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たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木歌碑めぐり(41)

2018年05月30日 | 啄木歌碑

(41)新山の歌碑(岩手県八幡平市新山)       昭和39年12月建立(『一握の砂』より)  


八幡平市新山の啄木歌碑


        啄木 

かの家の

  かの窓にこそ

春の夜を

  秀子とともに

 蛙聴きけれ

 

 

明治40年4月、啄木は渋民尋常小学校を退職し函館に渡ることにしました。函館は文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)から原稿の依頼もあり、松岡蕗堂らと知遇を得ていました。この歌は、啄木が函館に向かう前夜の明治40年5月3日、同僚の秀子宅を訪れた時の様子を詠んでいます。

 

啄木日誌(明治40年5月3日)                                                  夜ひとり堀田女史を訪ふ。程近き田に蛙の声いと繁し。胸を栱ぎて蛙の声をきく。この声は、予をして幼き時を思出さしめき。又、行方の測りがたきを想ひ廻さしめき。さながらこれ一種生命の音楽也。

 

ここは啄木の父・一禎の生家のとなりで秀子が平館小学校に勤務していた時から住んでいた跡です。歌碑の近くに咲く三色の梅の木はとても綺麗です。

 

新山の歌碑前の三色の花の木


八幡平市には、こちらにも三色の梅の木がありました。


岩手山を背景に咲く三色の梅の木(八幡平市)








 






啄木歌碑めぐり(40)

2018年05月21日 | 啄木歌碑

(40)大泉院の啄木歌碑 (岩手県八幡平市平舘)   昭和40年11月建立(『明星』より) 啄木21歳 


大泉院の啄木歌碑 


     わが父は     啄木

六十にして家をいで

      師僧のもとに聴問ぞする

 

明治40年3月5日、父一禎が突然家を出て、葛原対月が住職を務める野辺地の定光寺に身を寄せていました。父親を詠んだ啄木の歌の碑は、平成21年9月に高知駅前にも建立されました。高知は父一禎の終焉の地です。 

「よく怒る人にてありしわが父の 日ごろ怒らず怒れと思ふ」

 

啄木日記(明治40年3月5日)                                                            「此一日は、我家の記録の中で極めて重大な一日であった。朝早く母の呼ぶ声に目をさますと、父上が居なくなったといふ。父上が居なくなったのではなくて、貧といふ悪魔が父上を追ひ出したのであらう。・・予は生まれて初めて、父の心といふものを知った。」


啄木のお父さんの故郷・八幡平市からは ”春を告げる岩手山の「飛鯉形」(ヒゴイガタ)” が見られます。


春を告げる岩手山の 飛鯉形  (ヒゴイガタ)  


上坊牧野の一本桜 


 





啄木歌碑めぐり(39)

2018年05月15日 | 啄木歌碑

(39)「旧斎藤家住宅」前の歌碑(啄木記念館中庭)  平成8年建立(『小天地』より)  


節子の歌碑



この舟は海に似る瞳の君のせて

白帆に紅の帆章したり

石川節子

 

歌は『小天地』に発表した節子の歌です。この家は啄木日記(明治39年3月10日)を見ると「来る4月当村小学校に教鞭をとる筈に相成居候。月給8円の代用教員!天下にこれ程名誉な事もあるまじく候」とあるように、渋民尋常小学校の代用教員になり、家族と過ごした家です。斎藤家のこの建物は昭和45年に盛岡の石川啄木記念館中庭に移築され、盛岡市指定文化財に指定されました。


 

 



啄木の日記(明治39年4月10日)                                                                                                                                                                                 「朝早く、野辺地が浦の父から、今日帰るといふ通知来たので、自分は2階の室へ机を移した。午後父が帰って来た。」とあり、2階にも部屋を借り、4月13日に「村役場へ出頭、11日附の、「渋民尋常小学校尋常科代用教員を命ず、但し月給八円支給の辞令を受けた、」とあります。


啄木と齋藤さんとの関係は、啄木が宮崎大四郎に宛てた書簡(明治43年3月13日)に、次のように記されています。        「僕が弟々と呼んでゐた少年(中学1年迄修行、年18位)・・・少し傲慢なところはあるけれども、才気爆発な、そして見どころのある少年だ、僕はもっと都合がいゝと呼寄せて学問させたいと思ってるんだけれども、それは出来ぬ、齋藤佐蔵と言って、僕が渋民の代用教員時代そいつの家の二階を借りて住んでゐたのだ、」


