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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ギリシャ正教と原始キリスト教

2012-11-11 02:44:02 | 古代

 

gooブログの「シスタ―ミックのなんだかわからない堂」はギリシャ正教の寺院を紹介しています。その他にもいろいろと教えられる記事があったのでgooブログに決めました。

 

インターネットでは、一般のメディアでは取り上げられない情報が得られます。どんなに貴重な情報でも、すぐに大多数の人に受け入れられるものでなければマスコミにはのらない。インターネットの世界の片隅に、良質な情報が保存されることを願いたい。            

 

ロシアの歴史の初期、キエフの大公がギリシャ正教を自国の宗教として取り入れる話が出てきます。コンスタンチノープルの聖ソフィア大聖堂を見てきた使者が、そのあまりの美しさに感動して「天国に迷い込んだような気がしました」と報告した。

  

  

 

単に地理的に近い大国の宗教だからというだけでなく、衰退から立ち直っていない西ヨーロッパのキリスト教よりも、当時の世界で最も繁栄していた大国の宗教を取り入れたということである。

バルカン諸国は近代以降貧しい後進国になってしまったが、中世においては輝いていた。この時期、繁栄するビザンチン帝国の文化が伝わり、バルカン諸国は文明の道を歩んでいた。バルカンにはこの時代の文化的遺跡が多く残っている。

キエフ公国の後継国のロシアは、偉大な東ローマの後継者であることを誇りとした。

 

金角湾を望む丘の上に、壮麗な聖ソフィア大聖堂が立っている。東ローマ帝国の繁栄を忍ばせる風景である。青い海の向こうに、なだらかな陸地が見える。地中海沿岸には、美しい風景がいくつもあるが、ここは中でも美しい場所である。地中海はかつて、世界でもっとも繁栄した世界の経済的大動脈であった。現在では、風光明媚な観光地として評価されている。

         

                                                                   (写真)  ottoman relics

 東ローマはイスラム世界と並んで、中世で最も繁栄した世界だった。ギリシャ・ローマの文化は断絶することなく継承された。「中世の暗黒」という言葉は、東ローマとイスラム世界にはあてはまらない。

6世紀の半ば、東ローマ皇帝ユスチニアヌスはローマ帝国を再建した。イタリア・スペイン南部・北アフリカが東ローマ皇帝国の領土となった。

 

    

                (地図) vivo net

 

お茶の水にニコライ聖堂があるので、日本ではロシア正教は知られています。でもシスターみっくのようにギリシャ正教の寺院に興味を持っている人は少ないと思います。 

カトリックとプロテスタントについてはよく知られています。東欧に関心がある人は、ギリシャ正教について知っています。しかし「シリア正教」についてはほとんど知られていません。 

東ローマでギリシャ正教が確立した時、シリア正教は最古の宗派として既に存在していました。

ニカエアで公会議が開かれた325年、シリアのアンチオキアとエジプトのアレクサンドリアには、キリスト教の2大学派が存在していました。アンチオキアとアレクサンドリアはキリスト教誕生以来重要な地であり、優秀な聖職者が集まり、さまざまな教義が生まれていました。(アンチオキアとアレクサンドリアの位置は地図参照)

 

ニカエアの公会議以後、幾度も教義と教団を統一しようと試みられますが、シリア各地の教会は、そのような動きとは無関係に、従来のまま存続しました。

現在も残るシリア正教は、ロシア正教のような他のギリシャ正教系と比べると、かなり違っていると言われます。シリア正教はコンスタンチノープルの正教よりも古く、原初の姿をとどめているからです。アンチオキアの教会はエルサレムの教会に次いで古く、「キリスト教徒」と言う名称もアンチオキアで生まれました。

 

キリストはユダヤ人で、ユダヤ・ガリラヤ地方とエルサレムのユダヤ人に説いた。キリストは少数の信徒を持つ新興宗教家として、伝統的なユダヤ教と対立し、処刑された。非常に地方的で小さな事件だった。

 

イエスの死後、弟子たちが大きな集会を開いた。使徒行伝の第2章に、「五旬節(ごじゅんせつ)の日がきて、みんなの者がいっしょに集まっった。・・・・この日、3000人が仲間に加わった」とある。

 

この時、中東全域のユダヤ人が集まった。この時期の信徒はすべてユダヤ人である。「彼らは出身地の言語を話した」。同じユダヤ人でありながら、言語の上では、互いに外国人である。彼らの出身国が列挙されている。

ーーーパルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、クレテ人とアラビヤ人もいる」。ーーーー

 

当時の東地中海と中東のほぼ全ての国名が挙げられている。これらの外国語を話すユダヤ人の多くは、父祖の言語であるヘブライ語を理解できた。シリアの言語であるアラム語は、商用語として長年国際語の役割を果たしてきた。最近になってギリシャ語が新しい国際語になった。アラム語やギリシャ語を理解するユダヤ人は多かった。

したがって、「彼らは出身地の言語を話した」と言っても、互いに理解しあえた可能性が高い。使徒行伝には、精霊の力によって理解できたと書かれている。

 

使徒行伝4章に次のように書かれている。

ーーーバルナバ(なぐさめの子との意)と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。

アナニヤという人とその妻は資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。ペテロはこれに怒った。ーーーー

 

アナニヤととその妻はすぐに死んだ。教団によって殺されたようである。教団に集まった財産は、必要に応じて、信徒たちに分け与えられた。

 

同じく使徒行伝4章から。

ーーー使徒と信徒たちは心を一つにして、ソロモンの廊(ろう)に集まっていた。ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。

そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬(しっと)の念に満たされて立ちあがり、使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。

しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。

大祭司が問うて言った、「キリストの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教えを、はんらんさせている。あなたがたは確かに、キリストの死の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。

これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである」。

この返答を聞くと、サドカイ派の人たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。 ーーーーーー

 

アレクサンドリア・アンチオキアなどのヘレニズム都市に住むユダヤ人が、ギリシャ語を話したことはよく知られている。エルサレムにもギリシャ語を話すユダヤ人がいたことが、使徒行伝第六章に書かれている。第二章に、中東全域の多様な言語を母語とするユダヤ人がエルサレムに集まった、と書かれていたが、教団の主要外国語はギリシャ語だったようである。

 ーーーそのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、苦情を申し立てた。自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと。

 そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊(みたま)と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜(さが)し出してほしい。その人たちに配給の仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈りと御言(みことば)のご用に当ることにしよう」。 この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そしてステパノ始め7人が選ばれた。

こうして神(かみ)の言(ことば)は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。  ーーーーーー

 

「へブル語を話すユダヤ人」と書かれていることに、注意したい。一般には、この時代のユダヤ人はアラム語を話したと考えられている。イエスはアラム語を話したというのが定説である。しかし口語ヘブライ語はまだ死滅していなかったという説もあり、聖書のこの箇所はその説に一致する。

エルサレムには、ギリシャ文化の影響を受けた宗派があり、会堂も有していた。伝統的なユダヤ教から派生した新派であり、新興のキリスト教と同じ部類に属する。このヘレニズム派との論争がきっかけとなり、キリスト教団のステパノが殺害される。ステパノは教団最初の殉教者となる。

ステパノは食べ物を公平に分配する幹事の一人だった。彼はギリシャ語を話し、教団内ではヘレニズム派を代表していた。ギリシャ語を話す者どうしの論争が、迫害のきっかけとなった。

ステパノの弁明と殉教は6章の終わりから7章にかけて書かれている。

 ーーーステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた。すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人(=フェニキア人)、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが、彼は知恵と御霊(みたま)とで語っていたので、それに対抗できなかった。

 そこで、彼らは人々をそそのかして、「わたしたちは、彼がモーセと神とを汚(けが)す言葉を吐(は)くのを聞いた」と言わせた。その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動(せんどう)し、彼を襲って捕(とら)えさせ、議会にひっぱってこさせた。

それから、偽(いつわ)りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐(は)いて、どうしても、やめようとはしません。

『今は天にいるナザレびとイエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。

議会で席についていた人たちはみな、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。

大祭司は「そのとおりか」とたずねた。そこで、ステパノが言った、

「兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて言われた、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授(さづ)けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。神はこう仰(おお)せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷(どれい)にされて虐待(ぎゃくたい)を受けるであろう』・・・・(省略) 」   ーーーー

 

ステパノは民族の歴史を語った後で、次のようにしめくくった。

「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは、正しいかたの来ることを予告した人たちを殺した」。

これを聞いて、人々は心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。人々は大声で叫びながら、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。

    <大迫害と教団の危機>

ステパノの殺害で事は終わらず、ペテロの教団に対する大迫害が開始された。信徒は迫害を逃れて四散し、エルサレムの教団は壊滅状態になった。イエスの死後、弟子たちがつくりあげた最初の信徒団は、最大の危機をむかえた。弟子たちはエルサレムにとどまったが、身を潜めていた。

