Chimney角屋のClimbing log

基本的にはクライミングの日記ですが、ハイキング、マウンテンバイク、スキー、スノーボードなども登場するかも・・・。

小川山フリークライミング&新ルート出来ました。

2014-06-30 23:07:43 | フリークライミング

6月30日、今週も小川山に行ってきました。月稜会の新人がクラックを登りたいと言うことで、まずは「小川山レイバック」へ。私は久しぶりに登ったのですが、カムを5本も使ってしまった。以前は1本で登ったのに。新人君もTRでしたがスムーズに登っていました。

次に「最高ルーフ」へ。難しかったなあ。新人君にはまだ早すぎたかも。ルーフ出口のチョックストーンがヤバそうです。登る方はご注意を。

 

そのあとはタヌキ岩へ行きました。新ルート開拓。

開拓といってもクラックを登っただけなので、開拓と言うのは大げさですが。

「自然薯」の左のカンテから取り付きます。カンテ左のクラックにプロテクションを取りながらカンテを登ります。

クラックが途切れたところでボルトを打ちました。グランドアップなので手打ちのアルミハンガーです。

今度グージョンに替えますが、それまではご勘弁を。

そのうえでコーナー左のクラックに移ります。ここが面白い。

さらに右上のクラックを登って「自然薯」の終了点につきます。

グレードは5.10b

掃除もしたので写真よりもきれいになっています。

 

そのあと、新人君は「自然薯」をトップロープでトライ。

私は今日の本当の目標だった「とろろ」を登りました。

でも疲れていたのでトップアウトする気はなく、クイックドローも10本しか持っていかなくて、

2段目のハングを越えたところから降りました。

でも登れそうな感じがしてきました。次には登るぞ。

 

帰り道で「思い出のビスタ」を登ってきました。


我が登山史8(去って行った人)

2014-06-28 00:57:29 | 山とクライミングの話

長い間山登りやクライミングをしてきたが、沢山の人が仲間になり、沢山の人が去って行った。

私は月稜会やチーム84に入会し、沢山の山仲間を得ることが出来た。また、クライミングジムでも多くの仲間に恵まれた。しかし、去っていく者も多い。生活上の都合で山やクライミングを諦めて去って行った者。人間関係がうまくいかず去って行った者。さらに上を目指して去って行った者。山で命を落として去って行った者。様々である。

ある月稜会の仲間だったY。入会してクライミングを始めたが、大変熱心に取り組み、実力を上げて行った。私も彼女に期待を寄せていた。しかし、ある日突然音信が途絶えてしまった。あんなに熱心に努力して登り続けていたのに、突然去っていくなんて、何があったのかは分からないが、きっと生活上の問題が生じたのだろうとしか思えない。

同じころ月稜会に入会したJくん。彼は元々クライミングの素質があった。わたしと一緒にいろいろなクライミングを経験した。会のリーダに育ってほしいと思っていたけれど、彼はさらに上を見ていた。国内で厳しいクライミングを経験し、カナダに移住してガイドになった。それはそれでうれしかった。でも数年前、アラスカで雪崩にのまれて無くなってしまった。時々日本に帰って来た時には、一緒にクライミングをした。無くなる直前にも日本でクライミングをしたのだった。

チーム84のYくん。彼はマッキンレーで亡くなった。アラスカに旅立つ直前、私は彼と一緒に谷川の氷を登りに行った。谷川に向かうその車中、彼は山に対する思いや、それに対する障害について話してくれた。いろいろな悩みを抱えながら山に向かっていたのだ。私から見れば、若くて、まだ危なっかしいところがいっぱいあるが、そのチャレンジ精神がうらやましかった。この山行が国内最後の山行になってしまった。

山岳会にもいろいろな人間模様がある。山屋と言うのは大体個性が強いうえに、ジャンルも様々だ。そこでぶつかりあいも起きる。私もそういう人間の一人だが、ギリギリのところで折り合いをつけて続けている。しかし、折り合いのつかない仲間は、残念ながら去っていく。こういう去り方は実に残念だ。

