嫌い、今後生まれる子供はマルクス・マンリウスという名前にしてはいけないと決めた。これがマンリウスの最後だった。自由な国に生まれなければ、彼は偉大な人物として人生を終えたかもしれない。暴君が誕生する危険がなくなると、人々は、マンリウスの良い点だけを思い出し、彼を失ったことを残念に思った。間もなく、疫病が流行し、多くの市民が死んだ。疫病の原因はわからなかったが、多くの人がマンリウスを処刑したからだと思った。カピトルの丘はマンリウスの血で呪われている、と彼らは考えた。「神々は目の前でマンリウスが処刑されるのを見て、不愉快に違いない。マンリウスは神々の神殿を救ったのだから」。
【21章】
疫病の後ローマは食料が不足した。二つの災難を経験した市民たちの間で、来年は複数の戦争が起きるという噂が広まった。年末に執政副司令官が選ばれた。L・ヴァレリウス(4回目の就任)、A・マンリウス、Ser・スルピキウス、L・ルクレティウス、L・アエミリウス、M・トレボニウスが選ばれた。マンリウス、スルピキウス、ルクレティウス、アエミリウスは3回目の就任だった。
ヴォルスキに加え、複数の敵が戦争を開始した。ヴォルスキはたえずローマ軍を訓練連する運命にあるみたいだった。キルケイとヴェリトラエの植民者は以前から反乱を企てていたし、ラテン人は信用できなかった。ラヌヴィウムはラテン都市の中で最もローマに忠実だったが、突然反乱した。(ラヌヴィウムはアルバ湖の真南、ヴェリトラエの西)。
戦争のきっかけはヴェリトラエの植民者が反乱後、長い間罰せられていないことだった。ヴェリトラエの植民者はヴォルスキ人だったので、本国のヴォルスキ人がローマを見下したに違いないと元老院は考えた。元老院はこれらの敵に対しただちに宣戦布告すると決定し、国民に同意を求めた。平民の同意を促すために、ポンプティン地方とネペテの土地の分配にあたる委員が任命された。ポンプティン地方の土地の割り当てに5人のの委員が、ネペテに植民地を設定するために3人の委員が決まった。この計画が市民に伝えられると、護民官は反対したが、全部の部族が戦争に賛成した。戦争の準備が一年近く続けられたが、疫病の被害が大きく、軍隊は出発できなかった。戦争の遅れを利用してヴェリトラエのヴォルスキ人植民者たちは元老院をなだめようと考えた。彼らの多くがローマに使節を送り、許しを求めることに賛成した。しかし、しばしば国家の利益は一部の人々の利益と結びついており、反乱の指導者たちはローマの許しと引き換えに自分たちがローマに引き渡されるを恐れて、植民者たちの平和の願いを押しつぶした。反乱の指導者たちはローマに使節を送らないよう長老たちを説得しただけでなく、ローマの領土に侵入し、略奪するよう、多くの平民にけしかけた。この敵対行為により和平の望みは消えた。またこの年、プラエネステが初めてはローマに反乱した。(プラエネステはローマの東35km、現在のパレストリーナ)
トゥスクルム、ガビニー、ラビクムはローマに応援を求めた。これらの町は以前にも侵略されていた。しかしローマの態度は冷たかった。ローマは援軍を送る余裕がなかったので、元老院は3つの町の訴えを信じようとしなかった。
  (ガビニーはガビーのことで、ローマの東18km。トゥスクルムはアルバ湖の北。ラビクムはトゥスクルムの北北東)

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