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たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木歌碑 建立年・所在地(1-2)

2021年12月22日 | 啄木歌碑

啄木歌碑は国内に160基ほど建立されていますが、その歌碑と建立年、所在地を、前報に続き、建立年順に掲載します。

 

11.  好魔駅舎の歌碑

  「霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の蟲こそすずろなりけり」(木製の歌碑です)

    昭和29年4月建立  好摩駅舎(銀河鉄道、JR東日本) 岩手県盛岡市好摩

 

 

12. 盛岡先人記念館の歌碑

  「ふるさと能山尓向ひて 言ふ事那し ふるさとの山者あ里可多記可奈

   昭和29年4月建立  盛岡先人記念館  岩手県盛岡市本宮

 

 

13. 斎藤家の歌碑

  「かにかくに渋民村は戀しかり おもひでの山 おもひ出の川」

   昭和29年5月建立  齋藤家前 岩手県盛岡市渋民 

 

 

 

14. 蓋平館別館跡の歌碑

  「東海乃 小島能磯の白砂に 我泣き怒れ天 蟹登たわむる」

   昭和30年3月建立  蓋平館別館跡 東京都文京区本郷 

 

 

 

15. 岩手公園の歌碑

 「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」

   昭和30年10月建立  岩手公園 岩手県盛岡市内丸

 

 

16. 等光寺の歌碑

 「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」

   昭和30年10月建立  等光寺 東京都台東区浅草

 

 

17. 片江風致公園の歌碑(1)

 「かにかくに澁民村は恋しかり おもひでの山 おもひ出の川」

   昭和30年頃建立 片江風致公園 福岡県福岡市城南区南片江

 

 

18. 片江風致公園の歌碑(2)

  「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 」

   昭和30年頃建立 片江風致公園 福岡県福岡市城南区南片江

 

 

19.合浦公園の歌碑

 「船に酔ひてやさしく奈れる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思へば」

    昭和31年5月建立  合浦公園 青森県青森市合浦

 

 

20. 秋葉神社の歌碑

  「何越可もおひ天寝流や白雲登 葛葉の山能星降る宵盤」

   昭和31年6月建立  秋葉神社 岩手県葛巻町

 

 

 

 

 

 


啄木歌碑 建立年・所在地(1-1)

2021年12月21日 | 啄木歌碑

啄木歌碑は国内に160基ほど建立されていますが、その歌碑と建立年、所在地を、建立年順に掲載します。

 

1.渋民公園の歌碑

     「 やはらかに柳あをめる 北上の岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに」 

   大正11年4月建立 渋民公園 岩手県盛岡市渋民 

 

 

2.立待岬の歌碑

  「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」 

   大正15年8月建立 啄木一族の墓 北海道函館市住吉町立待岬

 

3.天満宮の歌碑

  「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも」 

   昭和8年7月建立 天満宮 岩手県盛岡市新庄町

 

 

 

4.天満宮「阿形の狛犬」の歌碑

  「夏木立中の社の石馬も 汗する日なり 君をゆめみむ」   

    昭和8年7月建立 天満宮 岩手県盛岡市新庄町

 

 

5.天満宮「吽形の狛犬」の歌碑

  松の風夜晝ひびきぬ 人訪はぬ山の祠の 石馬の耳に

   昭和8年7月建立  天満宮 岩手県盛岡市新庄町

 

 

6.米町公園の歌碑

  「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」

   昭和9年12月建立 米町公園 北海道釧路市米町

 

 

 

7.滝川公園の歌碑

  「空知川雪に埋れて 鳥もみえず 岸辺の林尓人ひとりゐき」

   昭和25年6月建立 滝川公園 北海道砂川市空知太

 

 

8.阿寒湖畔の歌碑

  「神のごと 遠くす可多を阿ら者世る 阿寒のやまの雪能希本の」

   昭和26年9月建立 阿寒湖畔 北海道釧路市阿寒町

 

 

9.小樽公園の歌碑

  「こころよく 我尓はたらく仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ」

    昭和26年10月建立 小樽公園 北海道小樽市花園

 

 

10.函館公園の歌碑

  「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」

   昭和28年4月建立 函館公園 北海道函館市青柳町 

 

 

 

 

 


啄木歌碑 建立年・所在地(1)