私も年をとってきたせいか、自分との価値観の差を感じる人を認められるようになってきた。何年か前までは、自分の登山観に合わない物は否定してきたが、最近は、そんなことはどうでもよくなってきた。他人の価値観に合わせて登山やクライミングをする必要はない。それぞれが自分の目指す登山やクライミングをすればいい。でも仲間が去っていくのはさみしい。上を目指して去っていくのは歓迎するが、不本意な去り方はしてほしくない。特に死んじゃうのはダメだ。


小川山フリークライミング

2014-06-23 22:39:24 | フリークライミング

6月23日、梅雨真っただ中ではありますが、天気予報を見て、何とか登れるだろうと思い行ってきました。

メンバーは私のほかには月稜会のSZK、うめちゃん、アンジェラ、くみちゃんと女4人。わしは女の中に男が一人でした。

天気は薄曇り。私はタヌキ岩の「とろろ」をやりたかったので、その周辺に行きました。アップと初心者の練習のために「最高ルーフ」の1ピッチめを登りましたがびしょびしょでした。初心者のアンジェラとくみちゃんがTRで練習している間に「笠間のピンキー」をやりましたが、こちらも濡れていて、スラブでスリップ。

お昼頃「タヌキ岩」に移動。「とろろ」の前に「自然薯」をやりましたが、これが悪かった。ライン取りのミスでオンサイトを逃してしまった。2便目でRPしましたが、小雨が降ってきてコンディションが悪かったことを差し引いても、5.11a/bは辛い。体感は5.11cでした。でもとても楽しいルートでした。

「自然薯」

 

初心者のために「月夜のたぬき」1ピッチ目にTRを張りに行きました。またもやこれが悪かった。出だしは苔でびしょびしょ。比較的乾いていた上部も悪かった。これが5.10aとは・・・。5.11aの間違いじゃないのか?BRの親分とあねごにクレーム付けちゃおうかな。

この2ルートでくたくたになり、雷雨になったこともあり、「とろろ」には触りもせず下山。でも「とろろ」は見た目も迫力があり、是非登りたいルートです。


我が登山史7(大震災を通し、多くのクライマーとの出合い)

2014-06-15 01:09:41 | 山とクライミングの話

山登りやクライミングを始めて、毎週のように山や岩場に通うようになったが、こんなことをやっていても人の役には全くならない。むしろ事故など起こしたものなら、世間の批判を浴びるばかりだ。人によっては、「遭難救助に税金を使うくらいなら助けなくてもいい」とまで言う人だっている。

2011年、3月11日。私は「金春湯」の風呂掃除をしていた。「ゴゴー」という地鳴りのような音に続いて、足元が左右に動き始めた。立っていられないほどの揺れだった。浴槽に張ったお湯は大きく波打ち、湯船からあふれ出した。貯湯槽のお湯も波打ってあふれ、電気系統を濡らしブレーカーが落ちてしまい、電気が使えなくなった。ガスもストップした。

「来るものが来た」と思った。「関東大震災だ」と、この時は感じた。揺れが長かったので「自分は妻と子供と愛犬を守ろう」と思い、3回の自宅に這いつくばって登った。そうしているうちに揺れが収まった。

この日の「金春湯」の開店は見合わせようと思ったが、ニュースを見ていると、都内には帰宅困難な人であふれているようだ。急いでガスや電気の復旧をさせて開店した。店は夜になってお客さんであふれかえった。

翌日、妻と長男と一緒にニュースにくぎ付け。東北地方は大変な状況にあることを知った。この時に妻が発した一言が「あなたみたいな人たち(山屋)が、こんなときに活躍しなかったら、一生人の役に立つことなんかない」だった。長男も相槌を打った。それで私は東北に行くことを決意した。こういう被災地で、いち早くボランティア拠点を立ち上げてきた元の勤め先であるYMCAに連絡を取ってみた。数日後、「岩手県の宮古市に拠点を作るが、コーディネーターとして行ってくれないか」という話だった。コーディネーターとなると数カ月の仕事。無理だとは思ったが、妻に話してみた。すると「店の休みを含めて4日なら」との返事。断念。