屋根が葺き替えられ改修された旧斎藤家


旧斎藤家一階


二階には階段が危険ということでのぼれません。

 

記念館の庭の 啄木と子供のブロンズ像

 

啄木・子供のブロンズ像前から見た岩手山



なお、せつ子は『小天地』に、「こほろぎ」の題で、次の歌を先頭に13首詠んでいます。

「よき衣を草にまろねのあかつきやこほろぎなきぬ人は夢みぬ」


 







啄木歌碑めぐり(38)

2018年05月09日 | 啄木歌碑

(38)「斎藤家」の歌碑(盛岡市渋民)          昭和29年5月建立(『一握の砂』より) 啄木20歳


齋藤さん宅前の歌碑

 

                                                                  かにかくに渋民村は戀しかり

                                                                   おもひでの山

                                                                   おもひでの川

                                                                                         石川啄木

 

啄木は明治39年3月4日、盛岡を離れ、母と妻を連れて渋民村に戻り、斎藤家に居住しました。ここは、明治39年3月から函館に旅発つ翌年5月までの1年2か月を妻、母と共に生活していたところです。父は野辺地での生活、妹光子は盛岡に下宿しておりました。斎藤家のこの歌碑は、昭和29年5月に公開された新東宝映画「雲は天才である」の映画監督、中川信夫が寄贈したものです。

 

 

 

明治43年3月13日本郷より宮崎大四郎宛書簡より抜粋                                    「僕が弟々と呼んでゐる少年齋藤佐蔵と言って僕が渋民の代用教員時代そいつの家の二階を借りて住んでゐたのだ」

 

 現在、啄木が住んだ斎藤さんの旧い家は啄木記念館の庭に移転・保存されています。また、その後建立された齋藤さんの家は解体され更地となり啄木歌碑のみが残っています。





なお、啄木が3月4日に渋民に戻ったことは、3月4日の啄木日記、盛岡から引っ越しの前日に弧舟に出した書簡にも書かれています。 

啄木日記(明治39年3月4日)                                                9ヶ月間の杜陵生活は昨日に終りを告げて、なつかしき故山渋民村に於ける我が新生涯はこの日から始まる。・・・不取敢机を据ゑたのは六畳間。この一室は、我が書斎で、又三人の寝室、食堂、応接室、すべてを兼ぬるのである。あゝ都人士は知るまい、かゝる不満足の中の満足の深い味を。

書簡(弧舟 宛)                                                       3月4日より岩手郡渋民村の人と相成り候に付、遺稿御出来の上は1部御恵み被下度願上候。時々御便信被下度、又御暇の際は御来游被下度候。閑村野趣の裡、或は人しれぬ高韻もひゞらむか。                                                                                                                       弧舟様                  盛岡最後の夜 逸民 啄木 

 

弧舟とは小田島孤舟(本名・佐々木理平治)のことで、岩手文壇の育成と発展に貢献した人で、文芸雑誌『曠野』を発行しています。弧舟は『小天地』には佐々木弧舟の名前で長詩「かちの花束」を載せています。

 



啄木の「おもひでの山 おもひでの川」は岩手山であり北上川だったのでしょう。北上川の河川敷に咲く一本桜は岩手山を背景に一層美しく見えます。


北上川河川敷の桜


一本桜と言えば、八幡平市にもあります。春を告げる岩手山の「飛鯉形」(ひごい  がた)を背景にした綺麗な桜です

 

  為内の一本桜

 

上坊牧野の一本桜


なお、盛岡市では、春を告げるのは岩手山頂上の「ワシ形」です。


岩手山頂上の「ワシ形」





盛岡の開花情報

2018年04月20日 | 啄木歌碑

盛岡の桜は昨日(2018.4.19)の暖かさで一気に見頃になりました。盛岡には国指定天然記念物の桜が2か所にあります。一つは盛岡裁判所にある盛岡石割桜、もう一つが龍谷寺のモリオカシダレです。

 

裁判所の石割桜

盛岡駅から市内循環バス(100円均一料金)の右回りで岩手銀行本店前で降ります。銀行前から岩泉方向に行く道路を挟んで裁判所があります。 

 

