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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ドネツク市に人民共和国の旗が翻った

2014-10-26 10:34:40 | ウクライナ

                             

                              写真) naver                

 

        <ミンスクで停戦議定書に調印>

     

8月末にウクライナ政府軍は話にならないような負け方をした。ポロシェンコはプーチンに停戦を申し入れ、ウクライナ政府と親ロシア派との間で停戦協定が結ばれた。

9月5日、ミンスクでウクライナ政府と親ロシア派の代表が停戦議定書に調印し、キエフ時間で18時から停戦が発効した。議定書には、当事者と並んで、親露派の保証人としてキエフ駐在ロシア大使が、そして中立の立場の仲介人としてOSCEの代表が署名した。OSCE(欧州安保協力機構)はブレジネフ(ソ連共産党書記長)が冷戦緩和の試みとして提唱し、創設された。ヨーロッパとロシアの対立を調停する組織として機能している。ミンスク停戦後は停戦が守られているかを監視する業務をおこなっている。

 

             <停戦に同意したロシア>

ロシア軍は少数精鋭の部隊で圧倒的な勝利をしたが、ロシアは深入りを避けた。プーチンは神出鬼没のごとく、自軍をさっとひいてしまった。そしてポロシェンコの停戦申し入れを受け入れた。

 

            <これ以上戦えなかった政府軍>

ウクライナ政府は、自軍が壊滅し、戦う力はすでになかったので、停戦する以外に道はなかった。8月末のウクライナ軍の敗北について、NATOの高官が評価を述べた。「もう東部での戦闘は行えないと感じさせる負け方だった」。彼はウクライナ軍の戦闘力の弱さに驚いた。これは、武器の優劣だけの問題ではなく、士気が低いことが根本原因だった。「もう戦えない」というのは、実感だったようである。

 

政府軍について、敵である親ロシア派の指揮官も語っている。「戦う前から逃げ出す兵士も少なくない。戦闘が始まってからも、すぐに戦場から姿をくらましてしまう。戦死者と思われている者の多くが、生きているはずだ。彼らは、単なる逃亡兵だ。捕虜になった者は、我々のところで全員生きている。我々は捕虜に対して適切な対応をしている。来てみれば、わかる」。

 

    <停戦に反対だった親ロシア派>

親ロシア派は闘いを続けたかった。勝っていたので、停戦する理由がなかった。彼らは停戦に不満であった。

ルハンスク人民共和国のプロトニツキー首相は肩書なしで署名し、ささやかな抵抗を示した。また彼は「ウクライナから離脱する方針に変わりはない」とうそぶいた。

         プロトニツキー首相   (写真)Ria Novosti

     

 (説明)ミンスクで、プロトニツキーは長身で堂々とした体格で際立っていた。

        <http://masteru.seesaa.net/article/404939374.html>

ドネツク人民共和国のザハルチェンコ首相もウクライナからの独立を明言した。

またドネツク人民共和国の部隊の指揮官は、停戦に署名したウクライナ政府の代表がクチマ元大統領であることを知ってあぜんとした。クチマは第二代大統領であるが、現在は政府のいかなる地位にもない。

「実際、なんでクチマのよう人間が停戦に署名したのか、さっぱりわからない。停戦の相手がクチマだなんて・・・!」

同指揮官は、こちらはザハルチェンコ首相が署名しているのであるから、政府側はヤツェニュク首相が署名するものと想定していたようである。

 

ウクライナ政府にとって親ロシア派は暴徒であり、鎮圧すべきテロリストであって、議定書を取り交わす相手ではなかった。ウクライナ側は元大統領という権威ある人を代理として送り、誠意を示した。しかし親ロシア派の指揮官はその辺の事情が理解できなかった。

 

以上2回引用した親ロシア派の指揮官とは、ドネツク人民共和国軍第二大隊長のミハイル・トルスティフである。別名ギヴィといい、イロヴァイスクの司令官として有名である。前回の当ブログに彼の写真をのせた。現在彼はドネツク空港での戦いを指揮しているようである。

 

ミンスクでの停戦協定は親ロシア派にとって納得がいかないものであり、しかも自分たちは政府と対等な立場で交渉する資格がない、と思い知らされた。

 

     <事実上独立した親ロシア派>

しかし8月末の勝利によって親ロシア派が勝ち取った地域は、彼らの支配地となった。ウクライナ政府の主権はそこに及ばない。その地の主権者は彼ら親ロシア派である。ドネツク・ルハンスク両州のそれぞれ半分にすぎないが、ドネツク人民共和国・ルハンスク民共和国は存在している。戦いに勝利したものがその地の主権者となる、というのは戦争の掟だ。

 

   <ドネツク市に人民共和国の旗が翻った>

 

      ドネツク人民共和国の旗    itar-tas

            

