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  たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

6巻28ー30章

2024-08-27 04:34:13 | 世界史

【28章】
貴族と平民間の闘争が原因で、ローマ軍が編成されず、司令が決まらないという知らせがプラエネステに届いた。これを好機と見たプラエネステの将軍たちは直ちに軍隊を率いてローマに向った。プラエネステを出ると、放置された荒れ地が広がっていたが、彼らはそこを抜けて、ローマのコリナ門を目ざした。ローマの市民の間には恐怖が広がった。男たちは「武器を取れ」と叫びながら、城壁や市門に向かった。ローマ市民は反乱を中止し、敵に立ち向かった。T・クインクテイウス・キンキナトゥス が独裁官に任命された。独裁官は A・センプロニウスを騎兵長官に任命した。プラエネステの兵士たちはクインクテイウスが独裁官になったことを知ると、すぐに城壁から後退した。独裁官が徴兵を宣言すると、兵役に該当するローマ市民は迷わず集まった。ローマ軍の編制が進んでいる時、プラエネステ軍はアリア川の近くに陣地を定めた。ここを拠点として彼らは広範囲に略し、地域を荒廃させた。ローマにとって重要な輸入路であるアリア川の土手を占拠したことを、プラエネステの兵士たちは幸運と考えた。なぜならローマ市民がガリア人の襲来の時のようにパニックに陥るに違いないからである。ローマ人は敗北の日を「アリア川の日」と呼んで呪っており、最悪の戦場となったアリア川は彼らにとって恐ろしい場所に違いない。ローマ兵はアリア川と聞くだけで、ガリア人の幻影が目に浮かび、ガリア人のおぞましい叫び声が聞こえ、震えあがるだろう。こうしたあてもない想像にふけりながら、プラエネステ軍の兵士たちは彼らの幸運を場所に賭けた。一方でローマ軍はラテン人の兵士をよく知っており、彼らがどこにいようと恐れるに足りないと考えていた。ラテン人はレギッルス湖の戦いで敗れて以来、100年間ローマに臣従しきたのである。アリア川がローマの大敗北を想起させるとはいえ、ローマ兵はこの記憶を拭い去り、他の不吉な場所同様勝利の妨げにはならなかった。たとえガリア兵が再びアリア川に現れたとしても、かつて彼らから首都を奪回した時のように、再び戦うまでである。首都奪回の翌日、ローマ軍はガビーでガリア軍を壊滅させ、ガリア兵は一人も生き残ららず、自軍の全滅を祖国に知らせることもできなかった。
【29章】
プラエネステ軍はローマ兵が過去の敗北に引きずられていると期待し、他方ローマ軍は勝利だけを考え、両軍はアリア川の土手ので出合った。プラエネステ軍が戦陣を組んでで進んでくるのを見て、独裁官は騎兵長官  A・センプロニウスに言った。「敵はガリア兵と同じ場所にいるぞ。かつての戦いの再現を期待しているようだ。場所が縁起が良いことなど頼りにならないし、自分が弱ければ誰も助けてくれない、と彼らに教えてやろう。君と騎兵が頼っているは自分の武力と勇気だよな。諸君は全速力で敵の正面を突いてくれ。私と歩兵は崩れた敵に襲い掛かる。条約が守られているか見張っている神々よ!我々を応援してください。神々に違反した敵に罰を与えてください。連中は我々を裏切りました。彼らの訴えを無視してください」。
