私が青森から帰るのを待っていたかのように、10日の深夜、正確には11日の午前2時42分に、母が逝きました。
危篤と言われてから1か月、2年の病院生活でした。
看護婦長に、“がんばりが普通でない、何か思い残すことがあって目が閉じられないのでは”と言わせる精神力でした。
翌12日は、お寺、葬儀社との打ち合わせ、親戚への通知、預貯金の把握に、14日通夜、15日告別式、今日やっと落ち着いたところです。
昨日の告別式前後の天気のめまぐるしさは、信仰心ない私でも母の霊がたけり狂ってるのではと思ったほどで…
朝は曇天、小雨、寺へ急ぐ9時から11時のあのすさまじい風雨。12時出棺時は雨がおさまり、焼き場では陽射しがまぶしい好天に。
焼き場でお骨を待つ小一時間、ご住職との会話時、川本三郎の書いていたことが思い出されました。
『雑踏の社会学』<東京ひとり歩き>の中で、
・東京人かどうかは本当はどこに住んでいるかよりも家の墓がどこにあるかでわかる。
小平霊園や多磨霊園に家の墓がある人は比較的新しい東京人である。
それに対し浅草に墓があるというのは古くからの東京人、いや江戸人である。
江戸時代の主な墓地は浅草の寺町などに多い。
明治維新後、薩長土肥をはじめとする地方出身者が大挙やってきて~
明治政府が新たに作った(明治5年)墓地が谷中墓地、青山墓地、雑司ケ谷墓地、染井墓地である。
明治の元勲や明治の文士たちの墓はたいていこの4か所にある。
その後東京にさらに人口が集中し、新たに二つの墓地が出来た。多磨霊園(大正13年)と小平霊園(昭和23年)である。
実家の寺は、浅草田原町の寺町、
第二十代になる住職によると元禄年間に日本橋にあり、その後、幕府の命で浅草に集められた寺は一千、現在は三百、
区画整理、道路拡張で移転した寺が多いとか、それであのあたりの道路の下は遺骨が多いと。
中央左方の赤印が鳥越の実家、右方赤印が宗園寺
檀家の一番古いM家は元禄からで今は鎌倉と、あちこち散らばり、台東区の檀家は今、実家を入れて5軒だけと。
そんな話をしているうちに、ご住職は私と妹の中学の後輩だということがわかり、高校は?といよいよ話は佳境に。
私の15歳下の住職です。私達姉妹には先代の印象が強いのですが、こんな打ち解け話などしたことはなかったです。
祖父の次郎さんは鳥越神社そばの本宅で簪(かんざし)の問屋、浅草橋に何軒も家作(貸し長屋)、絶頂時にこの墓地を得たとか。その跡取りの父と、上州足利の機屋(はたや;織り元)の長女の母は、見合いのつり合いもよかったのでは。
問題はこれからの墓守で、妹がこのままだと、どんなに長くても30年で途絶えることに。
そのことを住職に、結局問えなかったのはいつもの私の悪い癖、などひとりごちてます。
危篤と言われてから1か月、2年の病院生活でした。
看護婦長に、“がんばりが普通でない、何か思い残すことがあって目が閉じられないのでは”と言わせる精神力でした。
翌12日は、お寺、葬儀社との打ち合わせ、親戚への通知、預貯金の把握に、14日通夜、15日告別式、今日やっと落ち着いたところです。
昨日の告別式前後の天気のめまぐるしさは、信仰心ない私でも母の霊がたけり狂ってるのではと思ったほどで…
朝は曇天、小雨、寺へ急ぐ9時から11時のあのすさまじい風雨。12時出棺時は雨がおさまり、焼き場では陽射しがまぶしい好天に。
焼き場でお骨を待つ小一時間、ご住職との会話時、川本三郎の書いていたことが思い出されました。
『雑踏の社会学』<東京ひとり歩き>の中で、
・東京人かどうかは本当はどこに住んでいるかよりも家の墓がどこにあるかでわかる。
小平霊園や多磨霊園に家の墓がある人は比較的新しい東京人である。
それに対し浅草に墓があるというのは古くからの東京人、いや江戸人である。
江戸時代の主な墓地は浅草の寺町などに多い。
明治維新後、薩長土肥をはじめとする地方出身者が大挙やってきて~
明治政府が新たに作った(明治5年)墓地が谷中墓地、青山墓地、雑司ケ谷墓地、染井墓地である。
明治の元勲や明治の文士たちの墓はたいていこの4か所にある。
その後東京にさらに人口が集中し、新たに二つの墓地が出来た。多磨霊園(大正13年)と小平霊園(昭和23年)である。
実家の寺は、浅草田原町の寺町、
第二十代になる住職によると元禄年間に日本橋にあり、その後、幕府の命で浅草に集められた寺は一千、現在は三百、
区画整理、道路拡張で移転した寺が多いとか、それであのあたりの道路の下は遺骨が多いと。
中央左方の赤印が鳥越の実家、右方赤印が宗園寺
檀家の一番古いM家は元禄からで今は鎌倉と、あちこち散らばり、台東区の檀家は今、実家を入れて5軒だけと。
そんな話をしているうちに、ご住職は私と妹の中学の後輩だということがわかり、高校は?といよいよ話は佳境に。
私の15歳下の住職です。私達姉妹には先代の印象が強いのですが、こんな打ち解け話などしたことはなかったです。
祖父の次郎さんは鳥越神社そばの本宅で簪(かんざし)の問屋、浅草橋に何軒も家作(貸し長屋)、絶頂時にこの墓地を得たとか。その跡取りの父と、上州足利の機屋(はたや;織り元)の長女の母は、見合いのつり合いもよかったのでは。
問題はこれからの墓守で、妹がこのままだと、どんなに長くても30年で途絶えることに。
そのことを住職に、結局問えなかったのはいつもの私の悪い癖、などひとりごちてます。
体調は、大丈夫でしょうか。
私は、普段見ないような夢を見たり、
昔のことを思い出したりしました。
お墓やルーツのお話は、知らないことも多く、
とても勉強になりました。
私にも江戸人の血が流れていることを、
誇りに感じ、大切にしたいなと思いました。
また、マルガリータさんとお話させていただくことを楽しみにしています。
お墓もあちこち満杯で大変らしいですが、
浅草の歴史あるお寺のことを知っていてもらいたくて書きました。
川本三郎の本が特定できたのと、切絵図が見つかったのは幸運でした。
“本がありすぎて読みたいときに出てこない”状態は何とかしなければ(笑)