(32)「啄木新婚の家」の歌(盛岡市帷子小路) 『一握の砂』より 啄木19歳
啄木新婚の家の歌
啄木
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
啄木の上京中、盛岡の石川家では、節子との婚姻届けを出し、挙式を明治38年5月30日に決めました。しかし、啄木はこの日には帰らず、花婿のいない結婚式となりました。啄木は明治38年6月4日、盛岡に帰り、帷子小路の新居に入りました。両親、妹も同居で、啄木夫婦は4畳半の狭い部屋です。現在、この家は「啄木新婚の家」として公開されています。
啄木は節子との結婚式に出席のため東京から盛岡に向かいました。ところが、途中仙台に立ち寄り、盛岡では降りず、まっすぐ好摩(渋民)に行ってしまいます。結婚式に出るのに抵抗があったのでしょうか。書簡をみると、
明治38年5月22日 ふる里の閑古鳥聴かむと俄かに都門をのがれ来て、一咋夕よりこの広瀬川の岸に枕せる宿に夢の様なる思に耽り居候、月末までには再び都門に入るつもり、この落人の心のかずかず、うさたのしさハ凡て故里より申上げ候、 金田一京助様 仙台にて 啄木
明治38年5月30日 友よ友よ、生は猶活きてあり、二三日中に盛岡に行く、願くは心を安め玉へ。 上野広一様 好摩ステーションに下りて はじめ
明治38年6月〇日 この中津川の川音封じ込むる一書、恐らく兄は意外としたまふらむ、生の一家、双親と小妹と愛妻と、共にここに新居を営みてより既に夢の如く十数日を送り候、・・・小生は結婚いたし候、天下のログデナシのゴロツキの小生が、杜陵の青風に胸の塵臭吹き払はせて一家団欒のうちに無上の『愛』の宝巣をむさぼりつつあるとは、さても奇妙なる事に候、・・・ 伊東圭一郎宛 盛岡より
啄木新婚の家には盛岡駅東口バスターミナルから盛岡都心循環バス「でんでんむし号」右回りに乗り「啄木新婚の家」前で下車ください。
でんでんむし号
啄木新婚の家
新婚の家の間取り
啄木一家がこの家に住んでいた時は3家族が住んでおり、啄木一家は赤色の部屋を使用しておりました。家の裏側の玄関を用い、4畳半が啄木夫妻、8畳に両親と妹が住んでいたようです。
新婚の家の裏側玄関
啄木はここに3週間住み加賀野に移ります。これについては岩手日報に投稿した閑天地の中の「我が四畳半」の中にあり、最後に次のように書かれています。『今般帷子小路の四畳半より加賀野川原町四番戸に転居仕候 』と・・・僅か三週の間なりしとは云へ、我が半生に於ける最大の 安慰と幸福とを与へたりしかの 陋苦しき四畳半が、この追懐によりて今また重大なる経験と智慧と勇気とを恵んで惜まざるに感謝し、同時に、我が生涯をして停滞せしむる事なく、さながら最良なる教師の如く、常に刺激と興奮の動機を与へて倦まざるの天に謝す。かくて我は、我が家の貧と、我が心の富に於て、独り自ら帝王の如く尊大なる也。