 盛岡石割桜(2018.4.20 早朝) 

 

 

岩手銀行本店の啄木歌碑


                       盛岡の中学校の
                       露台の
                       欄干に最一度我を倚らしめ

                          石川啄木(一握の砂)

                       岩手県立盛岡中学校濫觴の地


岩手銀行本店の啄木歌碑は岩泉方向に行く道路沿いにあります。石割桜を見た後、この道路を岩泉方向に進むと800m先に龍谷寺があります。


龍谷寺のモリオカシダレ

この通りはお寺街で多くのお寺が並んでいます。

 

 

龍谷寺のモリオカシダレ(2018.4.20 早朝) 


 

 

 岩手公園の桜

岩手公園は裁判所から歩いてすぐですし、盛岡駅からでしたら市内循環バスの左回りで岩手公園前で降ります。

 

岩手公園の桜(2018.4.20 早朝) 


岩手公園の桜(2018.4.20 早朝)


今宵のお花見会の準備でしょうかシートが張られていました。今夜は金曜日なのでお花見で込み合うのでしょう。


 岩手公園の啄木歌碑

 

                     不来方のお城の草に寝ころびて
                     空に吸はれし
                     十五の心

                                   啄木


高松の池の桜

高松の池には盛岡駅から松園バスターミナル行きバスに乗車、NHK前で下車、歩いて5分ほどです。高松の池は盛岡の北方向になり、桜も咲き始めでした。明日・明後日が見頃でしょう。

 

高松の池の桜(2018.4.20 早朝)





啄木歌碑めぐり(37)

2018年04月13日 | 啄木歌碑

(37)秋葉神社の歌碑(岩手県葛巻町)            昭和31年6月建立(『書簡』高野桃村宛て)  



秋葉神社の碑


何越可もおもひ天寝流や白雲登

葛葉の山能星降る宵盤

 啄木

 

碑の中央に「象鼻山」、両側に桃村の歌と啄木の歌「何をかもおもひて寝るや白雲と葛葉の山の星降る宵は」が刻まれています。この歌は、『小天地』創刊に参画し短歌も載せている友人高野桃村に宛てた書簡(明治38年10月12日)の中の2首の内の1首で、もう1首は、次の歌です。

  「こほろぎや、葛葉隠(くづはがく)りのうたびとの 詩幸おもひ、きく夜頃かな。」


書簡には上の歌2首に続き、次のように書かれています。                                                                                                                         「先日もおハガキを拝しまゐらせ候ひしが、短かき文にかきつくすべき事にもあらずと、いそがわしさに遂また御無沙汰いたし居候所、たゞ今また御出盛の御知らせに接し、うれしさ添けなさ、お申訳なさ、一日も早くお目にかゝらむことお祈り上候」       10月12 夕

高野桃村様               盛岡市小天神社  石川啄木



この歌碑は、昭和31年に葛巻町の象鼻山に遊園地をつくり、その記念に、象鼻山の名付け親である高村桃村と啄木の歌を刻んだ碑を建立しました。その後、歌碑は昭和47年に秋葉神社に移転されましたなお、この歌碑にある桃村の歌は次の歌です。 

                                     

山乃精以満ひ路古里能夕霧や劫初忍者ゆ葛巻の夏桃村」

                                                  (山の精いまひろごろりの夕霧や 劫初忍ばゆ葛巻の夏)



秋葉神社入口


秋葉神社鳥居

象鼻山


散歩している方にお聞ききしましたら、前方の山全体が像のかたちに似ているので「象鼻山」と名づけられた、ということでした。


なお、 高野桃村は『小天地』に、「おもひの籠」と題し、次に歌を含め12首詠んでいます。


「なき風に月落葉する江の秋や冥想(おもひ)の籠に詩は拾はむ。」

 


 


 


 





啄木歌碑めぐり(36)

2018年04月08日 | 啄木歌碑

(36)天満宮「阿形の狛犬」の歌碑(盛岡市新庄)   昭和8年7月建立(『小天地』より)  


天満宮「阿形の狛犬」の歌碑

 

                         夏木立中の社の石馬も

                         汗する日なり

                         君をゆめみむ

                                啄木

 