2021年12月19日 | 啄木歌碑

啄木歌碑は国内に160基ほど建立されていますが、建立年とその所在地を載せます。

 

歌碑建立年および所在地(1)

 

1.大正11年4月 渋民公園 岩手県盛岡市渋民 

   やはらかに柳あをめる 北上の岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに 

2.大正15年8月 啄木一族の墓 北海道函館市住吉町立待岬

   東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 

3.昭和8年7月 天満宮 岩手県盛岡市新庄町 

   病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも 

4.昭和8年7月 天満宮 岩手県盛岡市新庄町 

   夏木立中の社の石馬も 汗する日なり 君をゆめみむ

5.昭和8年7月  天満宮 岩手県盛岡市新庄町   

   松の風夜晝ひびきぬ 人訪はぬ山の祠の 石馬の耳に

6.昭和9年12月 米町公園 北海道釧路市米町 

   しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな

7.昭和25年6月 滝川公園 北海道砂川市空知太 

   空知川雪に埋れて 鳥もみえず 岸辺の林尓人ひとりゐき

8.昭和26年9月 阿寒湖畔 北海道釧路市阿寒町

   神のごと 遠くす可多を阿ら者世る 阿寒のやまの雪能希本の

9.昭和26年10月 小樽公園 北海道小樽市花園 

   こころよく 我尓はたらく仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ

10.昭和28年4月 函館公園 北海道函館市青柳町 

   函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花

11.  昭和29年4月 好摩駅舎(銀河鉄道、JR東日本) 岩手県盛岡市好摩

       霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の蟲こそすずろなりけり(木製の歌碑です)

12.  昭和29年4月 盛岡先人記念館 岩手県盛岡市本宮 

   ふるさと能山尓向ひて 言ふ事那し ふるさとの山者あ里可多記可奈 

13.  昭和29年5月 齋藤家前 岩手県盛岡市渋民 

   かにかくに渋民村は戀しかり おもひでの山 おもひ出の川

14.  昭和30年3月 蓋平館別館跡 東京都文京区本郷  

        東海乃 小島能磯の白砂に 我泣き怒れ天 蟹登たわむる

15.  昭和30年10月 岩手公園 岩手県盛岡市内丸 

   不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心

16.  昭和30年10月 等光寺 東京都台東区浅草 

   浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心

17.  昭和30年頃 片江風致公園 福岡県福岡市城南区南片江 

   かにかくに澁民村は恋しかり おもひでの山 おもひ出の川

18.  昭和30年頃 片江風致公園 福岡県福岡市城南区南片江 

   東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

19.  昭和31年5月 合浦公園 青森県青森市合浦 

   船に酔ひてやさしく奈れる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思へば

20.  昭和31年6月 秋葉神社 岩手県葛巻町 

   何越可もおひ天寝流や白雲登 葛葉の山能星降る宵盤

21.  昭和32年7月 氷上神社参道 岩手県陸前高田市 

   命なき砂のかなしさよ さらさらと にぎればゆびの間よりおつ

22.  昭和32年12月 平舘駅前 岩手県八幡平市平舘

   たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず

23.  昭和33年10  啄木小公園 北海道函館市大森浜 

   潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや 

24.  昭和35年6月 稲荷山山頂 岩手県盛岡市好摩 

   霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の虫こそすずろなりけれ

25.  昭和36年4月 宝徳寺 岩手県盛岡市渋民 

         ふるさとの寺の畔の ひばの木の いただきに来て啼きし閑古鳥!

26.  昭和37年5月 愛宕公園 青森県野辺地町 

       潮かをる北の濱辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや

27.  昭和37年11月 JR 盛岡駅前広場 岩手県盛岡市盛岡駅前

       ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

28.  昭和39年 本町中学校 神奈川県秦野市富士見町 

    あたたかき飯を 子に盛り 古飯に湯を かけたまふ 母の白髪

29.  昭和39年12月 岩手県八幡平市平館

    かの家の かの窓にこそ 春の夜を 秀子とともに 蛙聴きけれ

30.  昭和40年11月 大泉院 岩手県八幡平市平館新

    わが父は 六十にして家をいで 師僧のもとに聴聞ぞする

 

 

 

 


上野駅構内の啄木歌碑

2021年10月20日 | 啄木歌碑

 

(39)JR盛岡駅前広場の歌碑 (盛岡市)

