Chimney角屋のClimbing log

基本的にはクライミングの日記ですが、ハイキング、マウンテンバイク、スキー、スノーボードなども登場するかも・・・。

澤田実氏の思い出

2019-06-24 01:34:14 | 山とクライミングの話

 先月、ロシア カムチャツカの山で亡くなった澤田さん。私の大切なクライミングパートナーでした。昨日6月22日、お別れの会が行われ出席してきました。私もクリスチャンですが、澤田氏もカムチャツカに出発する前に信仰告白をし、澤田家は奥様やお子さんとともにクリスチャンホームとなったので、それを知り、私は本当に安堵したのです。イエス キリストとイエス キリストの父である神様を信じて生きる私たちは、神の国で永遠の命を約束されているからです。私も神の国に召されたときに、真っ先にイエス様にお尋ねするのは「澤田さんはどこですか」だろう。私はそれほど彼のことが好きでした。昨日「お別れの会」から帰って、彼のことを綴ってみようと思いましたが、やはり当日だといろいろ感傷的な言葉があふれて、あとで読み返せないものになってしまう。一日置いてつづってみることにしました。

 

 彼との出会いは、20年近く前のことでした。

 私は「山岳同人チーム84」の集会を訪ねました。知らされていた時間に集会所を訪ねましたが、誰も来ませんでした。しばらくしてやってきたのが澤田さんでした。(私は以前から彼のことは知っていました。三浦洋一という俳優とともに、エベレストのベースキャンプに入り、澤田さんはエベレストの山頂に挑みながらも、かつて海の底だった山頂から、海洋生物の化石を持ち帰るという、彼らしいミッションに挑んだテレビ番組を見ていたからです。)それからしばらくしても誰も来なかったので、澤田さんと山の話をしていました。澤田さんは私に質問をしました。「どんな山が目標ですか」と。私は「カムチャツカの山に行ってみたい」と答えました。澤田さんはカムチャツカの山を経過していたので、うれしそうにその経験を語ってくれました。しかし、彼の語ることは、その自然のすばらしさや山での体験の感動だけで、彼の行ってきた自慢話的なものは微塵もなかったのです。

 

 瑞牆 天鳥川右岸スラブのクライミングルート開拓

 私がチーム84に入会して間もなく、澤田さんと瑞牆山に通うようになりました。私がチーム84に所属する前から開拓をしていた「天鳥川右岸スラブ」の岩場のクライミングルートを一緒に開拓をするようになったのです。彼は数本のクラックを登りましたが、中でも気合が入っていたのは「智草」5.10cでした。このルートはきっと彼の思い入れの深いルートだったのでしょう。生まれたばかりの娘さんの名前をルート名にしたのですから。私も登らせてもらいましたが、本当に素晴らしいクラックです。それ以来、私は瑞牆に限らず、私の本当にやりたい山やクライミングには、彼に声をかけるようになりました。

 

 「一粒の麦」の開拓

 その後、やはり私がチーム84に所属する前から登っていた、瑞牆山十一面岩奥壁に行くことになりました。「一粒の麦」の2ピッチ目はその前年に登っていたので、そこに澤田さんを案内したのです。その時彼は、さらに岩の上部を観察して、そのクラックの前後にルートを拓いて岩の下からピークまで登ろうと提案したのです。そして数回通い、登りきったルートが「一粒の麦」でした。このルートの最終ピッチは美しいコーナークラックなのですが、私はオンサイトトライでホールドが欠けフォール。二度目はつかんだブッシュが折れフォール。フラッシングの可能性のある澤田氏にリードを譲りました。しかし彼はブッシュのところに支店を取り、テンションをかけクラックを掘り起し、そのまま登り始めてしまいました。6ピッチのうちの5ピッチ目までオンサイトかフラッシングで登ってきたのに、最終ピッチはそのどちらもかないませんでした。その時は雨が降り始めていたし、後続に同じチーム84の仲間も続いていたので仕方なかったのですが、私としては残念でした。後でそのことを澤田さんに話したら、彼はオンサイトとかフラッシングに全くこだわっていなかったということで、彼としては十分満足のいくクライミングだったとのことでした。要するに、彼は名誉とか偉業と達成するとか、そういうことにはまったく関心がなく、ただただ自分が満足するクライミングができればよいという気持ちだったのでした。

 

