田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

中国の古代国家、夏の名君 禹(う)(2011/8/19)

2011-08-19 22:10:59 | 3.11東北大震災の頃
 田舎生活をしていると、時間はたっぷりあり、最近は司馬遷の史記を読んでいる。何回か読んだが、読むときの気分で、印象に残る箇所が変わってくる。
 一昨日読んでいて、いままで読み飛ばしていた、中国の伝説の最初の王朝、夏(紀元前2070年~)の創始者の禹(う)の詳しい紹介が心にしみた。
 黄河をはじめとした大きな河川の川筋を安定させるために、13年間没頭し、とうとう成功、国民は、丘から平地に移り住むことが出来、農業生産も飛躍的に高まったというもの。
 高さ20メートル、1000年に一回の大津波に見舞われた日本では、国民は平地から丘に移らなければならない。
 また、平地に戻るには、禹(う)のような弛まない努力があれば出来るということを司馬遷は示唆している。

下のような下り。

「司馬遷の史記 夏本紀(平凡社 上18ページ)

禹(う)の人となりは、敏捷で勤勉、徳がそなわっていて道にたがわず、その仁慈の心は親しみやすく、その言葉は信頼できた。その音声は韻律にかない、進退は法度に合い、言動はつねに適宜であった。そして、倦まずたゆまず、またなごやかで、世の中の綱紀として人々の仰ぐところであった。
 禹は、ついに益・后稷(こうしょく)とともに帝の命を奉じ、諸侯・百官に命じて人夫を徴収し、それを全土に配置して水土をおさめ、山々をめぐり木柱をたてて山名を表記し、高山・大川の格式を定めた。禹は父の鯀(こん)が功ならずして誅罰をうけたことをいたみ、身を労して心を集中し、屋外におること13年、自家の門前を通りかかってもはいって休息しなかった。衣食をうすくして鬼神への供え物を豊富にし、家室を質素なものにしてその費用を田畑のあいだの溝作りにまわした。陸をいくには車、水上をいくには船、沼沢地をいくには橇(そり)にのり、山をいくにはキョク(裏に釘をつけたはきもの)を用いた。準(みずもり・水平をはかる)と縄(すみなわ・直線をはかる)を左手に、矩(さしがね・角度をはかる)を右手に持って、四時にかなうように作業をすすめた。このようにして九州を開拓し、全土にわたって、道路を通じ、沢に堤防をほどこし、山を調査した。益に命じて民衆に低湿地にうえるべき稲をあたえ、后稷に命じて民衆に得がたい食料を与え、食料が不足しているところへは余りあるところから補給させて、諸侯の国々の事情を均しくした。
・・・常・衛(ともに河北省の川)は流路どおりに流れるようになり、大陸沢(河北省)も水がひいて沢らしくなった。・・・済水と黄河の間の地が沇州(えんしゅう)である。そこでは、九河(黄河の下流の九つの分流)がそれぞれの道にしたがって流れるようになり、雷夏(沢名 山東省)も沢として落ち着き、よう、しょ(ともに雷夏の西北の平地を流れる川)は合して一つとなり、桑に適した地帯はもはや洪水のおそれはなく、養蚕を営みうるようになった。

かくして、人民は丘からくだって平地に居住することができた。・・・・」

 現代の禹(う)は、地震予知の学者であり、低コスト高効率の防波堤の設計技師であり、その他知らない何かを弛まぬ努力で作り上げる人。
 禹(う)の時代は、その前の名君の堯、舜、禹(う)と続く中国の高揚時期。
 孔子も理想の時代と懐かしみ、彼らの没したという場所は、中国の聖地となっている。
 東日本大震災を契機に現代の禹(う)が輩出して日本の復興も本物と思った次第。

 明後日は、関門に釣りの予定。大物釣れますように。


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