啄木は明治35年10月27日、盛岡中学を退学、文学で身を立てようと上京を決意し、同年10月30日の夕刻、文学仲間などの友人に見送られ盛岡駅を発ちました。この歌碑は啄木50回忌にあたる昭和37年に建立され、東北新幹線開通にあわせ昭和57年に現在の場所に移されました。

 

 JR盛岡駅前広場の歌碑

 

        啄 木

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

 

 

(40)啄木であい道の歌碑(盛岡駅前開運橋上流)

啄木は退学前の明治35年10月1日発行の雑誌「明星」に、次の歌を発表しています。

 

 啄木であい道の歌碑

 

     血に染めし

             歌をわが世の

             なごりにて

             さすらひここに

             野にさけぶ秋

       石川白蘋 

 

啄木は明治35年3月から盛岡中学退学後の明治36年12月までは「白蘋」のペンネームで作品を発表しています。なお、「啄木であい道」は撤去され、現在この歌碑はありません。

 

(41)JR上野駅構内の歌碑 

啄木は盛岡中学を退学、文学を目指し上京、11月5日、中学5年への編入を目指し、野村胡堂と一緒に神田近辺の中学をたずねましたが、欠員がありませんでした。この歌碑は東北新幹線上野乗り入れを記念して建立されました。東北新幹線は、昭和57年6月に盛岡駅-大宮駅間が開業し、昭和60年3月に上野駅まで延び、平成3年6月に東京駅に乗り入れ、盛岡・東京間の開業となりました。

 

 JR上野駅構内の歌碑  

 

 

ふるさとの 訛なつかし

停車場の 人ごみの中に

そを聴きにゆく

       啄木

 

 

(42)好摩駅舎の歌碑(盛岡市好摩)

啄木は上京し、本郷の村井方に宿泊、一週間程で神田の養精館に転居しました。しかし、生活費も行き詰まり、また体調も崩し、明治36年2月27日、父に伴われ渋民村に帰ってきました。当時、渋民駅は無く、好摩駅を利用していました。この歌碑は平成21年の好摩駅の新築に伴い、ホームから駅舎の中に移設されました。木製の歌碑です。

 

 

霧ふかき好摩の原の

 停車場の

 朝の蟲こそ

 すゞろなりけれ   啄木

 

 

 


啄木中学時代の思い出の場所の歌碑

2021年10月13日 | 啄木歌碑

啄木は明治35年盛岡中学を退学しますが、中学時代の思い出の場所には、啄木歌碑が建立されています。

 

(32)岩手公園の歌碑

 

 岩手公園の啄木歌碑

 

不来方のお城の草に寝ころびて

空に吸はれし

十五の心

         啄 木

 

啄木が教室の窓より遁げて、よく来ていた盛岡城址は盛岡中学の近くで、現在は岩手公園(不来方城跡)になっています。不来方城は盛岡城とは厳密にいえば別の城のようですが、盛岡城の前身とか盛岡城の別名と呼ばれています。岩手公園は市民の憩いの場であり、平成18年、岩手公園開園100周年にあたり「盛岡城跡公園」と愛称を付けました。

 

(33)天満宮の歌碑(盛岡市新庄)

啄木は天満宮にはよく遊びにきていたようです。啄木が遊びに来ていた境内には、明治36年に造られた一対の狛犬が置かれていました。ここに啄木歌碑を設けることになり、狛犬に台座を設け、銅板に刻んだ啄木の歌を台座に埋め込みました。

 

(ⅰ)「阿形の狛犬」の歌碑(盛岡市新庄)  

 

「阿形の狛犬」の歌碑

 

夏木立中の社の石馬も

汗する日なり

君をゆめみむ

      啄木

 

『小天地(明治38年9月号)』に載っている歌です。『小天地』には「石川啄木」名で10首、匿名で8首を載せていますし、節子も投稿しています。しかし、『小天地』は1号のみで廃刊になりました。

 

(ⅱ)「吽形の狛犬」の歌碑

 

「吽形の狛犬」の歌碑

 

松の風夜晝ひびきぬ

人訪はぬ山の祠の

石馬の耳に    

      啄木

 

啄木が遊びに来ていた頃には、台座がなく、地面に直接置かれていました。啄木は狛犬を石馬と表現しています。天満宮

 

(34)「孤像」の歌碑

 

