温故知新~温新知故?

音楽ネタが多いだろうけど、ネタのキーワードは、古きを訪ねて新しきを知ると同時に新しきを訪ねて古きを知るも!!

菜穂子 読了 ~堀辰雄~

2015-03-22 17:41:24 | 
風たちぬを見て、下のように堀辰雄を読みたくなった人は多いみたいだ。
堀辰雄『菜穂子・楡の家』を読んで | 今日もゆっくりフリーランス暮らし
映画『風立ちぬ』を見てオリジナルを読みたくなり、堀辰雄の小説『風立ちぬ・美しい家』に挑戦。今度は『菜穂子・楡の家』を読みました。

映画の主人公が菜穂子でその分析をしている人もいる。
映画『風立ちぬ』のヒロインが「菜穂子」である理由 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
それは、どうしてヒロインは「菜穂子」なのか、という疑問です。原作が『風立ちぬ』であるならば、ヒロインの名前は「節子」でなくてはならないからです。今日はこの問題について、私なりの解釈をお話しようと思います。

私も今小説を読んだので、映画の「風たちぬ」をもう一度見てみたい。私としては以前書いたように『風立ちぬ』~堀辰雄~読了 - 温故知新~温新知故?堀辰雄の情景描写が気になったので、映画のシーンの情景をじっくり見てみたい。
観る前に読むべし。ジブリ新作「 風立ちぬ」がもっと泣ける超文学的ブックガイド - エキレビ!(2/4)
2. 堀辰雄『菜穂子』(『菜穂子 楡の家』新潮文庫)
宮崎版『風立ちぬ』のヒロインの名はこちらから来ている。これまた若き日の堀辰雄が軽井沢で思いを寄せた片山総子とその母(芥川龍之介の年長の恋人と言われた歌人・翻訳家の片山広子=松村みね子)のことを書いた小説(1941)。

風立ちぬと菜穂子という堀辰雄の作品を読んで、ひとつ思ったのは、もう使われなくなった日本語の美しさだ。
以下に例をあげると。
赫く(かがやく)
為合わせ(しあわせ)
漸っと(やっと)
バルコン
佇む(たたず)
空け(うつけ)
のように、通常と違う感じだったり、もうそのような表現はあまりみかけなくなったものでも、いい感じだなあと思うものがいろいろあった。それを楽しむだけでも、ゆったりした気分になる。
しかし、結核が不治の病だった頃とは時代が違うし、小説家の自分の体験を書いているような小説なので、特殊かもしれないけど、主人公たちのゆったりとした生活ぶりは、死がせまっているんだけど、豊かなものだ。現在の我々は多くの情報に接することができるけど、本当に豊か、為合わせか考えさせられた。
ブログも色々有りますね。
「風立ちぬ」堀辰雄のほうを読む - 尾関章 - 文理悠々 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
宮崎駿監督「風立ちぬ」が話題沸騰のなか、堀辰雄の「風立ちぬ」を無性に読みたくなった。僕のような元「寡読」文学少年には読み落としている作品がいっぱいあるが、これもその一つ。堀辰雄の静かで美しい文体に惹かれながらも、この小説はあまりにも死に近いところにあるように思われて避けていた。60歳を過ぎて死との距離感が変わり、そんな忌避感は薄まった。

「風立ちぬ」堀辰雄のほうを読む - 尾関章 - 文理悠々 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
 たとえば、書きだしの一文。「それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍(かたわ)らの一本の白樺(しらかば)の木蔭(こかげ)に身を横たえていたものだった」。そして夕方になると、二人して肩を並べ、地平線に目をやる。「ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生まれて来つつあるかのように……」
 次の段落はこんなふうだ。「そんな日のある午後、(それはもう秋近い日だった)私たちはお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、どこからともなく風が立った」。私小説というには美しすぎる。矢内原解説が言うように「『風立ちぬ』――散文で書かれた最も純粋な詩」なのかもしれない。