【52章】
この年は護民官がおとなしくしていたので、国内の混乱はなかった。翌年の執政官は Q・ファビウス・アンブストゥスと C・フリウス・パキルスだった。年の初めに、護民官 L・イキリウスが市民を煽動した。市民を煽動することがイキリウス家の人間の任務と彼は考えているようだった。彼は土地問題に関して提案を発表した。しかし疫病が発生し、人々の間に死に対する恐怖が広まり、中央広場において政治闘争をやっている場合ではなかった。人々は病気の家族ことで頭がいっぱいで、病人の看病で忙しかった。貴族階級にとっては、疫病のほうが土地改革より我慢できた。死者がまだ少ないうちに、ローマ市民は疎開した。飢饉のため農耕ができなかったので、翌年飢饉が発生した。これはしばしば起こることだった。新しい執政官は M・パピリウス・アトラティヌスと C・ナウティウス・ルティルスだった。飢饉は疫病より深刻な被害をもたらすと考えられたので、執政官は穀物の輸入を決定した。海岸に面したエトルリア諸都市とテベレ川沿岸のエトルリア諸都市に穀物買い付け人が派遣され、食料不足は緩和された。カプアとクマエを占領していたサムニウム人はローマの買い付け人に対し無礼なことを言って、交渉を断った。これとは対照的にシチリアの僭主はローマに寛大な援助をした。テベレ川を下って運ばれた穀物が最も多かった。疫病の結果、執政官は買い付け人を獲得するのに苦労した。それぞれの都市に一人の元老しか派遣できなかった。元老に同行した騎士も二人だけだった。疫病と飢饉の二年間、国内紛争はなく、外国との戦争もなかった。しかし疫病と飢饉が集結すると、いつものように国内紛争が再開し、外国との新しい戦争も始まった。
【53章】
翌年の執政官はマンリウス・アテミリウスとC・ヴァレリウス・ポティトゥスだった。アエクイが戦争を準備し、これにヴォルスキの志願兵が加わった。ヴォルスキは国家としては戦争に参加せず、志願者だけの参加だった。アエクイ軍とヴォルスキ志願兵がラテン人とヘルニキ族の領土に侵入したという報告がローマに届くと、執政官ヴァレリウスは徴兵を開始した。すると土地法を提案した護民官 M・メネニウスが徴兵を妨害した。護民官の保護下にあった平民は徴兵に応じなかった。この時、カルヴェントゥムの砦が占領されたという知らせが突然届いた。
(日本訳注;カルヴェントゥムという町はプラエネステの近くにあったことことしかわからない。プラエネステはローマの東35km)
元老院はこの屈辱的な事件をメネニウスに対する憎悪をかき立てるチャンスととららえた。メネニウス以外の護民官たちは土地法に反対しており、この事件は土地法に対して拒否権を行使する強い根拠となった。こうした逆風の中でもメネニウスは引き下がるつもりはなく、元老院と彼の間で激しい議論となった。両者の議論は果てしなく続いた。元老院は砦の占領と財産と人命の損失を指摘してメネニウスを批判した。「徴兵が妨害されたために、ローマは敗北した。この敗北と今後の敗北の全責任はメネニウスにある」。
メネニウスは大声で反論した。「ローマの国有地を不法に占拠している人たちが土地を返却するなら、私は徴兵の邪魔をしない」。
9人の護民官が執政官への支持を正式に表明した。
「護民官の一人が徴兵に反対しているが、我々護民官団は徴兵に賛成である。軍役を拒否した者に対し、執政官が罰金その他の処罰を課すのは当然である」。
護民官の保護を期待して徴兵を拒否していた市民は少数だったが、執政官は護民官団の決定を背景に、彼らの逮捕を命令した。残りの市民は恐れをなし、兵役を受け入れいた。ローマ軍はカルヴェントゥムの砦まで進むと、すぐに砦を奪回した。砦の奪回が容易だったのはアエクイの将軍たちの怠慢によるよるものであり、守備兵がほとんどいなかった。守備兵の多くが砦を抜け出し、略奪に出かけていた。絶え間ない略奪により獲得された大量の戦利品が砦に集積していた。執政官はこれらの戦利品を売却し、財務官がその収益を国庫に収めると決定した。執政官は付け加えた。「今後の戦いに参加した兵士に収益の一部が支払われる」。