狐像の啄木歌碑

 

        啄 木

苑古き

木の間に立てる石馬の

背をわが肩の月の影かな

 

この歌は啄木が岩手日報に連載した『閑天地(明治38年7月18日)』の中にあります。天満宮の境内に平成4年に「狐像」一対が建立され、それぞれの台座に短歌と建立由来が記載されています。啄木は岩手日報には明治34年12月3日に、「石川翠江」の著名で歌6首を投稿して以来多くの歌を発表しています。

 

(35)望郷の丘の歌碑

 

盛岡市望郷の丘の啄木歌碑

 

          啄木

病のごと

思郷のこころ湧く日なり

目にあおぞらの煙かなしも

 

この歌碑は天満宮の境内から西側に階段を数段下ったところの「望郷の丘」に建立されております。盛岡中学は昭和5年に創立50周年を迎え、歌碑建立が進められ、昭和8年になって、この地に建立しました。東京にいても病気のように故郷を恋い慕う啄木の心がよく読み取れます。天満宮は盛岡市役所から1kmほどです。

 

(36)盛岡市大通りの歌碑

 

盛岡市大道りの啄木歌碑

 

新しき明日の来るを信ずといふ

自分の言葉に

嘘はなけれど-            啄木

 

盛岡大通りのこの辺は、啄木が通学していた旧盛岡中学の近くで、当時は不来方城菜園の跡地でした。昭和52年、盛岡の中心部のこの地に「北風に立つ少年啄木」の像を建て、その台座に啄木の歌を刻みました。像の作者は元岩手大学教育学部特設美術科の本田先生です。盛岡駅から開運橋を渡って進んで行ったところが大通りです。

 

(37)茨島の歌碑

 

茨島の啄木歌碑

 

茨島の松の並木の街道を

われと行きし少女

才をたのみき

      啄木

 

茨島は、盛岡から渋民へ向かう途中の地名で、「われと行きし少女」は節子の親友の板垣玉代で、茨島に住んでおり、啄木もよく遊びに来ていました。啄木は恋多き少年で玉代にも好意を寄せていたのでしょう。この歌碑は、銀河鉄道「厨川駅」から盛岡方面に400mほど進んだ国道4号線の道路沿いにあり、板垣家の人々が建立しました。

 

(38)帰帆場公園の歌碑(岩手県北上市)

 

 帰帆場公園の啄木歌碑

 

 わが恋を

 はじめて友にうち明けし夜のことなど

 思ひ出づる日

            石川啄木

 

啄木は盛岡中学退学直前の明治35年10月初旬、盛岡高等小学校、盛岡中学と同級生の小沢恒一を黒沢尻(現・岩手県北上市)の実家を訪れ、節子との恋の悩みを相談しました。啄木は後日、このことを感謝の念を込めて、日記(明治35年11月14日)に綴っています。北上市では啄木と小沢の友情にちなんだこの歌を選んで帰暢場公園に建立しました。

 

 

 

 

 


啄木中学時代の歌の碑(続)

2021年10月07日 | 啄木歌碑

(30)長浜海岸(宮城県石巻市)の歌碑

 

啄木は明治35年5月、中学5年の修学旅行で石巻を訪れ、長浜海岸を詠んでいます。

 

 

 

 砕けてはまたかへしくる大波の

 ゆくらゆくらに胸おどる洋

           啄木

 

この歌は、明治35年11月5日の啄木日記(秋韷笛語)にある歌42首の中に「石の巻を懐ふ」と題した歌2首あり、この歌と、もう1首は、次の歌です。

 

   「くるゝ雲をはてを何所としらずして   洋覆ふ幕に想ひ入りぬる。」

 

 

(31)惣宗寺の歌碑(栃木県佐野市)

 

明治時代の政治家田中正造は天皇に足尾銅山鉱毒被害による農民の窮状を直訴しました。盛岡中学の啄木はこの感動を「鉱毒」の題目で『白羊会歌会草稿』(明治35年)に発表しました。

 

 

夕川に葦は枯れたり

   血にまとう民の叫びの

    など悲しきや

         石川啄木

 

近代日本の先駆者田中正造翁は 明治34年12月10日第15議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾銅山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民の窮状を直訴する 当時盛岡中学3年在学中の啄木はこの感動を31文字に托した 奇しくもこの年創立された県立佐野中学校(第四中学)の生徒達にも鉱毒の惨状は強い衝撃を与え作文その他に残されている。