ローマの騎兵と歩兵の攻撃により、プラエネステ軍はあえなく崩れた。最初の一撃と叫び声で、彼らの戦列は乱れ、間もなくすべての隊列が崩れ、プラエネステ軍は大混乱となり、兵士は背中を見せて逃げだした。彼らは恐怖のあまりひたすら逃げ、陣地を通り過ぎ、プラエネステの町が見えるところまで来て、ようやく逃げるのをやめた。彼らは再結集し、適当な場所を見つけて陣地を構築し防御を固めた。市内に逃げこもうとしなかったのは、領内に火をつけられるのを恐れたからだった。領内には8つの町が存在した。これらの町が荒廃した後、結局プラエネステが包囲されるだろうと彼らは考えたのである。ローマ軍はアリア川で敵の陣地を略奪すると、プラエネステに向かった。ローマ軍が近づいてくると、プラエネステ軍はせっかく造った陣地を棄てて、市内に逃げ込んだ。プラエネステは周囲の8つの町を所有していた。ローマ軍はこれらの町を次々に攻撃し、ほとんど抵抗されずに攻略した。その後ローマ軍はっヴェリトラエへ向かい、勝利した。そして最後に戦争の発端であり、中心であるプラエネステに戻ってきた。プラエネステ軍は戦わず降伏した。ローマ軍はこの町を占領した。ローマ軍は戦争に勝利し、二つの陣地を奪取し、プラエネステの支配下にある8つの町を攻略し、主敵であるプラエネステの降伏を受け入れた。ティトゥス・クィンクティウスはローマに帰った。
   (プラエネステはローマの東35kmでラテン地域のはずれにある。現在のパレストリーナである。ヴェリトラエはアルバ湖の南東にあり、プラエネステから離れている。ヴェリトラエはヴォルスキの都市だったが、ローマの第4代国王アンクス・マルキウスによって征服された。)
勝利の行進で、クィンクティウスはプラエネステから持ち帰ったユピテルの像をカピトルの丘まで運んだ。ユピテル像はユピテル神殿とミネルバ神殿の間の奥まった場所に安置された。像の台座に独裁官の勝利を記した金属板がはめ込まれた。金属板には「ユピテルとすべての神々が独裁官ティトゥス・クィンクティウスに勝利をもたらした」と書かれていた。独裁官就任から20日後にクィンクティウスは辞任した。
【30章】
翌年の執政副司令官の半分が平民から選ばれた。貴族から選ばれた3人は C・マンリウス、P・マンリウス,L・ユリウスである。平民の3人は C・セクスティリウス、M・アルビニウス、L・アンスティティウスである。二人のマンリウスは貴族なので平民の3人より優位にあり、貴族であるユリウスより人気があった。二人のマンリウスはくじ引きをせず、他の執政副司令官と話し合いをせず、元老院と相談しただけでヴォルスキ戦の指揮官となった。後で二人と元老院は勝手に決めたことを後悔することになった。指揮官となった二人は偵察兵を出さずに、略奪を開しした。略奪に行った兵士たちが包囲されたという誤報を信じて、二人はすぐに援軍を送った。虚偽の報告したのはローマ兵のふりをしたラテン人であり、ローマの敵だった。二人のマンリウスは報告者の素性を調べるのを怠った。二人が派遣した援軍は突然待ち伏せ攻撃を受けた。不利な地形にもかかわらず、ローマ軍は勇気だけで必死に持ちこたえた。同じ頃、平原の反対側でローマ軍の陣地が攻撃された。二人の将軍の無知と性急さが原因で、ローマ軍は二方面で全滅しそうになった。幸運により、また指揮官の命令がないまま兵士たちは勇気だけで切り抜けるしかなかった。ローマ軍の危機が首都に伝えられると、いったん独裁官を任命することになった。しかし続いて第二報が届き、ヴォルスキ軍の動きが止まったこと知らされた。ヴォルスキ軍は勝利を目前にしながら、決着をつけられずにいた。間もなく彼らを呼び戻す命令が来て、ヴォルスキ兵は去っていった。
ヴォルスキ戦が終了すると、平和が続いたが、年末にプラエエステが再び反乱した。プラエエステはラテン人を誘ってローマに敵対した。
同じ頃セティアの植民者たちが、自分たちの人数が少ないと不満を言ってきたので、ローマは新たな植民団を送った。  
  (セティアはローマの南東65km、サトゥリクムの東。サトゥリクムはポンプティン地方の北部にあるが、セティアは同地方からはずれ、北方にあるが、高台にあるので、ティレニア海が見える。セティアはヴォルスキの町だったが、紀元前382年ローマは植民地を設定した。セティアは現在のセッツェである。)
プラエエステとの戦争が起きたが、国内は安定していた。安定をもたらした要因は、執政副司令官のうち半分が平民だったことである。彼らは平民に影響力を有し、平民の間で権威があった。

