狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

新・沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2022-08-11 10:38:06 | ★改定版集団自決

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沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2012-05-12 07:10:03 | ★集団自決

 

                 ☆

■沖縄タイムスの典型的な「歪曲報道」である。 1983年6月8日付記事。

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

上記記事の次の結語に、沖縄タイムスの歴史捏造の大嘘が表れている。

日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である

歴史が新聞記事で決まるわけではないし、県民大会や県議会決議で決まるわけではない。

勿論、歴史が裁判で決るわけではないが、大江岩波集団自決訴訟で、挙証責任のある被告大江側は一審、二審を通じて「軍命」を立証できず、その後も軍命を立証する証拠・証人は一件もない。

沖縄タイムスが言う「歴史の事実」は同紙の願望に過ぎない。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。(※【おまけ】に詳述

だが、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのをむしろ歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だった。

赤松氏はこのような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていた。

翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、歓迎のため赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

(つづく)

 

【おまけ】

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

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沖縄タイムスが黙殺する、渡嘉敷島玉井村長の手記、

2022-08-11 08:51:35 | ★改定版集団自決

 

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玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない2008-09-14

 

渡嘉敷島・死線を越えた人たちの再会ー「集団自決」問題で騒いでいるのは関係ない人たち。

 大東亜戦争沖縄戦の集団自決問題でクローズアップされた渡嘉敷島。

昭和45年(1970年)、日本軍の責任者であった赤松元大尉は渡嘉敷村から慰霊祭のスケジュールを受け取り、招待の打診を受けた。そして赤松元大尉は出席の意向を伝え、3月26日に那覇に到着した。そこで赤松元大尉は大ブーイングを浴る。

「赤松帰れ!」

「人殺し帰れ!」

 そして赤松元大尉は村の人々とともにその場を後にした。つまり、赤松元大尉を非難しているのは当時の軍人、島民ではなく、全く別の人たち、つまり反日サヨクの組合員たちだった

赤松元大尉は残念ながら那覇で足止めを食い、渡嘉敷島にわたることができなかった。赤松隊に所属していた生き残り将兵十三人と遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に出席する。

 同行した皆本元少尉の話。「島の方がたは大変残念がっていましたね。『赤松さんにぜひ来てほしかった』という声を何度も聞いております。のちに関西で行われた会合では、当時の玉井村長さんがわざわざ来てくれました」

慰霊祭の様子を琉球新報と沖縄タイムスが次のように書いている。

琉球新報(三月二十九日付)
「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元大尉が本島まで来ていることを知らされても『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』と言った言葉が返ってくるだけ。本島で繰り広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二十五回忌の慰霊祭-」

沖縄タイムス(三月三十日付)
「五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵等と手を取り合った。炊事班に借り出され、赤松隊で働いていたという夫人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりました、と涙を流さんばかりだった」

 慰霊祭のあとの「第三戦隊戦友会村民懇親会」では村のご夫人や娘さんが島の踊りを披露して歓迎し、出席した皆本元少尉は一緒に踊った。

手元の本にそのときの写真が一枚載っている。「集団自決は強制だった」という人たちは、この写真を見て何というのだろう。「死ね」と言った人たちを歓迎するわけないだろう

島に渡れなかった赤松元大尉はモーターボートをチャージし、渡嘉敷島沖まできて、島へ向けて手旗信号で何かを合図している。おそらく元部下が島にいて元隊長の意を汲むことになっていたのだろう。あの日あの時あの場所にいた死線を越えた人たち同士にしかわからない感情が手旗信号で伝わったと想像する。

平成19年(2007年)、沖縄で集団自決軍命令の教科書記述削除に抗議する、いわゆる11万人集会(実際は2万人弱)に参加した渡嘉敷村の人はゼロである。

                  ◆

「沖縄タイムス史観」でいえば、渡嘉敷島の戦隊長は「鬼の赤松」であり、当時駐屯していた軍人は「住民を死に追いやった島の仇である」ということになるだろうが、実際は報道とは異なり、島の遺族会と旧軍人との交流は戦後ずっと続いている。

大江健三郎氏が創り上げた「島の慰霊祭に参加の為那覇空港に降りた赤松元隊長を“島の人々”が追い返した」といった神話が、島の人々にとっては、不本意な出来事であり、「故赤松隊長には気の毒なことだった」という気持ちが本音であった。

沖縄タイムスが決して報じることない、赤松氏が追い返された当時の玉井渡嘉敷村長の手記を入手したので全文引用する。

地元在住の重要証言者であるにも関わらず沖縄タイムスが一度も取材もしなかった知念元少尉と遺族会との交流も記されている。(取材もされずに知念少尉の「発言」は『鉄の暴風』には捏造されて記載されている)