惣宗寺では、啄木生誕百年を記念して田中正造翁の墓の前にこの歌碑を建立しました。

 

なお、白羊会は啄木が盛岡中学の友人と結成した短歌研究会です。

 

 

 


啄木中学時代の歌の碑

2021年09月30日 | 啄木歌碑

(29)「啄木であい道」の啄木歌碑

 


 

花ひとつ
さけて流れてまたあひて
白くなりたる
夕ぐれの夢
     
  石川翠江



翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号です。盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表しました。この歌は、その中の一つで、これらの歌は現存する啄木の作品中最も古い歌です。

 





血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野にさけぶ秋 
   
  
   石川白蘋


この歌は、啄木が盛岡中学を退学(明治35年10月27日)する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載されました。

白蘋(はくひん)も啄木の盛岡中学時代の雅号で、翠江は明治34年8月頃から12月頃まで、それ以降明治36年9月頃までは白蘋を使用しています。なお、「白蘋」の雅号は啄木が育った宝徳寺の裏庭に白蘋の池があり、これに由来しております。

なお、啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用していましたが、これは明治34年12月末から35年の正月頃までの短い期間のようです。麦羊子の署名での歌は、野村胡堂宛ての手紙(明治34年12月31日)、金田一京助宛の手紙(明治35年1月1日)の中で、次のように詠んでいます。


「争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐」

                        石川麦羊子
 
 
 
「啄木であい道」は、盛岡駅前から約200メートル先にある開運橋を目指し、橋を渡らないで北上川沿いを左に折れると、 市営地下自転車駐車場の緑地公園内にあり、上流の「旭橋」の間まで続いていました。「啄木であい道」には多くの歌碑が建立されていましたが、「啄木であい道」は撤去されました。
 
 
 
 
  啄木であい道
 
 
 
現在、跡地には、次の歌碑がのみが残っています。
 
 
 
 
 
 
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
        啄木


なお、この歌は東京毎日新聞(明治43年5月8日)に発表し、一握の砂「忘れがたき人人(二)」に掲載されています。「忘れがたき人人(二)」にある22首の歌はすべて、たった一人の女性、智恵子を詠んだものです。
 
 
 
 
 
 
 
 

十和田荘の啄木歌碑

2021年09月23日 | 啄木歌碑

 

 

(27)十和田荘の歌碑(青森県十和田市)    

明治34年7月、盛岡中学4年の啄木は、学友と十和田、鹿角地方?を訪れました。十和田湖では、遊悲恋の伝説を取材し、「白蘋」のペンネームで『校友会雑誌(明治35年3月号)』に歌2首を発表しました。その内1首は十和田壮の歌碑の歌です。

 

 十和田荘の歌碑

 

                           啄木 

  夕雲に丹櫂はあせぬ 

  湖ちかき草舎くさはら 

  人しづかなり

  

2首のうち、もう1首は次の歌です。 

「薨(いらか)射る春のひかりの立ちかへり市のみ寺に小鳩むれとぶ」

 

遊悲恋の伝説とは錦木塚伝説のことで、今から千数百年前のこと、錦木のあたりに政子姫という娘がいた。錦木を売る若者が政子姫を見て心の底から好きになってしまった。毎日毎日、男は求婚のしるしの錦木を姫の門の前へ立てた。若者は雨の降る日も風の吹く日も、雪の降る日も一日も休まず錦木を立てた。しかしあと一束で千束になるという日、体がすっかり弱っていたため門の前に降りつもった雪の中に倒れて死んでしまった。姫もその二、三日後、あとを追うように死んだ。姫の父は二人をたいそう哀れに思い、千束の錦木といっしょに一つの墓へ夫婦としてほうむった。その墓のことを錦木塚とよんでいます。

 

 

(28)鹿角市役所前の詩碑(秋田県鹿角市

 

 

 