でも私の山仲間には、世界の山を登るために定職につかない若者、この震災で仕事が全てキャンセルになってしまった山岳ガイドがいる。皆お金は無いが暇はある。一方、忙しくて現地には行けないけど、お金なら出せるという山仲間もいる。「よし!この人たちを組み合わせて、被災地にクライマーを送ろう!」と思い立った。この話に賛同してくれたチーム84のS氏や月稜会の仲間の協力で「被災地にクライマーを送る会」が活動を始めた。まず第1陣では世界的な女性山屋が現地入り。その後も数えきれないくらいの山屋やクライマーが参加してくれて、私は一気に仲間が増えた。現地に行った方ばかりではない。「行けないけどお金を寄付する」と言ってくれたクライマーたち。クライミングジムで行ったチャリティーバザーに来てくれた方、バザーに協力してくれた方。本当に沢山のクライマー・山屋に出合えた。

現地でも我々の仲間は活躍してくれたし、今でも現地に通っている。何しろ我々の仲間は、どんな状況の中でも自活出来る。現地のお世話にならずに活動が出来る。迎えに来てもらわなくても知らない土地にたどり着ける。いろいろな問題にぶつかるけれど、それを解決する能力もある。何しろ現地では「山仲間同士」という団結力もある。頼もしいのは、厳しい生活環境を楽しんでしまうことだ。これが行き過ぎて問題もあったが。そして皆気持ちが熱い。熱すぎて問題も起こったが。

でも、不幸な震災ではあったが、それを通して山屋・クライマーが集えた。私はきっかけは作ったが、そのあとは皆が力や個性を出し合って動いている。私は皆と出合えてうれしい。


「被災地にクライマーを送る会」のミーティングを行いました

2014-06-11 01:12:56 | 災害ボランティア クライマー派遣

6月10日。「被災地にクライマーを送る会」プラス宮古のボランティア関係者でミーティングを行いました。

沢山の方が参加してくださいって、大いに盛り上がった、というか紛糾したというか、まだまだ課題は多そうです。

今日の参加者はボランティアと受け入れ側のYMCAでした。でも現地には現地の被災者、行政、そしてずっと私たちを支えてくださってきた宮古教会など、様々な方がかかわっているのです。それぞれが真剣に復興を考えているのですが、それぞれ背負っているものが違います。抱えている問題が異なっています。

私もボランティアのみんなに言わせれば「YMCAの人間だ」と言われるし、YMCAのスタッフけら見れば「ボランティアの人間だ」と言われ、まあ「一体自分は何なんだろう」と考えちゃいますが、はっきり言って私は両方の人間なんですね。「どちらでもない」とは言いません。だから両者の間に問題があれば解決したいと思いますし、今までも私の役割はそこに絞ってきました。でも私の終着点は「組織的ボランティアの解散」なのです。個人が現地との人間的な関係で現地を訪れてくれる段階になったら、それが一番いい。そうしたら私の出番は無くなり、私の人生は「Simple Life」になるのですが、今のところ全然そうなりそうもない。一度本気で爆発しないとダメかな。ああ、また過敏性大腸炎になりそう。

なにはともあれ、乗り出しちゃった船を岸にたどり着かせるか、沈めちゃうか、考えないといかん。


我が登山史6(事故)

2014-06-09 01:23:53 | 山とクライミングの話

今まで「ヒヤリ ハット」はいくつもあった。私の信念は、「仲間の命は自分が守る。」なのだが、残念ながら守れなかった命もある。痛恨の極みだ。でも自分が事故に遭ったのはこれ1回である。

