昨年、教会の付属幼稚園の保護者に、被災地でのボランティア活動についてお話をさせていただいたことがありました。その時に私が最後に伝えたかったことは「被災に強い人になってください」ということでした。それはおりしも東京都知事選の真っただ中。候補者は「被災に強い東京」を訴えていました。被災を受けて悲惨なのは、町がめちゃくちゃになること以上に、被災者の心がめちゃくちゃになることです。しかし中にはどんな状況でも動じない人もいるのです。どっしりと構えて、現実を受け入れている。当時私は聖書の「ヨブ記」を繰り返して読んでみました。被災者に「ヨブのようになれ」等とは決して言えませんでしたが、被災しても動じないというのは、ヨブのような人だからだと思うのです。今日「キリスト品川教会」の牧師先生から、教会員あてのメールが届きました。その中の一文です。
「昔、新潟で地震と津波があった時に、良寛
というお坊さんが、こう言ったそうです。
地震が来たら、揺れればよい。
津波が来たら、呑まれればよい。
実際に津波の恐怖を経験した人に、こんなことを言えば、石を投げられるかも知
れないけれど、石を投げられても、これを言うのが信仰者だろう、とい うのです。
ハイデルベルク信仰問答の中に 「・・雨も日照りも、実り豊かな年も、実らぬ
年も、・・・健康も病気も、富も貧しさも、偶然からではなく、父とし てのみ
手によって、われわれに、来るのであります」という言葉があります。
当然、地震も津波も、その中に入るでしょう。そして 「万事が益となるように
共に働く」(ローマ8:28)と信じるのです。
それが、わたしたちの信仰です。
でも、そうなったのは、主イエスの十字架によって、わたしたちの罪が赦された
からです。十字架以前には、日照りや病気は、絶望をもたらすものに過 ぎな
かった。でも十字架があったから、それらも益となると信じることができるよう
になったのです。
もちろん、日照りはない方がよい、病気も地震も津波も、ない方がよいし、被害
を避けるために、最善の努力をするけれども、でも、努力してだめだっ たら絶
望か、というと、決してそうではない。だから、良寛さまよりも深い確信をもっ
て 「津波が来たら、呑まれればよい」と言える。
そういう信仰に、わたしたちは主イエスによって導かれました。
悲しみも苦しみも、いやなことも、わたしたちには、たくさんあります。
でも、絶望はありません。神さまを信じるからです。
だから主イエスは、あなたがたに この世とは違う、わたしの平安を与える、と
言われたのです。」
実際に去年のような大地震が襲ってきたら平静でいられるかはわかりませんが、きっと信仰が現実を受け入れさせてくれると思います。
私が幼稚園の保護者の方に「被災に強い人になってください」と伝えた後、「どうしたらそうなれるのかは、牧師先生に聴くのがよいと思います」と言ったのは、このことでした。実際震災の後、その中で神様の恵みを沢山いただいているという実感があるのです。