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ターラント公ボエモン

2019-03-01 18:39:46 | 世界史

 

 

第一回十字軍はコンスタンチノープルを経由し、エルサレムに向かった。彼らはアナトリアを縦断し、1097年10シリアの入り口にあるアンティオキアに至った。十字軍の目的は聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回することだったが、コンスタンチノープルからエルサレムに至る交通路の安全を確保することも必要だった。アンティオキアはコンスタンチノープルとエルサレムの中間に位置し、この都市の確保に成功すれば、コンスタンチノープルからエルサレムまでの陸路が安全となる。

アンティオキアは単にエルサレムへの中継地として重要だっただけではなく、シリアの地中海沿岸部の都市として経済的に重要だった。東ローマ帝国は北シリアの拠点都市としてのアンティオキアの獲得を望んでいたし、地中海貿易に乗り出していたジェノバもシリアとの貿易拠点となるアンティオキアに魅力を感じていた。両者はアンティオキア攻略に苦戦していている十字軍に補給を送り、援助している。

一方シリアとイラクのトルコ人勢力は、東ローマとフランク人によるシリア侵略を恐れていた。そのため、アンティオキアを巡る攻防は、第一回十字軍にとって最大の戦争となった。

トルコ人勢はアンティオキア戦に敗北したが、十字軍がシリアに関心を示さず、エルサレムに向かったので、安心した。エルサレムはエジプトのファーティマ朝の支配下にあり、シリアのトルコ勢に関係がなかった。十字軍がファーティマ朝と戦うなら、十字軍はむしろトルコ勢の見方でさえあった。

十字軍は宗教的な理由で進軍したため、現実世界の勢力争いの観点からすると、彼らの行動は意味不明だった。十字軍の指導者の中で、ボエモンは異色であり、彼は現実的な利益のために行動していた。ボエモンは南イタリアのノルマン人貴族である。ボエモンはアンティオキアの支配に執着し、エルサレム開放に関心を示さなかった。ボエモン軍を欠いたまま、レーモンとゴドフロアを指導者とする十字軍だけがエルサレムに向かった。

 

       《南イタリアのルマン王朝》

ボエモンは南イタリアのルマン王朝の2代目の君主である。彼の祖父は北フランスノルマンディーのの田舎貴族であり、その息子たちが南イタリアで活躍し、国家を樹立した。

タンクレード・ド・オートヴィルは北フランスの下級貴族であり、ノルマンディーに村を所有していた。彼の息子たちは傭兵として南イタリアで活躍した。彼らは傭兵として活躍する前は、単なる山賊であった。よく言えば冒険好きということだが、乱暴者に過ぎない彼らは、南イタリアにおけるイスラム支配を終わらせ、新しい時代を築いた。

兄たちの活躍を受け継ぎ、ロベルトとルッジェ―ロの2人は南イタリアとシチリアを征服した。ロベルトは北フランスのノルマン貴族オートヴィルの6男であるが、ルッジェロは12番目の男子(末弟)である。1072年 にロベルトはシチリアをルッジェーロに譲り、自身はプッリャとカラブリアを支配した。

シチリアを征服したのは末弟のルッジェーロだった。ルッジェーロは少人数の部隊を率いて、圧倒的に多数のイスラム軍を打ち破った。

オートヴィルの6男ロベルトの長男が第一回十字軍の諸侯の中心人物ボエモンである。ボエモンの父の名はロベルト・オートヴィルであり、南イタリアのノルマン朝はオートヴィル朝と呼ばれる。ただしロベルトはイタリアに来てから、アラブ風のイル・グィスカルドという通名で呼ばれるようになった。彼の息子のボエモンはボエモン・グィスカルドということになる。ボエモンは実名ではなく、伝説上の巨人の名前であり、彼が巨漢だったたゆえのあだ名である。彼の本名はマルコ・グィスカルドである。父の死後ボエモンはターラント公の位を継ぎ、彼の弟がプッリャ公を継いだ。ボエモンが十字軍諸侯の中で最も戦闘に優れていたのは、傭兵から伯爵に成り上がった父グィスカルドの性格を受け継いでいたからかもしれない。イタリアに来てからの父の通名グィスカルドの意味は「ずるい人」であり、ボエモンはこうした性格も父から受け継いでいた。アンティオキア戦におけるボエモンの言動は、彼の父とその兄弟について知ると、よく納得できる。

ボエモンは実力があり、騎士や兵たちから信頼されていたが、成り上がり者の2代目だったので、トゥールーズ伯レーモンより格下の貴族だった。十字軍諸侯の間で最も尊敬されていたのは、裕福で上級貴族ったレーモンである。

 

       《11世紀の南イタリア》

西ローマ帝国滅亡後、西ローマの軍人だったオドアケル、東ゴート族のテオドリック、東ローマ皇帝ユスチニアヌス、ロンバルド族のアルブインがイタリア支配を試みたが、いづれも失敗に終わった。東ローマの本拠はトラキア・アナトリアにあり、イタリアにとってしょせん外部勢力だった。イタリアの再統一において、東ローマは、統一を妨げる要因になった。スペインの西ゴート王国やフランスのフランク王国のような永続的な国家は、イタリアには成立しなかった。西ローマ滅亡後、中世・近代の1400年間イタリアには統一国家が存在しなかった。

東ゴートやロンバルドがイタリアの統一に失敗したのは、彼らの力不足にもよるが、東ローマとローマ教皇がイタリア統一を妨害したからである。ローマ帝国の中心部であるイタリアには、独特の政治勢力が残存し、これが新勢力による国家統一を邪魔したのである。東ローマと教皇庁はイタリアを統一する能力はなかったが、統一を邪魔する能力はあった。

南イタリアに強力な権力が存在しなかったため、北フランスのノルマン人に活躍の場が生まれた。彼らは傭兵として雇われる機会を探していたのであり、チャンスがあるなら、ヨーロッパのどこでもよかった。10世紀末、南イタリアに来ていたノルマン人のグループがロンバルド系領主とサラセン人のもめごとに出会った。ノルマン人はロンバルド系領主のために戦い、勝利した。この時以来、北フランスのノルマン人の間では、南イタリアで傭兵として働くことが生きる糧を得る手段の一つとなった。この流れの中で、北フランスから来たノルマン人は傭兵から領主へと成長していった。彼らは一回の戦争で南イタリアを征服したのではなく、傭兵から出発し、時間とともに在地勢力に転化し、最終的に地方君主となったのである。

こうして1072年 オートヴィル家のの6男ロベルトがプッリャとカラブリアの支配者となり、末弟のルッジェーロがシチリアの支配者となり、ノルマン人のシチリア王国の基礎が築かれた。

    

シチリアの大部分を征服したルッジェーロの息子の時代にシチリア王国が成立した。

 

ノルマン人が最初に南イタリアで傭兵として活躍したのは、999年である。この時の話は、南イタリアの情勢をよく表している。

 たち999年エルサレムへ巡礼したノルマン人が南イタリア経由で北フランスに帰ろうとしていた。彼らはサレルノ候グアイマーリオ3世のもとに滞在した。当時サレルノとその周辺は北アフリカのサラセン人の襲撃を受けており、サラセン人から年貢を要求されていた。ちょうどノルマン人のサレルノ滞在中に、サラセン人の船団がサレルノ港に押し寄せた。彼らは上陸すると、サレルノを包囲し、年貢を要求した。ノルマン人たちはグアイマーリオ3世と彼の臣下のランゴバルド人の弱腰を嘲笑した。ノルマン人は言葉が強気なだけでなく、実際にサラセン人を攻撃し、撃退してしまった。

   




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