明治38年に発行された『小天地』には「石川啄木」名で10首、匿名で8首の歌を載せていますし、節子も投稿しています。しかし、『小天地』は1号のみで廃刊になりました。明治39年に入り、父一禎は仕事もなく、盛岡を離れ、野辺地の常光寺に赴きます。この歌は、一対の狛犬の「阿形の狛犬」の台座に刻まれています。

啄木が故郷岩手で発行したのが『小天地』です。月刊文芸誌を考えていたようですが、1号のみで廃刊になりました。



 (巻頭言)                小天地 

「鶏が鳴くあづまの國の不来方の古城の跡や下じめり片山かげの樫の根にふと咲き出でしろがねの玉の鈴ふる軟草の君影草よ蔭草のこの蔭花の小さく見しあめつちなれどしかすがに晝は日も照り夕べには星さへ添ひてかくやくの天津光のはごくみの恵みの露のあまねかるいのちに咲くや不来方の古城の跡の蔭草の蔭花なれどさはに匂ひぬ」 

啄木は『小天地』には、「石川啄木」名で、次の歌を含め10首詠んでいます。

「ほとゝきす天の祠の青石の扉を捲く雲を喰みて啼ける」


 

 

 この他、匿名?(古海琴子)で次の歌を含め8首詠んでいます。

「ひと緒琴ひくきしらべの汲みぬるやと思ひききぬ壁のこほろぎ」










啄木歌碑めぐり(35)

2018年04月02日 | 啄木歌碑

(35)富士見橋の歌碑(盛岡市加賀野)            昭和56年4月建立(『一握の砂』より) 


富士見橋の啄木歌碑


                         岩手山

                       秋はふもとの三方の

                       野に満つる蟲を何と聴くらむ

                                 啄 木

 

啄木は帷子小路の新婚の家で3週間暮らし、明治38年6月25日、加賀野磧町に転居しました。ここでは、同年9月5日、『小天地』第1号が発刊されております。昭和56年、加賀野の家のすぐ傍を流れる中津川に富士見橋が造られ、橋柱に啄木の歌を刻んだ銅版をはめ、欄干は『小天地』の表紙のケシの花をモチーフにしました。啄木が住んだ住居跡には、啄木に関する案内板が立っています。


案内板


啄木「小天地」発行の跡

明治38年(1905)6月25日、啄木が新婚3週間目に転居してきたのがこの地であり、また、文芸雑誌「小天地」を発行したのもここであった。ここに住んだのは、翌年3月に代用教員となって渋民に帰るまでのわずか9か月間であるが、啄木の生涯において記念すべき時代であった。この地の感想は随想「閑天地」我が四畳半(八)並びに「江畔雑詩」のはしがきに詳しく述べられている。


橋の欄干は『小天地』の表紙のケシの花をモチーフにし『小天地』をイメージしております。歌についても『小天地』の中から選んでほしかったですね。例えば、

「みちのくや丘の公孫樹の金色の秋の雲にし鵠は巣くひぬ」

 

「小天地」は石川啄木が盛岡市で発行した唯一の文芸雑誌ですが第1号で廃刊になっています。啄木の長詩「佛頭光」、妻節子の短詩「こほろぎ」、金田一花明(京助)の小説「幻境」など郷土の文人のほか、与謝野寛(鉄幹)の長詩「森かげ」、正宗白鳥の「評論一則」などが収められています。


富士見橋は「上の橋」の上流にある歩道橋です。冬になると白鳥も見れます。


富士見橋


上の橋(かみのはし)


上の橋(手前の欄干)から見た富士見橋


 

上の橋は、中の橋、下の橋とともに昔から「盛岡三橋」と呼ばれてきました。盛岡築城と平行して架けられ、欄干を飾っている青銅製の擬宝珠(ぎぼし)はその当時のものです。これほど古い擬宝珠が残っている橋は日本で3箇所(盛岡 上の橋,盛岡 下の橋,京都 三条大橋)のみで、国の重要美術品に指定されており、盛岡の観光名所の1つとなっています。




 「富士見橋」上流の中津川橋(歩道橋)

 



   


啄木歌碑めぐり(34)

2018年03月28日 | 啄木歌碑

(34)天満宮「孤像」の歌碑(盛岡市新庄)        平成4年7月建立(『閑天地(岩手日報)』より)


 「孤像」の歌碑


        啄 木

                                苑古き

木の間に立てる石馬の

 背をわが肩の月の影かな

 