(説明) これの十数倍の大きさの旗が広場に掲げられた

 

ドネツク人民共和国がドネツク市を奪回したこと、しかしマリウポリとスラビャンスクはまだ敵の支配下にあることをタス通信が伝えている。

 

ーー1019日、ドネツク市の中央広場にドネツク人民共和国の国旗がかかげられた。横30m縦14mのかなり大きな旗である。共和国内のすべての町の人が参加して縫い上げた。最後の仕上げの数針は、北京オリンピックの銅メダリストのデニス・ユーシェンコ等がおこなった。国旗は共和国の各地域の代表によって運ばれ、レーニン広場に入場して来た。

 

<マリウポリとスラビャンスクにも共和国の旗が掲げられるだろう>

 

ザハルチェンコ首相が広場の人々に呼びかけた。「我々はこれまで必死で踏ん張ってきた。これからもずいぶん辛抱しなければならないだろう。しかし我々は団結している。いかなる困難をも乗り越えていくだろう。

 

占領されている3つの都市=マリウポリ・スラビャンスク・クラマトルスクにも、いずれ共和国の旗が掲げられるだろう。そしてドネツクのすべての町に共和国の旗が掲げられる日が来るだろう。」

この日広場に集まったのは約二千人である。ーーー<http://en.itartass.com/world/755218>

 

     ドネツク人民共和国首相ザハルチェンコ

   

(説明)                  BBC

        手に持っているのは、ミンスク停戦議定書

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イロヴァイスクの戦い   強かったロシア軍

2014-10-13 15:02:12 | ウクライナ

      ウクライナの小麦畑            (写真)SEO Japan より

    

      <多くの戦死者を出したイロヴァイスク戦>

  8月25日には、イロヴァイスクを防衛している親ロシア派はわずか100人になっていた。部隊の司令官は語った。「われわれは北方の道からの補給に頼っている。この道は我々にとって生命線だ。」両軍は欠員を補充しながら、決着のつかない戦いを続けていた。この状況が一変し、一週間後にはイロヴァイスクの町と周辺のウクライナ軍は一掃された。まさに劇的であった。イロヴァイスクはドネツク市の南東45km(38マイル)に位置しており、ドネツク市防衛の要地となった。人口15000人の町である。ドネツク市内で戦う親ロシア派への武器・物資・兵員の補給はルハンスクからきており、イロヴァイスクは中継基地となっていた。

 

 ルハンスクからドネツクへの供給線を切断すべく、政府軍は4800人の兵士を投入した。作戦が開始されたのは87日である。主力となったのはドンバス大隊であり、多くの死傷者を出し、司令官も負傷した。ドニプロ大隊・アゾフ大隊・ケルソン大隊がこれに続いた。東部での作戦開始以来の志願兵部隊の死者の四分の一はイロヴァイスクで死んだといわれる。

 

 ( 縮小していた親ロシア派の支配地域  8月末 )  BBC

    

 

(説明)

① 茶色の部分がドネツク州とルハンスク州

②黄色の部分が親ロシア派の支配地域。薄い黄色の部分を失って、濃い黄色の部分だけになっていた。

③ ドネツク空港とルハンスク空港が、黒地ではっきりと示されている。

④ドネツク市の南東にイロヴァイスク(Ilovaisuk)がある。この間の距離は、地図の目盛に従うと約20kmであるが、ヴァイスニュースは45㎞と伝えている。

⑤ ドネツク州とロシアとの国境は政府軍の支配地となっており、ドネツク市とイロヴァイスクはロシアからの補給をルハンスク市に頼っている。

⑥ 下半分の地図は、アゾフ海沿岸を拡大したものである。ロシア軍の助けにより、親ロシア派はノボアゾフスクを獲得し、マリウポリをめざした。親露派は「マリウポリは出発点であり、モルドバを目指す」と豪語したが、10月上旬を過ぎても、マリウポリを確保できていない。

 

      <電線に死体がぶら下がっていた>

 

 親ロシア派が必死で持ちこたえ、政府軍側が攻めあえぐという構図が、825日に一変した。政府軍はまともな抗戦すらできず、一方的に敗北した。あとには数多くの破壊された戦車と兵の死体が残された。破壊された戦車・装甲車の数は68台であり、内戦としてはショッキングな数である。ウクライナ政府は死者の数を87名と発表したが、ウクライナのメディアは、数百名と報じた。

 軍用車両の焼けた残骸がイロヴァイスクから南方32㎞にわたってえんえんと続いていた。兵士の死体は野ざらしになっていた。 イロヴァイスクから32㎞南にある村(ノヴォカテルニフカ)の様子をヴァイスニュースが伝えている。記事の日付は9月5日、ヴァイス=viceは「悪、悪徳」という意味である。