この言葉を聞いて、平民の兵士たちの怒りが限界に達した。彼らはおとなしく従軍したものの、内心では執政官を嫌っており、怒ってもいた。
砦の奪還に成功した執政官に、元老院は賛辞を贈った。ローマ軍が首都に帰還すると、兵士たちは執政官を侮辱する言葉を合唱した。これは大変無軌道な行為だったが、珍しいことではなかった。護民官メネニウスは兵士の合唱のあいまに兵士を激励する言葉を発した。メネニウスが叫ぶたびに、見物人たちは喜びと称賛の声を上げ、兵士の声がかき消されるほどだった。人々が集まってきて群衆となった。兵士の無軌道な言動はよくあることだったので、元老院はそれほど心配しなかったが、多くの見物人がメネニウスへの支持を熱狂的に表明したので、元老院は不安になった。もしメネニウスが執政副司令官に立候補するなら、間違いなく当選するだろう。元老院はこれを避けるため、翌年の最高官を執政官とした。
【54章】
翌年の執政官に選ばれたのは、クナエウス・コルネリウス・コッススと L・フリウス・メドゥリウスだった。最高官が執政副司令官とされなかったことに、平民はこれまでないほど怒った。彼らは財務官の選挙の際に復讐した。その結果初めて平民の財務官が誕生した。財務官の定員は4人だったが、3人の平民が選ばれ、貴族は一人だけだった。当選した平民は Q・シリウス、P・アエリウス、P・プピウスであり、当選した貴族はカエソ・ファビウス・アンブストゥスだった。
(日本訳注;quaestorは財務官と訳されているが、実は法務官の仕事もしている。紀元前367年に法務官(praetor)という役職が新設されるので、praetorと区別する意味で財務官と訳した。praetorが新設されるとquaestorは下位の役職となった。quaestorを次官と訳すことも可能であるが、紀元前367年に次官補に格下げされるので、混乱する。(日本訳注終了)
平民が三人も財務官に当選し、ローマの高名な家族に属する貴族たちが落選してしまった。ある記録によれば、選挙において平民が独立性を発揮するよう働きかけたのはイキリウス家に人間である。イキリウス家は貴族階級に真っ向から挑戦してきた。イキリウス家の三人がこの年の護民官になっていた。彼らは多くの重要な改革を提唱して、護民官に当選していた。人々は彼らの改革案に大きな期待をかけていた。三人は市民に向かって次のように宣言した。「あなたがたが長年望んできたことを実現するためには、あなたがたの決心が必要である。財務官の選挙において、あなた方が決意を見せないなら、我々は一歩も前進できない。いくつかの法律のおかげで、平民が財務官になることが可能になった。元老院が平民の立候補を認めたのである」。
平民が財務官に立候補できることを、人々は素晴らしい勝利と認めていた。しかしこれはあくまで第一段階にすぎなかった。平民の最終目標は執政官に立候補できるようになることだった。一方で貴族は平民に財務官への道が開かれたことに怒っていた。国家の栄誉の一つを平民に与えることはすべての栄誉を平民に与えることに等しい、と貴族は考えていた。「もしそのようなことが当たり前になったら、子供を育てることが無意味になる。我々の子供たちは我々の父祖が占めた地位に就任できなくなる。他の者たちが我々の父祖の地位を独占し、我々の息子たちはすべての権威と権力から除外されるだろう。息子たちは軍神マルスの神官や他の神官になれなくなり、残された仕事は国民のために生贄をささげることぐらいだろう」。
平民も貴族も興奮し、歯ぎしりした。平民のために戦ってきたイキリウス家の三人が護民官になっていたので、平民は高揚していた。これに対し、貴族も必至だった。貴族にとって財務官の選挙での敗北は衝撃であり、他の官職の選挙も同じ結果になることを恐れた。平民が選挙の主導権を握る時代が来るなら、貴族は滅亡するだろう。彼らは翌年の最高官を執政官とすることを絶対の命題とした。平民は執政官になれなかったからである。これに対し、イキリウス家の三人は翌年の最高官を執政副司令官にするよう要求した。そして三人は言った。「遅かれ早かれ、平民が最高官になる日が来るだろう」。