鹿角の国を懐ふ歌
         石川啄木

  青垣山を繞らせる

  天さかる鹿角の国をしのぶれば、

  涙し流る。──今も猶、錦木塚の

  大公孫樹、月よき夜は夜な夜なに、

  夏も黄金の葉と変り、代々に伝へて、

  あたらしき恋の譚の梭の音の、

  風吹きくれば吹きゆけば、枝ゆ静かに、

  月の光の白糸の細布をこそ

  織ると聞け。

  十和田の嶽の古沢の

  鬼栖める峡のふかみに、古へゆ

  こもれる雲の滴りの、足あとつかぬ

  岩苔の緑を吸ひて流れ来し

  渓川崖路、さを鹿の妻恋ひ啼くに、

  人怖ぢぬ鹿角の国をしのぶれば、

  涙し流る。──その昔、代々に朽せぬ

  碑やはた、白石の廻廊や、

  王垣、壁画、銅の獅子、また物語、

  のこさねど、日月星を生む如く、

  人の国なるきらら星──芸術の燭の

  生の親「愛」こそ、先づは、若児等の

  相思の花に映り出でて、花の印や、

  錦木も色をぞ添へし真盛りに、

  鹿笛吹きならす猟夫らが弓の弦緒の

  鳴りの音も、枝に列べる彩雉子の

  番と見れば、鳴らざりしその昔、

  しのぶれば涙し流る。

  神の使の羽かろき

  蜻蛉子が告げの泉の壽きに

  流れはつきぬ米白の水にうるほふ

  高草の鹿角の国をしのぶれば、

  涙し流る。──その川に斎ひ心の

  肌浄め、朝な夕なにみがかれて、

  みめも清しく色白の鹿角少女が、

  夕づとめ、──肩にま白き雲纏ふ

  逆鉾杉の神寂びし根にむら繁る

  大木の中は神住む古御堂、

  壁の墨絵の大井も浮きてし見ゆる

  目暮れ時、樹がくれ沈む秋の日の

  黄に曳く摺裳みだれ這ふ石階ふみて、

  静静と御供の神米、ささげつつ、

  伏目にのぼる麻衣が、藁束ねせし

  黒髪に神代の水の香こそすれ。

  かへしの足の小ばしりに、杉の陰路を

  すたすたと、露に濡れたる真素足に

  行きこそ通へ、──はららかす袖に葉洩れの

  日を染めて神の使の蜻蛉子が

  いのちの水の源を告げに来し日を

  さながらに、──青駒飼へる背が門へ。

  その敬虔さ、美しさ、米白川と

  もろともに流れたえせぬ風流の

  錦木立てし若児等が色にも出づる

  心映、──神代のままを目のあたり

  見ると思へば涙し流る。

 

 

『明星(明治39年1月号)』に発表した詩です。啄木の長姉サダは秋田県小坂町に住んでおり、この詩はサダが亡くなる2カ月ほど前につくられています。啄木が鹿角を訪れたかどうかは、はっきりしません。天才啄木なら、鹿角をうたったこの作品も想像の範囲で創作できただろうとも考えられます。なお、この詩碑の写真は鹿角市役所の柳原さんから提供を受けました。

 

 

 


啄木の中学時代の旅行

2021年09月18日 | 啄木歌碑

明治33年7月、盛岡中学3年の啄木は、冨田小一郎先生、級友9人と三陸地方を旅行しました。旅行した各地には歌碑が建立されています。

 

(22)氷上神社参道の啄木歌碑

啄木は高田松原に来て氷上山にも登っています。昭和32年、高田松原に啄木歌碑が建立されましたが、昭和35年5月のチリ地震津波により流されました。一年後に土砂の中から発見された歌碑は、高田松原には戻さず、啄木が登った氷上(ひかみ)神社参道に移転しました。

 

氷上(ひかみ)神社参道の啄木歌碑

 

 命なき砂のかなしさよ

  さらさらと 

  にぎればゆびの間よりおつ

           啄木

 

 

(23)タッピック前の啄木歌碑

昭和32年に建立した高田松原の歌碑は、昭和35年のチリ地震津波で流され、1年後に見つかり、氷上神社参道に移しました。高田松原には新しく、昭和41年に再度、歌碑を建立しました。しかし、平成23年3月11日に発生した東日本大震災によって再び流され、見つかりません。陸前高田で3度目となる新しい歌碑を高田松原近くの震災遺構として保存しているタピック(旧「道の駅」)前に建立しました。以前の歌(歌碑(22))とは異なり、“津波の犠牲者を忘れない“との思いを込め、次の歌を刻みました。

 

 

陸前高田の啄木歌碑

 