沖縄タイムス史観に従えば赤松隊長の副官であった知念元少尉は遺族会の憎むべき仇のはずだが・・・。

取材されない重要証人 副官知念少尉の証言

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 

沖縄に住んでいてもタイムス等の新聞報道に汚染されると、渡嘉敷村民が赤松隊長にどのような心情を抱いていたかについては、ミスリードされ結果として誤解されてしまう。

玉井村長が抱いていた赤松隊長に抱いていた心情を、沖縄タイムスは決して記事にすることはないだろうし、下記の玉井村長の手記を記事として報道することも決してない。

                    ◇

終戦50周年祈念「いそとせ」沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行 に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八


 戦後50年の節目を迎えることになった。想えば半世紀の長い年月であるが何故かそんなに時が流れた感がしない。戦災で焼失破壊された自然や物的なものは年と共に逐次その姿を取り戻し復元されつつあるが、ただ一つ取り戻すことのできない尊い人の命がある。私達は常に心の奥に犠牲になった肉親や同胞を弔い慰める気持ちがあるため時の流れを感じないかも知れない。
 昭和22年復員して帰って見ると島は過去の姿はなく、生き残った村民は自失呆然で自給自足もままならぬ状況であった。
 焼け残った住宅の補修や仮設住宅の設置に追われ乍らも何かしら足が地につかずの感がしてならない、村を復興するには先ず何より、村民に心の安らぎを与える途を講ずる必要を痛感し戦没者の慰霊供養を最優先すべきであることを決し、慰霊碑の建立をすることになった。
 建立場所を西山の集団自決現場近くに設定したが、現地はその当時、機動力が使用できる場所でなく、すべて人力で搬送しなければならない状況にあり、いろいろ検討の結果これを実現するには肉親を失った方々が組織をつくり、率先して村当局と協力し、全村民への奉仕を呼びかけるため、はじめて遺族会が結成された。
 学童をはじめ全村民の協力を得ていよいよ建立を始めたが、現場に辿り着く道らしい道がなく、天に昇るような険しいけもの道を海岸から砂や砂利を擔ぎ頭に乗せ、各自体力に応じて搬送したことは孤立した島で共に死線を越えた人々の固い絆があってこそ実現できたと思ふのである。
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。
 西山の山頂に建てられた慰霊塔(白玉之塔)には軍人、軍属、防衛隊、一般住民を含め430余柱が合祀され、毎年3月28日、集団自決の日を村の慰霊の日として行事が行われてきたが、昭和34年予期しないことにこの地一帯がホークミサイル基地として接収された為に塔への出入りが自由にできない状況となり移設を余儀なくされた。
 移設場所を港の北側、部落を一眺する丘に選定し、移設費用全額米軍負担として、昭和35年に移設を完了し現在に至っている。
 
渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。
 昨年(平成6年3月28日)数え年による50回忌の慰霊行事を実施した。村民や遺族の他本土から戦友会員100余名参加して盛大に行われたその状況が、NHKのニュースで全国に放映されたことは最も印象に残ることである。
 50年の歳月は、戦争の傷跡を埋め尽くし、島の何処を眺めても戦争と直接つながるものは見ることができない。部落を見下ろす丘に戦没者の芳名を刻した白玉之塔が建っているのみである。
 戦時中谷間の避難小屋で生まれた戦争を知らない子が、現在村の指導者として活躍している姿を見るとき、時の流れと世代が変わった実感が湧いてくる。
遺族会も高齢化と共に会員が減少し運営もきびしい状況にあるが、何としても維持存続し戦争の悲惨を後世に語り継がねばならない。慰霊の塔の維持管理、慰霊事業はすべて村主導で行われているので、遺族会としても村の平和行政の推進に積極的に協力して行きたい。
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。村遺族会としてもその厚意を有り難く受け、戦争の犠牲を無にしないよう、またこれを契機に会の再建をして行く決意を新たにしている。
 かっては玉砕場(集団自決跡地)又は基地(ホークミサイル基地)と呼ばれた西山の頂上は、沖縄の本土復帰を記念して設立された「国立沖縄生年の家」があり、戦争を知らない全国から集ふ青少年が自然を満喫しながら研修に励んでいる姿を見るとき、平和の尊さをしみじみ感ずるのである。

注 1.西山は北山のこと。
  2.玉井喜八…1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没
  3.「国立沖縄生年の家」…現在の「国立沖縄青少年交流の家」
  4.句点、読点は適宜補った。