 ペテロの教団には、まだ正式な名前すらなかった。「キリスト教徒」という言葉も定着しておらず、「道に従う者」とか、さまざまに呼ばれていた。

ステパノが殺された時、パウロは教団外の人間で、教団を憎む側の人間だった。パウロの本名はサウロであり、イエスの教えに目覚め、回心して以後パウロと名のった。

サウロは教団の敵として登場する。教団を迫害するサウロの大活躍が、使徒行伝第8章の冒頭に書かれている。

 ーーーサウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。

信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。

ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。

さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。

ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。ーーー

 

サウロは、教団に対する怒りを爆発させただけの人々と違った。彼は教団を壊滅させることを目的としており、エルサレムだけでなく、ユダヤ一帯の信徒を一網打尽にするつもりだった。追求の手はシリアにまで及んだ。使徒行伝第9章は再び、サウロの記述から始まる。

 ーーーさてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

ところが、道を急いで、ダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。

彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。ーーー

サウロの回心は劇的である。旧約・新約には、真に迫る叙述がある。

教団に対する反感は残っていたが、時間とともに、迫害はおさまった。サウロは劇的な回心を経験し、教団に加わった。しかし信徒の多くは彼を恐れたり、疑ったりした。教団の敵は裏切り者の彼を殺そうとした。

第9章28節

ーーーサウロは使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語った。

ギリシヤ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り合い、また論じ合った。しかし、彼らは彼を殺そうとねらっていた。

兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れてくだり、タルソへ送り出した。

 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増していった。 ーーーー

 

    <アンチオキア;世界宗教への道>

サウロは教団内で、疑わしい人物と見られていた。教団の敵からは命を狙われた。ダマスカスとエルサレムに彼の行き場はなかった。サウロは故郷のタルススに逃げ帰った。

大迫害の時にエルサレムから逃げ出し、アンチオキアに至った人々がいた。彼らはそこで信徒の集まりを持った。(アンチオキアの位置は「東ローマ」の地図参照)

アンチオキアの信徒は、ユダヤ人にだけ、イエスの言葉を伝えていた。ユダヤ人は、他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられている。

しかし、彼らは徐々にギリシャ人にも呼びかけるようになった。ギリシャ人たちは信徒たちを受け容れ、主に帰依する者が多かった。

このうわさがエルサレムに伝わったので、教会はバルナバをアンチオキアにつかわした。

アンチオキアに着いたバルナバは、信徒の数が多いことに驚き、喜んだ。彼はみんなの者を励ました。

それからバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、アンチオキアに連れて帰った。ふたりは、まる一年の間、協力して布教した。彼らは教会で大ぜいの人々を教えた。このアンチオキアで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。クラウディウス帝の時代のことである。

 アンチオキアの信徒たちが、ユダヤ人以外の人たちに布教を開始し、サウロに活動の機会を与えた。キリスト教が世界宗教へ発展する道は、アンチオキアから始まった。

 アンチオキアの教会はパウロの活動の拠点となり、彼はここを出発点として伝道の旅に出かけた。地中海沿岸と、ギリシャを中心に布教した。

 

パウロは古い家柄のユダヤ人の家に生まれた。ユダヤ教を信奉していたが、話す言葉はギリシャ語だった。 

パウロの改宗前の名前はサウロであり、裕福なローマ市民の子として、タルススに生まれた。

  

  

タルススにいた子供時代、サウロはヘレニズム的な文化を吸収した。当時ヘレニズム文化は、小アジアの都市生活に浸透していた。中東全域がヘレニズムの世界となってから、すでに三百年が経過している。ギリシャ語が国際語となっていた。

 

幼少期を終えると、サウロはエルサレムにあるユダヤ教の宗教学校に送られ、ラビのもとで、ユダヤ教の律法と預言者の書とを学んだ。当時ユダヤ教の学校は職業訓練もおこなった。サウロは砂漠の民の必需品であるテントの制作技術を学んだ。

 

ヘレニズム文化とユダヤ教というの2つ要素がサウルの精神の中に共存していた。パウロと違って、イエス・キリストの最初の弟子たちの多くは、貧しい漁師の子として育った。彼らは、伝統的なユダヤ教の中で育ち、ギリシャ文化の影響は少なかった。

 

 