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6巻25-27章

2024-08-14 05:36:41 | 世界史

【25章】
捕虜を調べた結果、何人かはトゥスクルム人であることが分かった。彼らは他の捕虜と区別され、執政副司令官の前に連れて行かれた。取り調べにおいて、トゥスクルム人は「国家の承認のもとで我々は戦争に参加した」と述べた。現在の戦場であるサトゥリクムと違い、トゥスクルムは比較的ローマに近かったので、カミルスはトゥスクルムと戦争になれば厄介だと思った。トゥスクルムがローマとの同盟に違反した事実を一刻も早く元老院に知らせるため、彼はトゥスクルム人捕虜をローマに連れていくことにした。同僚の L・フリウスは陣地に残り、引き続き戦争を指揮してくれるだろう。今回の戦争の結果、カミルスは自分の戦術に固執すべきでないと悟った。自分以外にも優秀な指揮官がいることを知ったのだった。一方で、 L・フリウスとローマ兵たちは、カミルスが重大な過ちを見過ごすはずがないと考えていた。国家に最悪の災難を引き起こしたかもしれない失敗を、カミルスは決して忘れないだろう、と彼らは考えた。ヴォルスキ戦でローマ軍が最初敗北し、後で勝ったことについて、軍の兵士も首都の市民も、敗北の責任は L・フリウスにあり、勝利に導いたのは M・フリウス・カミルスだと考えていた。
トゥスクルム人捕虜を尋問した元老院は、トゥスクルムとの戦争を決定し、カミルスを司令官に任命した。カミルスが副将軍をつけてほしいと言うと、許可され、好きな人物を選んでよいと言われた。誰もが驚いたことに、カミルスは L・フリウスを副将軍にした。この寛大な行為により、カミルスは L・フリウスの汚名を消し去った。人々はカミルスを称賛した。
しかしトゥスクルムとの戦争は起きなかった。トゥスクルムはローマ軍に勝てないと判断し、同盟に永遠に忠実であることを誓い、和平を願うことにした。ローマ軍がトゥスクルムの領域に入ると、道路の近くの住民は逃げずに、耕作を続けた。町の門は開いており、市民は軍服ではなく、平服を着ており、ローマの司令官を歓迎して集まってきた。市内と郊外の市民は軍用の備蓄を物惜しみせず、ローマ軍の陣地に運んできた。カミルスは城門の近くに陣地を定め、郊外は平和な様子だが、市内も平和であるか認かめることにした。彼が市内に入ると、家々のドアは開いており、売り台にはいろいろな品物が並んでいた。働き人は仕事に忙しく、学校では子供たちが元気な声で音読していた。通りは女性や子供でいっぱいで、それぞれの用事で歩き回っていた。彼らはカミルスとローマ兵を見ても、驚かず、怖がらなかった。カミルスは念のため、戦争の兆候がどこかにないか探したが、無駄だった。平和を取り繕うため持ち去られた物はなかったし、運び込まれた物もなかった。すべてが穏やかで、平和な様子であり、戦争の足音がこの町に迫ったとは思えなかった。
【26章】
トゥスクルムの平和に偽りはなさそうなので、カミルスは町の長老たちを呼んだ。カミルスは彼らに言った。「あなたたちはローマに対する戦争を考え、ローマの怒りに対し武力で対抗しようとした。ローマの元老院に出頭し、あなたたちが処罰に値するか、元老院の判断をあおぎなさい。あなたたちは現在反省しているので、許されるかもしれない。ローマの国家が決定する前に、私はあなたたちを許すことはできない。私にできるのは許しを求める機会を与えることだ。元老院が最善の決定をするだろう」。
トゥスクルムの長老たちがローマに到着し、元老院の入り口に立った。数週間前までローマの忠実な同盟者だった者たちがうなだれてるのを見て、元老たちは哀れに思い、彼らをもはや敵とみなさず、友人としてもてなした。トゥスクルムの独裁者が代表して語った。「あなたがたは我々に戦争を宣言し、軍隊を派遣しました。我々はローマの将軍と兵士の前に呼び出され、彼らの命令に従い、我々は平服でローマに参りました。我々が着ているのは貴族と平民共通の衣服です。あなたがたに援軍を求められ、武器を提供された時しか、我々は軍服を着ません。ローマの将軍と兵士は我々の説明をうのみにせず、自分の目で確かめた結果、我々に戦争の意図がないと確信しましました。我々を信用してくれたことに感謝します。ローマとトゥスクルムとの同盟に我々は忠実でした。