啄木北海道に
函館 明治40年、啄木は渋民を離れ、函館生活に入りました。啄木は友人の紹介で函館弥生尋常小学校の代用教員になり、家族を呼び寄せ、函館青柳町に家を借りた。
青柳町にある函館公園の啄木歌碑
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
啄木
その後、啄木は代用教員を辞め、函館日日新聞社に勤務することになる。啄木が訪れたと思われる大森海岸にも啄木歌碑が建立されています。
函館・大森海岸の啄木小公園の啄木歌碑
潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜茄子よ
今年も咲けるや
啄木
倶知安 函館日日新聞社に入社後、函館大火があり、新聞社も焼け落ちた。啄木は、函館を発ち倶知安を通過し、札幌に向かった。函館滞在は半年にもならなかった。
倶知安駅前の啄木歌碑
真夜中の
倶知安驛に
下りゆきし
女の鬢(びん)の
古き痍
啄木
札幌 啄木は函館から分かれ札幌で生活することになり、友人の紹介で、北門新報に務めることになる。当時、札幌は、北海道では小樽、函館に次ぐ三番目の都市でした。
札幌「偕楽園緑地」の啄木歌碑
アカシヤの街樾(なみき)にポプラに
秋の風
吹くがかなしと日記に殘れり
啄木
啄木が函館の弥生小学校代用教員時代に同僚だった橘智恵子の実家は札幌郊外で果樹園を経営しており、その風景を歌った歌碑が天神山公園にある。
札幌天神山公園の啄木歌碑
石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
啄木
また、智恵子の実家の庭に「林檎の碑」があり、裏面に林檎園ができた由来が延べられており、その末尾に歌が刻まれている。
橘智恵子の実家にある「林檎の碑」
石狩の都の外の君が家
林檎の花の
散りてやあらむ
啄木
啄木が訪れたと思われる大通り公園にも啄木歌碑が建立されている。
札幌大通り公園の啄木歌碑
しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ
啄木
小樽 啄木は一か所に長く住むのは適さないようで、札幌滞在も2週間で、小樽に行くことにした。
小樽では小樽日報に務めることになるが、ここでも、うまくいかず、小樽日報も退社することになる。
小樽公園の啄木歌碑
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思う
啄木
水天宮神社の啄木歌碑
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
啄木
小樽日報を辞めた啄木は、明治41年に入り、釧路新聞で働くことにし、釧路に行くため、小樽駅に向かった。小樽駅には妻節子が子供を背負い見送りに来た。
小樽駅前の啄木歌碑
子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
啄木
美唄 啄木は小樽駅から列車に乗り美唄駅?を通り、釧路駅に向かった。
美唄駅前広場の啄木歌碑
石狩の美国といへる停車場の
柵に乾してありし
赤き布片かな
啄木
啄木は釧路新聞で働くことになる。釧路には多くの啄木歌碑があるようですが、私、釧路を訪れたことがなく、啄木歌碑の写真がないので、ここでは省略し、次回は啄木の友人の出身地等にある啄木歌碑を掲載します。
函館 明治40年、啄木は渋民を離れ、函館生活に入りました。啄木は友人の紹介で函館弥生尋常小学校の代用教員になり、家族を呼び寄せ、函館青柳町に家を借りた。
青柳町にある函館公園の啄木歌碑
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
啄木
その後、啄木は代用教員を辞め、函館日日新聞社に勤務することになる。啄木が訪れたと思われる大森海岸にも啄木歌碑が建立されています。
函館・大森海岸の啄木小公園の啄木歌碑
潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜茄子よ
今年も咲けるや
啄木
倶知安 函館日日新聞社に入社後、函館大火があり、新聞社も焼け落ちた。啄木は、函館を発ち倶知安を通過し、札幌に向かった。函館滞在は半年にもならなかった。
倶知安駅前の啄木歌碑
真夜中の
倶知安驛に
下りゆきし
女の鬢(びん)の
古き痍
啄木
札幌 啄木は函館から分かれ札幌で生活することになり、友人の紹介で、北門新報に務めることになる。当時、札幌は、北海道では小樽、函館に次ぐ三番目の都市でした。
札幌「偕楽園緑地」の啄木歌碑
アカシヤの街樾(なみき)にポプラに
秋の風
吹くがかなしと日記に殘れり
啄木
啄木が函館の弥生小学校代用教員時代に同僚だった橘智恵子の実家は札幌郊外で果樹園を経営しており、その風景を歌った歌碑が天神山公園にある。
札幌天神山公園の啄木歌碑
石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
啄木
また、智恵子の実家の庭に「林檎の碑」があり、裏面に林檎園ができた由来が延べられており、その末尾に歌が刻まれている。
橘智恵子の実家にある「林檎の碑」
石狩の都の外の君が家
林檎の花の
散りてやあらむ
啄木
啄木が訪れたと思われる大通り公園にも啄木歌碑が建立されている。
札幌大通り公園の啄木歌碑
しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ
啄木
小樽 啄木は一か所に長く住むのは適さないようで、札幌滞在も2週間で、小樽に行くことにした。
小樽では小樽日報に務めることになるが、ここでも、うまくいかず、小樽日報も退社することになる。
小樽公園の啄木歌碑
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思う
啄木
水天宮神社の啄木歌碑
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
啄木
小樽日報を辞めた啄木は、明治41年に入り、釧路新聞で働くことにし、釧路に行くため、小樽駅に向かった。小樽駅には妻節子が子供を背負い見送りに来た。
小樽駅前の啄木歌碑
子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
啄木
美唄 啄木は小樽駅から列車に乗り美唄駅?を通り、釧路駅に向かった。
美唄駅前広場の啄木歌碑
石狩の美国といへる停車場の
柵に乾してありし
赤き布片かな
啄木
啄木は釧路新聞で働くことになる。釧路には多くの啄木歌碑があるようですが、私、釧路を訪れたことがなく、啄木歌碑の写真がないので、ここでは省略し、次回は啄木の友人の出身地等にある啄木歌碑を掲載します。