 頬につたふ

 なみだのごはず

 一握の砂を示しし人を忘れず  

         啄木

 

(24)天神山公園の啄木歌碑

三陸地方の旅行では、大船渡にも来ました。この歌碑は、啄木生誕80周年にあたり建立されました。

 

 大船渡天神山公園の啄木歌碑

 

 愁ひ来て

 丘にのぼれば

 名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の実

          

 

『一握の砂』には冨田先生をモデルに詠んだ次の歌があります。

 

「よく叱る師ありき 髯の似たるより山羊と名づけて口真似もしき」

 

(25)吉浜の啄木歌碑

 

啄木らの三陸地方の旅行では三陸町吉浜(旧吉浜村)にも来ています。三陸町では啄木歌碑を建立しようということになり、啄木没後80周年に当たる平成3年に歌碑を建立しました。吉浜村は昭和31年に隣村と合併して三陸村、三陸町となり、平成3年に大船渡市に編入合併しました。

 

 吉浜の啄木歌碑

 

 潮かをる

 北の浜辺の砂山の

 かの浜薔薇よ

 今年も

 咲けるや

      石川啄木

 

 

(26)釜石緑地植栽帯の啄木歌碑

 

明治33年の啄木らの三陸旅行は、明治29年に発生した三陸大津波の4年後で、釜石にも来ました。三陸大津波では死者2万人を超える被害者を出しております。釜石では啄木の足跡を後世に伝えようと、東日本大震災から4年目にあたる平成27年10月、啄木歌碑を釜石市青葉通りの緑地植栽帯に建立しました。

 

 

 釜石の啄木歌碑

 

 

 釜石の啄木歌碑

 

 ゆゑもなく海が見たくて

 海に来ぬ

 こころ傷みてたへがたき日に

           啄木

 

 

 

 

 

 

 

 


盛岡第一高等学校の啄木歌碑

2021年09月05日 | 啄木歌碑

啄木は明治31年3月、盛岡高等小学校を卒業し、同年4月、盛岡尋常中学校(後に岩手県立盛岡中学校に改称)に入学しました。担任教諭は数学の冨田小一郎先生です。2年次には野村胡堂、3年次には金田一京助がおりました。盛岡中学は大正6年、盛岡市上田の地に移転、現在は岩手県立盛岡第一高等学校となっています。

 

(18)盛岡第一高等学校の啄木歌碑



   盛岡第一高等学校の啄木歌碑


  学校の図書庫の裏の秋の草
  黄なる花咲きし
  今も名もしらず
           啄木

 





  盛岡第一高等学校

 

当時の盛岡中学跡には、現在、岩手銀行本店が建てられており、そこには、次の啄木歌碑が建立されています。



(19)盛岡中学跡の啄木歌碑


   岩手銀行の啄木歌碑


  盛岡の中学校の
  露台の
  欄干に最一度我を倚らしめ
          石川啄木

  岩手県立盛岡中学校濫觴の地
 


また、盛岡中学の図書庫跡地は岩手医大循環器センーになっており、玄関わきに次の啄木歌碑が建立されています。
 
 
(20)盛岡中学図書庫跡の啄木歌碑
 
 
 

岩手医大循環器センター玄関前の啄木歌碑


  学校の図書庫の裏の秋の草
  黄なる花咲きし
  今も名もしらず
          啄木
 
 
 
盛岡中学では宮澤賢治も学んでおり(明治42年4月入学)賢治の次の碑も建立されています。
 
 
宮澤賢治の碑
 
   宮澤賢治碑
 
 
  生徒諸君に寄せる
  諸君はこの颯爽たる
  諸君の未来圏から吹いて来る
  透明な清潔な風を感じないのか
 
 
盛岡第一高校から道路をはさんだところが岩手大学で、かって、この地に啄木の妻・節子の家がありました。岩手大学では、節子が産湯につかった井戸に屋根と蓋を設け、その蓋に啄木と節子の歌を刻みました。
 
 
(21)岩手大学構内の啄木・節子の碑



 
 啄木と節子の歌の碑(井戸の蓋)
 





       ある日、ふと、やまひを忘れ、
  牛の啼く真似をしてみぬー
  妻子の留守に。
             啄 木  

  ひぐるまは焔吐くなる
  我がうたにふと咲き出でし黄金花かな

             節 子