同盟の継続をお願いします。我々はローマの敵ではありません。ローマは真の敵国と戦ってください。実際にローマと戦って痛い経験をすれば、ローマの実力を思い知るかもしれませんが、我々は戦わなくても、ローマの強さを理解しています。これがトゥスクルムの決意です。忠実なトゥスクルムに神々が幸運を与えますように。あなた方が戦争を始める原因となった問題、実際に起きたことに対して我々は反論できません。しかし、あの者たちの行為が事実であるとしても、我々は彼らを許すべきと考えています。現在彼らは深く反省している証拠が十分あります。我々がローマを裏切ったことは認めざるを得ません。今更謝られても無意味かもしれませんが」。
トゥスクルムは平和を獲得し、間もなく完全なローマ市民権を得た。
【27章】
問題が解決し、カミルスは辞職した。彼はヴォルスキ戦で優れた戦術と勇気を発揮し、トゥスクルムの問題を幸福な終結に導いた。どちらの場合にも副将軍 L・フリウスに特別な配慮を示し、またフリウスが失敗した際、忍耐強く対応した。翌年の執政副司令官は以下の6人だった。ルキウス・ヴァレリウス(5回目の就任)、プブリウス・ヴァレリウス(3回目の就任)、C・セルギウス(3回目の就任)、L・メネニウス(2回目の就任)、P・P・パピリウス、Ser・コルネリウス・マルギネンシス。
この年、査察官の任命が必要になった。C・スルピキウス・カメリニウスと Sp・ポストゥミウス・レギレンシスが査察官になった。二人は新しく資産を評価しはじめたが、ポストゥミウスが死んだために、仕事が中断された。査察官の場合、一人でだけ新しい人物に代えてよいものか、わからなかった。その結果スルピキウスは辞職し、新たに選びなおすことになったが、選挙に不正が起きた。三度選挙を繰り返すことには宗教的な恐怖があった。この年の査察に神々が反対しているように思われた。このような失態は我慢できない、と護民官は元老院を批判した。
「元老院は執政副司令官の助言に従い、途中までなされた査察の結果を公表を恐れた。査察表には市民の不動産が記載されており、どれだけ多くの市民の土地が借金の抵当に入っているかわかるのだった。市民の半分が残りの半分によって破滅させられている実態が明らかになるだろう。元老院は様々な口実をあげ、戦争を繰り返している。兵役は富裕市民だけでなく平民にも課せられる。平民は負債を背負いながら、日々連戦している。ローマ軍はアンティウムからサトゥリクムまで進軍し、続いてサトゥリクムからヴェリトラエ、さらにトゥスクルムへと転戦した。そして今度はラテン人やヘルニキ族そしてプラエネスウテが攻撃されようとしているというではないか。これはきっとでっち上げで、貴族の本当の目的はローマの平民に復讐することだ。平民は従軍させられ、疲れ果て、首都に帰って休息できない。彼らはのんびり余暇を楽しめないし、市民集会に参加できない。護民官が借金の利息の軽減を要求したり、その他平民の窮状を訴えるのを聞くことができない。彼らの祖先が勝ち取った自由を思い出す気力が平民にあるなら、ローマ市民が借金の抵当として奴隷として売られるのを許さなないだろう。債務の実態が調べられるべきだ。債務を減らす方法が決まらないかぎり、平民は徴兵を認めないだろう。債務者が自分の借金の残額を知り、自分が抵当として奴隷になるべきか、それは利子が原因ではないかを知らなければならない」。
護民官が債務者に救済の道を示したので、平民の抗議運動は活発になった。多くの市民が債務の抵当として債権者に引き渡さていた。これは市民にとって切実な問題だった。一方元老院はプラエネステとの戦争のために新しい軍団の編制を決定した。護民官はプラエネステとの戦争に反対し、徴兵を妨害した。平民全員が護民官を支持した。政府は債務者に対する抵当権の執行を認めたが、護民官はこれを無効であると主張した。徴兵対象者の名前が呼ばれたが、誰も返事しなかった。元老院にとって、債権者の利益より軍団の編制のほうが、はるかに重要だった。プラエネステ軍が既に進軍を開始し、ガビーの郊外に到着しているという知らせがあったのである。このような状況になっても、護民官は徴兵に反対した。彼らの決心は、ますます固く、市内の騒動が続くうちに、敵はローマの城壁まで来てしまった。

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