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首里城指定管理者は「違法」 住民訴訟の原告が指摘

2022-08-11 07:14:27 | 政治

 

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首里城指定管理者は「違法」 住民訴訟の原告が指摘

 
首里城火災当日、多くの人々が現場を見に来ていた=2019年10月31日、沖縄市那覇市の首里城公園

2019年10月31日未明に発生した首里城火災から間もなく3年になる。火災の責任所在が明確にならないまま再建が進められていることが住民訴訟に発展しているが、首里城指定管理者の一般社団法人沖縄美(ちゅ)ら島財団が必要な防災要件を満たしていなかったことが原告の調べで明らかになっている。(沖縄支局・豊田 剛、写真も)

防災要件を満たさず

被告の県、管理マニュアル未提示

沖縄県は、具体的な再発防止策を検討する首里城公園管理体制構築検討委員会を設置し、1日に初会合が開かれた。

蓑茂壽太郎東京農業大学名誉教授を委員長に、関澤愛東京理科大教授ら防災を専門とする学者や弁護士ら委員7人、内閣府沖縄総合事務局、沖縄県、那覇市の幹部クラス9人が協力委員に名を連ねている。

会合では再発防止策の具体的な取り組みを検討するため現状の課題について確認。首里城公園の管理運営の仕組みについては、予定されている26年の正殿完成時に現在の指定管理者制度を見直すことを検討中。具体的には、防災・防火対策の実効性を担保できるように、現行の指定管理業務から防災関連の業務を分離することを検討している。

たこの日、首里城公園には国と県が管理するエリアがあり、防災対策の体制のばらつきが課題とされていることが報告され、横のつながりを構築し公園全体での仕組みや役割分担を明確化できるかどうかが議論された

首里城公園管理体制構築検討委員会の設置要項

里城火災の管理責任をめぐって、「沖縄県が、発災責任を負う指定管理者・美ら島財団に約2億円の損害賠償を請求しないのは違法」として、8人の沖縄県民が、玉城デニー沖縄県知事を相手取った住民訴訟を起こし、昨年11月に口頭弁論が始まった。これまで4度の口頭弁論が行われている。原告は、初動対応の不手際を立証するため管理マニュアルの提出を求めているが、被告はこれまで応じていないため、裁判は膠着(こうちゃく)状態にある。

那覇市消防局の調査報告書にはどう書かれているのか。電気異常や放火など火の気のない建物に火災が発生した原因を列挙した上で、一つ一つ否定している。最後に残された疑わしい火元は、出火場所と特定された正殿1階北東の一角にあるLED照明の電源コードまわり一つしかないことを明らかにした。これは美ら島財団が設置したもの。

ところが、消防局はそれを原因と断定しなかった。あまりの火災の強さに着火物などの物証が焼失あるいは損傷してしまっているという理由からだ。

原告が訴訟を進めていく中で、決定的な問題が見つかった。原告団の共同代表、石岡裕氏によると、美ら島財団は電気の保安規定に違反し、指定管理者の要件を満たしていないというのだ。

指定管理者の要件として、電気を日常的に管理し、非常時に対応する有資格者の主任技術者が必要で、火災時には直ちにブレーカーを遮断し、本人不在の場合は現場の担当者が対応できるよう訓練することを義務付けている。火災当時、これらが実施されていないことが、「保安規定違反に該当する」と石岡氏は指摘する。

首里城の場合、非常時の対応責任は電力会社ではなく首里城そのものにあり、①保安規定の制定②経済産業省への届け出③順守義務――が課されているという。石岡氏は「首里城が電気設備の『みなし設置者』としての必要な義務を果たしていなかった」とし、管理者の美ら島財団、管理委託した沖縄県、所有権を持つ国のすべてに責任が問われることになると指摘した。

被告の沖縄県は答弁書で、火災責任について、煙が正殿内に拡散して警備員が火元に近づけなかったことをもって、「警備員らによる活動に問題はない」と述べている。

首里城公園管理体制構築検討委員会の設置要項

1.警備員・監視員は異常を感知しながら、初期消火等の適切な対応をとらなかった。

2.通報を受けて駆けつけた那覇市消防局を警備員・監視員は適切に誘導できず、消火活動に移るまでに時間を要した。

3.正殿周囲に設置されていた放水銃が、翌日のイベントのために組まれた足場などに遮られ、活用できなかった。

4.首里城公園にある消火用貯水槽がすぐに枯渇し、放水活動が一時中断した。

5.首里城城郭内には、重要文化財を含む歴史的価値の高い美術品が展示または収蔵されていたが、それに見合うだけの防火設備が設置されていなかった。

6.火災の2年前(2017年12月22日)に、那覇市消防局から首里城正殿等の防災上の欠陥を指摘されていたにもかかわらず、適切な是正措置を怠った。

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デニー知事も個人支払いの責任!12億円求償権!県が翁長知事に

2022-08-11 04:59:13 | 政治

 

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 以下は過去ブログの再掲である。

12億円求償権!県が翁長知事に 2015-10-24

 
宜野湾住民訴訟は、翁長知事にとって悪夢である!