 

ーーー 焼けた死体とエンジンの油のにおいがした。破壊された装甲車のそばに黒焦げの死体が横たわっていた。上方には、電線に死体がぶら下がっていた。死体の手足がだらりと垂れていた。爆破によって上空に吹き飛ばされたのである。装甲車に砲弾が命中し、その連鎖反応で車内の砲弾すべてが爆発したのである。

 

<http://burkonews.info/ato-update-operational-situation-east-ukraine-july-27-1200-utc/>ーーーー

 

     <鷲(わし)が死体をついばんでいた>

 

CNNがドネツク市から南へ50㎞のところにある小さな村から伝えている。

 

ーーーコムソモリスク村では、政府軍は砲撃を受け、敗走した。ロシア軍の正確な砲撃により、装甲車・トラックあわせて15台が破壊された。戦闘後も戦死者は収容されず、死体は放置されたままで、オオカミと鷲(わし)が死体をついばんでいたという。国民防衛軍(=政府軍)が一週間前に、この小さな村に陣地を設けていた。住民は彼らを恐れ、ナチとか傭兵と呼んでいた。ーーーー

 

ウクライナの軍中央はロシア軍の出現を最初に知ったとき、援軍を送った。援軍として兵士だけを送っても、犬死となるだけだった。戦車がまともに戦えず、一方的に破壊される状況では。後にポロシェンコは「新たに兵を徴集するより、強力な武器を手に入れることの方がはるかに重要だ」と述べている。

 

 ウクライナ政府は沈黙しているが、援軍を送ったことは間違いない。CNNが、援軍として送られた兵士について伝えている。逃げ帰ったか、あるいは釈放されたのか不明だが、彼らの表情は暗く、落ち込んでいる様子だった。

 

      <われわれは決然と反撃した>

 

 イロヴァイスクの司令官は「われわれは828日、決然と反撃を開始した」と語っている。「われわれは北と西と東の三方から敵を攻撃した」。「何度も降伏を勧告したが、彼らは降服を拒否した。それで多くの犠牲者が出た。金銭のために戦っている将校が降服を拒否し、兵士たちは強制された。戦闘に不慣れな兵士は目に涙をうかべて死んでいった」。

 

       <明らかになった新事実>

 

 「政府軍は28日、イロヴァイスクから脱出し南方に向かって逃走したが、ロシア軍の待ち伏せに会い、大敗北をこうむった」とこれまで報道されてきた。

 

 しかし新たな証言によれば、3日前の25日に、イロヴァイスクの南方20㎞の地点で大きな戦闘があり、政府軍2個旅団が壊滅していた。戦闘から一か月後の9月29日、ロイターが、解放された捕虜の話を伝えている。

 

ーーー第92と第51機械化旅団が突然攻撃を受け、短時間で全滅した。多くの政府軍兵士が戦死し、または行方不明になった。第93機械化旅団は、突然然ロシア軍に包囲され、たった20分で壊滅した。

 

最初、多連装ロケット砲(Rad)による攻撃を受け、続いて戦車・装甲車・歩兵が四方向から迫ってきた。そしてあっという間に旅団は消滅した。後方にいた部隊は、近づいてくるロシア軍を自軍だと思ったという。ロシア軍の出現がいかに予想外だったかを思わせる。

 

 以上が第93機械化旅団の兵士が語った内容である。彼は捕虜となったが釈放された。捕虜の期間に得た情報だと思われるが、ロシア軍は、コストロマの強襲空挺大隊だという。コストロマ市はモスクワの北東300kmに位置する。捕虜になったロシア軍兵士10名が母親にメッセージを述べる映像をウクライナ政府が公開した。かれらはコストロマの強襲空挺大隊に所属していた。

 

<http://www.trust.org/item/20140929153348-9y8fj>------

 

私はその映像を見た時、かれらがまじめで立派な若者なので感心したが、かれらはエリート部隊だったのである。この映像が公開されたのは8月26日であり、ウクライナ政府は25日の自軍の大敗北については一切語らず、捕虜になった10名のロシア兵のビデオだけを公表した。

 

    <イロヴァイスクの司令官ギヴィ>

 

   CNN(左の女性)のインタビューに答えるギヴィ(正面)

  

 

 イロヴァイスクの親ロシア派が持ちこたえたのは、イロヴァイスクの司令官ギヴィに負うところが大きいようだ。彼はイロヴァイスクの出身であり、故郷を守るという気概がある。彼はドネツク市や故郷のイロヴァイスクが破壊されたこと、また人々が犠牲となったことに怒りをあらわにした。特に政府軍が燃焼性の強いリンを含んだ爆弾を使用したことことに対して激しく怒った。「反ナチ(=反政府)の信念を持つようになったのは、彼らの所業が原因だ」。

 

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