 「大武川一の沢大滝」のアイスクライミング

 一の沢大滝は、以前にチャレンジしていたのですが、アプローチが悪く日帰りは断念していました。その頃澤田さんも忙しく、日帰りでしか登山ができない状況でしたので、一緒に一の沢大滝を日帰りで登ろうということになりました。一緒にプランを練り、左岸の尾根からアプローチしようということになり、その結果日帰りが実現しました。

 

 「東日本大震災ボランティア」

 東日本大震災発生直後、私は被災地の支援にかかわることになりました。そこで私が最初に声をかけたのが澤田さんでした。私は長期間現地に滞在することはできなかったので、私は以前から所属していた「月稜会」という山岳会をはじめ、多くの山仲間から寄付金を募り、主に澤田さんは、その寄付金を使い、現地に長期滞在できる山仲間を集めてもらうようにお願いしました。そうしてできたのが「被災地にクライマーを送る会」でした。私たちは岩手県宮古市に拠点を構える盛岡YMCAの活動に協力することになりました。彼の人柄か、澤田さんはあまり表には出ず、いかにも私が創設者のようにふるまってきましたが、本当は彼がいなければ活動が始まることはありませんでした。彼のほかにも創設からかかわってくれた水野さんや廣川さん、最初に現地に乗り込んでくれたけいちゃんや竹内君、石田君、加藤君、畑さん、日本キリスト教団宮古教会の森分先生など、多くの方に支えられ、いまだに活動は続いています。たぶん、この会にかかわってきたメンバーも、澤田さんがこの会にどれだけ貢献してきたかご存じない方も多いでしょう。だから今言いますが、実は創設したのは私だけではなく、澤田さんと一緒に立ち上げたのです。

 

 「瑞牆 クラック地獄エリア」の開拓

 今となっては人気のエリアですが、「瑞牆山 クラック地獄エリア」。私が開拓を始めたと思っていたのですが、実はカナダで亡くなった後輩のじろー君がこのエリアの看板ルート「カヌー」を初登していたことが後から分った岩場です。この岩場に走るクラックを登りに行った最初は、亡くなったけいちゃんとユッキーが一緒でした。その後再びユッキーと石田君を伴い訪れた後からは、ほとんど澤田さんと一緒でした。私と澤田さんは、主にマルチピッチのグランドアップに専念しました。「オリジナルルート」「南面オリジナルルート」を登りましたが、澤田さんはそのほかにも別のパートナーともこの岩を訪れ、いくつかのクラックを登ったようですが、私が聞いてもはっきりしたことを覚えておらず、全くルート図を作ろうとか、雑誌に発表しようとか、ほんの少しも思っていなかったようです。やはり自分の満足するクライミングができれば、それはそれで完結したという考えは変わっていなかったようでした。今発表されている「リアス式エリア」や「瑞牆ロケット」などは、たぶん澤田さんが単独で何本か登っているはずですが、彼は全く初登の栄誉には無関心で、発表もしていません。そういう人なのです。

 

 星空を眺めていた澤田さん

 前夜泊で瑞牆に行くと、仮眠の前に、澤田さんはいつも星空を眺めていました。いろいろ星の話をしてくれるのですが、私は「きれいだな」とは思うものの、星座とか何等星とか、関心がないのでちんぷんかんぷんです。でもはっきり覚えているのは、いつも同じことを言う。「僕の奥さんは星が好きなんですよ」って。「今度ここに連れてきてあげたい」と。澤田さんは星空を見るたびにそういっていた。

 

 山での死を語った

 みな彼のやさしさを知っている。私と同じように、みな彼のことが好きだったと思う。そんな澤田さんが先に山でいってしまった。誰もが悲しんでいると思う。私もそうだ。でも、数年前にけいちゃんが山で亡くなった時に、私は澤田さんとけいちゃんの死について話した。「みんな悲しいとか残念だとかいう気持ちはわかるけど、けいちゃんは本当に素晴らしい人生を生きたよね。彼女にしか生きられない人生だったよね。だから拍手で送ったあげたいんだ。」 私と澤田さんの気持ちが一緒だった。

 だから私も澤田さんを拍手で送ってあげたい。「あなたにしか送ることのできない素晴らしい人生を送った。」と。そしていつか神様の国で再会しましょう。その時は何歳の澤田さんに会えるのだろう。この世では年下だった澤田さんが神の国の先輩になっているのだろうか。

 

 

 

 


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