翁長知事が県民に対して12億円の支払い義務が発生するのだ。

 翁長知事と県を被告として提訴された宜野湾住民訴訟について論考する。

被告側は国と全面対決の状況にあり、法廷闘争に突入するのは時間の問題とされている。

当然、翁長知事にとって国との法廷闘争は想定内であり、今回の住民訴訟が提訴されても、国に比べて小さな同種の訴訟が増えた程度で特に驚くことではない、という声もある。

確かに大型弁護団が予測される国との法廷闘争にくらべ、弁護団が三人の住民訴訟は形式上は「小さな訴訟」かもしれない。

ただ、宜野湾住民訴訟が、被告側にとって致命的訴訟になる可能性が極めて大きいと指摘する向きもある。

それは12億円の損害賠償金を誰が払うかに掛かっている。

宜野湾住民訴訟のポイントはこうだ。

(1)被告を翁長知事と沖縄県の二件にしている。

(2)原告は現在12名だが12月に予想される口頭弁論の時には120人程度の集団訴訟の予定。

(3)損害賠償の請求原因が「普天間問題の原点である危険性の除去が、翁長知事の取り消しで頓挫する」としている。⇒「生存権の侵害」

■沖縄2紙の応援記事

国との法廷闘争では勝ち目がないと判断した沖縄2紙は「世論に期待」などと、法律論では敗訴しても感情論で「権力者の国が県知事を苛めた」などの世論作りの作戦を吐露している。

だが、注目すべきは、今回の宜野湾住民訴訟では、国との法廷闘争のように一方的な「原告悪玉」の世論操作が出来ないことだ。

理由は、上記(3)に記載した請求原因にある。

常日頃、沖縄2紙が「住宅密集地に隣接した世界一危険な米軍基地」と報じている記事そのものだからだ。 

つまり沖縄2紙が原告の主張を批判する記事を書けば、それがそっくりブーメランとなって沖縄2紙や左翼集団を直撃することなる。

かくして、沖縄2紙は宜野湾住民訴訟を罵倒することは出来ず、切歯扼腕しながら裁判の成り行きを見守ることになる。

これしかなす術がないのだ。

■賠償金支払いの義務は誰?

先ず120人の原告が勝訴した場合(この可能性が大)、単純計算だと総額12億円の損害賠償金を被告が支払うことになる。

その場合被告の翁長知事と県とがどの割合で分担するかは、判決を見なければわからない面もある。

だが、本訴訟は仲井真前知事当時、当時の県職員が防衛局の埋め立て申請を何度も検証した結果、「法的瑕疵はない」として承認した案件を、翁長知事の「ごり押し」で、独断的に取り消しされたもの。

訴訟で被告側が敗訴した場合、責任の重さは県というよりすべて翁長知事にある、といえるだろう。

百パーセント責任は知事にある、ということも可能だが、百歩譲って7対3の割合で知事の責任を検証してみよう。

判決に従がえば12億の賠償金を知事が8億4千万円、県が3億6千万円を支払うことになる。

常識では知事個人が8億4千万円もの現金を持っているとは考えにくいので、一旦県が総額の12億円を支払ったとしよう。

ただ、ここで注目すべきは12億円のすべては国民・県民の血税であるということ。

翁長知事の違法な取り消しで提訴された裁判の損害賠償は、県の分担支払金も含む12億円の支払い義務は翁長知事1人に掛かってくる、ということになる。

そこで、県は、翁長知事個人に対し総額12億円の求償権をもつことになる。

一方、翁長知事は県に対し支払い義務を持つ。

理由は翁長知事が違法行為により、県に12億円の損害を被らせたからだ。

宜野湾住民訴訟は翁長知事の長い悪夢の始に過ぎない。

 【追記】

宜野湾住民訴訟の素因の上記(3)の「普天間問題に原点」に関し、仲井真前知事は産経新聞のインタビューに答えてこう答えている。

--これから沖縄と日本をどうすべきか

 「普天間の危険性を1日も早く回避することに尽きる。これが原点だ。1日も早くだから、現実的な解でないといけない。『こうであってほしいな』とか夢みたいな話ではなく。一番早くできるのは、どう見ても辺野古だ。日米両政府が20年前に決め、いろんなプロセスも分かってきている。早く普天間を街の中から移し、子々孫々まで安心して枕高くして眠れるようにする。行政の責任を預かるものは、第一に命と暮らしを守るは当たり前のことだ」