というのは、瑞牆で「錦秋カナトコルート」を単独で開拓中の時だった。2ピッチ目のクラックに松の木の根っこが張っていて、カムもナッツも心もとない人工登攀。私はそのピッチを5~6m登ったところで、クラックの掃除を始めた。その時、ナッツが外れた。ソロのクライミングシステムに「シャント」を使っていたのだったが、多分何処にも紹介されていないシステムのミスで墜落した。「止まるだろう」とおもっていたシャントが効かない。シャント本体に、プロテクションにかけていたホールバックの荷重がかかってしまっていたためだったと、後で気づいた。2ピッチ目のスタート地点を通り過ぎて、1ピッチ目を落下していく。下を見ると取り付きのテラスが見える。「落ちて行く時には、過去のことが走馬灯のように見える」と言うが、自分は冷静だったのか、テラスを見つめ、「絶対安全に着地してやる」と思ったことと、「もし死んだら、今日の犬の散歩は妻がやってくれるだろうか」と考えながら、自分の体は落下していった。その間、何秒だったのか全く分からない。

突然、体が岩の出っ張りにぶつかり、その瞬間、シャント本体にかかっていたホールバックの加重も外れ、落下はストップした。テラスまで5mだった。ロープの長さで判断すると、約30mのフォールだった。私はテラスまで下降した。左手の手のひらは「ロープバーン」で皮膚がなくなり、焦げ臭い匂いがした。たんぱく質が焦げる匂いだ。脇腹から足にかけてもひどいロープバーン。どうやら踵の骨は骨折したようだ。口から血が出ている。口の中には肉片が転がっている。下くちびるの下の肉を噛み切ってしまったようで、口の中から唇の下まで貫通しているようだ。肉片を吐き出すのは、気持ち悪かったので、食べてしまった。取り付きに置いてあったザックから、テープを取り出し、傷ついたところをテープでぐるぐる巻きにして止血。

少し離れたところに別のパーティーが取り付いていた。そのパーティーに、事故を感づかれるのが嫌で、ロープをたどり、登り返してロープやプロテクションを回収した。

傷ついた身体でなんとか下山し、車に戻った。

この日は月稜会の集会日だったので、会長に事故の報告と、集会に参加出来ないことを連絡した。次に妻に連絡をした。妻にこの出来事を話しているうちに涙があふれてきた。「自分は絶対事故を起こさない。迷惑はかけない」と心に決めてきたのに。

中央高速を片手片足で運転してきた。この日はロシアのプーチン大統領が来日しているため、八王子で検問が行われていた。私は顔から腕、手足をテープでぐるぐる巻きにした姿なので、すぐに検問に引っかかった。お巡りさんに事情を説明し、「帰ったらすぐに病院に行かなければならないから」と言って釈放してもらった。

家について妻と顔を合わせた瞬間、体が動かなくなった。家の中に連れて行ってもらい、血だらけの体をシャワーで洗ってもらった。涙があふれてどうしようもなかった。「こんなはずじゃなかったのに」「事故は起こさないって信じてたのに」。

妻に支えられ近くの外科に行った。帰ってくるときには体じゅう包帯だらけ。手のひらはミッキーマウス。全体はミイラのようだった。幼かった姪っ子は、私の手を見て「ミッキーだ!」と言って喜んでいた。

妻に「申し訳ないことをした。もう山には行かせてもらえないだろう」と思っていたら、「あなたはどんなことがあっても死なない気がする」と平然と言われ、何とも思っていないようだった。私の体は丈夫だが、妻はもっと丈夫なような気がした。


訳あって、自分の写真集

2014-06-08 01:40:13 | 山とクライミングの話

ちょっと事情があり、恥ずかしながら自分の写真集を公開。

宝剣岳にて

 

大谷不動にて

 

八ヶ岳単独継続登攀

 

三の沢岳奥三の沢

 

焼額山サイドカントリースキー

 

瑞牆地獄エリアのピークにて

 

上信国境でMTB

 

浅間山近辺MTB

 

十勝岳山頂

 

羊蹄山にて

 

クラック地獄オリジナル最終ピッチ

 

黄蓮谷の下部にて

 

黄蓮谷左俣大滝

 

谷川堅炭岩滝沢

 

谷川岳堅炭岩 私とかとちゃん

 

谷川岳堅炭滝沢登攀後 マッキンレーで亡くなった祐人くんと、国内最後の登攀