キリストと同時代に、キリストの教えに良く似たことを説いた人物がいて、彼は上流階級に受け入れられた。信者の数は少なかった。

信者の数が少ないことは、キリストの場合も同様だった。しかし彼は一般民衆に語りかけた。彼の死後、使徒たちも下層階級に働きかけたので、多くの信者を獲得した。最初キリスト教は教養階級の宗教ではなかった。

キリスト教は兵士と下層民を中心に広まったのであり、知識階級の宗教ではなかった。

 

4世紀にローマ帝国の国教となって以後、キリスト教は政治的な側面を持つようになり、政治権力と一体化することも、しばしばだった。中世に悪徳教皇が出現するが、それ以前にも、権力亡者のような聖職者がいた。

西欧の中世・ルネッサンスの時代には、聖職者は偉大な文化の保護者となった。キリスト教は誕生以来、さまざまな側面をもってきた。

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インターネットで海外の新聞を読み、海外のテレビを見れる

2012-11-09 01:30:09 | 古代

国際政治に関心のある人はごく少数派であり、新聞・テレビで海外のニュースが取り上げられるのは、わずかである。驚いたことに、インターネットではワシントンポストやニューヨークタイムズが読めるし、ABCやPBSやNBCのニュース番組を見れる。新しい時代の到来を実感します。                                            

若い時ルーマニア語に興味を持って、マスターしようというのではなく、ただどんな言語か知りたくて少し勉強しました。同じ東欧の言語でもポーランド語は明らかにロシア語と兄弟の言語です。ルーマニア語はスラブ語ではない。ドイツ語ととは全然違う。ゲルマン語ともスラブ語とも異なる独自の言語である。柔らかくて素朴な響きのする言語。                                                               後でわかったのですが、ルーマニア語は、実はラテン系の言語。ただしすぐには気づかないほど独自なのがルーマニア語の魅力。イタリア語はラテン語とゲルマン語の混血であり、ルーマニア語はラテン語と古代ダキア人の言語との混血である。後の時代にスラブ語が少し混入した。ラテン語にダキア語が少し混ざり、さらにわずかなスラブ語が混ざり、ルーマニア語の独自性が生まれた。
           
バルカンはローマ帝国の属州となった。。古代ローマ帝国の名残りとして、ラテン系の言語を話す民族が現在も生きている。それがルーマニア人である。ドナウの南のトラキアが先にローマの属州となり、遅れて、ドナウの北のダキアがローマの属州になった。紀元1世紀、ゲルマニアとダキアはローマ帝国の不安定要因だった。ゲルマン人とダキア人は帝国の国境を脅かした。ローマの将軍トラヤヌスはダキア征服の功績によって、皇帝の座に近づいた。

ダキアがローマの属州になるのが遅れたのは、バルカンの山間部にあり、辺境の地だったからである。そしてそのことが、ダキア人とローマ人の混合言語を現在に伝える原因となった。

平地にあるトラキアは、トラキア人の言語も、ローマ人の言語も失った。トラキアは現在のブルガリアである。ブルガリア人はスラブ語の影響を受けすぎて、古代の先祖の言葉を失った。ただし、文明地域なので、古代と中世初期の繁栄を物語る遺跡が残っている。ブルガリアはコンスタンチノープルの後背地である。

バルカンは山国なので、近代になっておくれをとってしまったが、中世においては、東ローマ帝国の影響を受けて発展した。                                                                  中世において暗黒時代だったのは西ヨーロッパで、コンスタンチノープルとバグダットは栄えていた。文明に切れ目はなかった。古代ローマ帝国に続いて東ローマとイスラムが繁栄し、両者の文化を受け継いでイタリアにルネサンスの文化が花開いたのです。イタリアルネサンスを勉強した者は必ず、東ローマとイスラム帝国の歴史に興味を持ちます。文化的な流れは途切れずにあるのです。
                                            

文化的な流れが途切れ、全世界的な暗黒時代になったのは、まぎれもなく二十世紀の百年間です。文化の一部である科学技術は異常に発達しましたが、美術と音楽は滅びました。建築も技術的な側面は発達しましたが、美的な側面が失われました。芸術というものが存在しない百年となりました。                                                 それはともかく、ルーマニア語は響きのよい言語なので勉強してみたいという気はあったのですが、ルーマニア語の書物は簡単に手に入らないので、苦労してマスターしても無意味に思え、勉強はしませんでした。ところが30年後の今になってルーマニアのテレビがパソコンで見れるのです。心底驚きました。年を取ってこんなに感動することがあるとは思っていませんでした。               

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