この歌は啄木が岩手日報に連載した『閑天地』の『十一夜会の記』(明治38年7月18日)にあります。天満宮の境内に平成4年に狐像一対が建立され、それぞれの台座に短歌と建立由来が記載ざれています。啄木は岩手日報には明治34年12月3日に、「石川翠江」の著名で歌6首を投稿して以来多くの歌を発表しています。


『閑天地』には明治38年6月9日から7月18日までに21回投稿しており、その中には「落人ごころ」、「世の教育者よ」、「権威は勝利者の手にあり」、「我が四畳半」、「十一夜会の記」などがあり、「十一夜会の記」では歌2首を詠んでおり、もう1首は次の歌です。

「舟がゝりほとゝぎす待つ夜の江や帆もつくろひぬ篝(かがり)の影に」 


啄木は岩手日報には明治35年1月1日までは「翠江」のペンネームを用い、明治37年1月10日以後は「啄木」を用いています。なお、石川一(啄木)がペンネームに「啄木」を初めて用いたのは長詩『愁調』を『明星』に発表した明治36年12月のようです。『明星』には明治35年10月号から明治41年11月号(終刊号)まで数多くの歌を発表しています。


明星終刊号


啄木は明星終刊号に52首詠んでおり、次の歌もあります。

               「ふるさとの山を思へば一茎の草の香さへも親しまれつつ」

                                                      「恋ふらくは竈(かまど)のなかに渦巻ける煙よりけに胸の苦しき」


天満宮には階段を上っていきますが、階段を上るのが大変な方は裏側に駐車場もありますので、そちらを利用すると良いと思います。


盛岡天満宮入口


階段の上から見るとまっすぐな道路が10kmほど続き四十四田ダムまで続いています。途中、中津川に架かる「上の橋」、JR山田線の陸橋を通り、岩手大学、盛岡第一高校一校脇を通過、国道4号盛岡バイパスを横切り盛岡第三高校前、松園バスターミナル前を通り過ぎ四十四田ダムに着きます。なお、県立博物館は松園バスターミナルから歩いて10分ほどです。盛岡駅から松園バスターミナル行き(経由)バスが数多くの本数で出ています


天満宮の階段の上から


今朝の岩手山の頂上にはワシ形が現れていました。


岩手山頂上のワシ形(2018.3.28)

 

岩手山頂上(2018.3.24)


岩手山頂上のワシ形(2018.3.18)

 




啄木歌碑めぐり(33)

2018年03月24日 | 啄木歌碑

(33)「詩歌の散歩道」の歌碑(盛岡市役所裏、中津川河川敷)  平成5年11月建立(『明星』より)


中津川河川敷の啄木歌碑


中津川や月に河鹿の

啼く夜なり

涼風追ひぬ夢見る人と

      啄木         北流

 

この歌は、啄木・せつ子が結婚し、雑誌『明星』(明治38年7月号)に発表した歌です。この歌碑は盛岡市役所裏の中津川の河川敷の「詩歌の散歩道」に建立されました。歌碑では著名を啄木にしておりますが、啄木・節子の連名の歌です。なお、『明星』は詩人・与謝野鉄幹によって明治33年に創刊された文学雑誌です。

『明星』(明治38年7月号)には啄木・せつ子の連名で10首を発表しており、次の歌もあります。

「夏の月は窓をすべりて盗むごと人の寝顔に口づけにける」



明星』創刊号 



 

中津川の河川敷の歌碑

 

川の向こうの土蔵群は盛岡市の保存建造物に指定されている「茣蓙九」商店です。案内板によると「この建物は、江戸時代後期、明治中期、明治末期と次々に建てられたもので、藩政時代からの商家の姿を今に伝える建造物である。」とあります。


 

 盛岡市役所(歌碑は大木のふもとにあります)

 

盛岡市役所は中津川下流側の「中の橋」と上流側の「与の字橋」との間にあります。「与の字橋」の上流が「上の橋」です。

 

 

 

与の字橋

 

中の橋

 

 先日、箱根に雪が降ったとの報道がありましたが岩手山にも大分雪が積もり、春を告げるワシ形が消え、すっぽり雪に覆われていました。

 

岩手山(2018.3.24)


岩手山頂上(2018.3.24)


岩手山頂上のワシ形(2018.3.18)