啄木の釧路での生活は76日間でしたが、釧路の人には親しまれたようで歌碑も26基ほど建立されています。私が数年前に釧路を訪れた時にも、家の前に立っているお母さんに、啄木の歌碑の場所を聞いたら、案内してやると言い、車で数カ所の歌碑を案内していただき、その後市内を案内いただきました。啄木は現在も親しまれいるのですね。
① 小奴碑(釧路市南大通)
碑文
明治41年1月21日石川啄木は妻
子をおいて単身釧路に来る
同年4月5日当地を去るまで釧路新聞
社に勤め記者として健筆をふるへり
あはれ国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓を啜るごとくに
当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知交
情を深めり
小奴といひし女の
やはらかき
耳朶なども忘れがたかり
舞へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒の酔ひにたふるるまでも
漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心
をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴もまた啄木の文才を高く評価し後年
旅館近江屋の女将となり七十有余年の
生涯を終るまで啄木を慕い通せり
今 此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻
み永く二人の追憶の記念とす
昭和41年11月
② 本行寺の歌碑(釧路市弥生町)
一輪の赤き薔薇の花を見て
火の息すなる
唇をこそ思へ 啄木
本行寺は啄木が歌留多に興じたゆかりから、歌留多寺とも言われています。山門にあるこの歌碑は、歌留多会で出会った梅川操を詠んだといわれる一首で、『釧路新聞・詞壇(明治41年3月19日)』に発表しました。詞壇については、明治41年1月28日の啄木日誌を見ると「今日から一面に詞壇を設け、且つ大木頭と云ふ名で、150行位づつ政界の風雲を書くことにした」とあります。