 ⇒【仲井真・沖縄前知事が「そこまで言うか!」(2)】
翁長知事の国連演説「いちいちしゃくに障った。差別、先住民論」

 

仲井真弘多・前沖縄県知事=那覇市(半澤尚久撮影)

 --(基地問題の)総合的な対策に「オール沖縄」で取り組む必要があるという考えは

 「『オール沖縄』という言葉は(翁長氏の)選挙のプロパガンダに使われたから、僕は絶対その言葉を使う気はない。オールでもないのに」

 --仲井真県政でレールを敷いた鉄道建設などに翁長知事も目を向ける時期が来る。仲井真氏の遺産が動くときが来る。「これはこういう意味だ」と発信し続けてもらいたい

 「私の役目があるかどうかは自分では分からない。ただ、今の翁長知事のやり方、どんな風に収まっていくのかのイメージがわかない」

 --翁長知事は9月、国連人権理事会で行った演説で、県民を先住民だと位置付けた

 「もういちいちね、しゃくに障りましたよ。端的には『基地問題は人権問題だ』という話だと思うが、国連へ行って、自分たちだけの考えのストーリーを、しかも『先住民だ。ずーっと差別されてる。被差別民族だ』とかね。2分間でやっていい話じゃない。県民はおそらく、そんなことをいちいち知事に頼んだ覚えもない。一体、いつからわれわれは先住民に(なったのか)。いろんな人が何百年にわたって内地や中国から沖縄に来てミックスしている。『即、ウチナンチューになってしまう』とわれわれは言っている。いろんな考え方がある中で、ああいう差別、先住民論は、とてもとても受け入れられない」

--これから沖縄と日本をどうすべきか

 「普天間の危険性を1日も早く回避することに尽きる。これが原点だ。1日も早くだから、現実的な解でないといけない。『こうであってほしいな』とか夢みたいな話ではなく。一番早くできるのは、どう見ても辺野古だ。日米両政府が20年前に決め、いろんなプロセスも分かってきている。早く普天間を街の中から移し、子々孫々まで安心して枕高くして眠れるようにする。行政の責任を預かるものは、第一に命と暮らしを守るは当たり前のことだ」

 「第2に、沖縄に米軍基地が非常に集中している。米軍専用施設が74%。自衛隊との共用は22%だが、それでも非常に大きい。徐々に徐々に負担を軽減してもらいたい。さらに基地問題といっても事件事故など、いろいろなトラブルがある。これも可能な限りゼロにする。日米地位協定も、日本国が独立国として、もう少しきちっと処理すべきだ。特に(米軍が)何か事件・事故を起こしたときの裁判権の話だ。このあたりはぜひ政府にも取り組んでいただきたい。いろんな問題がある。辺野古だけじゃない。翁長知事が辺野古だけやっていても、基地問題全体はまだまだたくさんある。本土の皆さんにも、ここはじっくり我慢して、必要だということを理解いただければと思う」

「もう1つどうしても申し上げたい。『本土対沖縄』という構図は現実的でないし、おかしいと思う。沖縄県は非常に貧乏県でもあったし、(県民は)北海道から鹿児島に至るまで、いろいろなところに働きにいった。非常に優しくヘルプしていただいた。非常にみんな感謝している。沖縄県ももう少し頑張って一人前になり、ご恩をお返しできるような時期がすぐくると思っている。ぜひ沖縄に、観光も含めて、歌も泡盛もいいですから、ぜひおいでください。もう1つ言わせていただくと、やはり沖縄は経済力を付けないといけない。力を貸していただきたい」

【追記】

 【おまけ】

ますます、不利になる翁長知事!

辺野古移設承認取り消しに疑問の声 「辺野古住民の8割は容認」「法廷闘争で県の勝ち目薄い」

沖縄県名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消し、記者会見する翁長雄志知事=13日、沖縄県庁

 沖縄県の翁長雄志知事が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先である名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消したことで、政府と沖縄県は法廷闘争に突入する公算が大きくなった。だが、政府との対決色を強める翁長氏の姿勢には地元の移設容認派や有識者から疑問の声が上がる。

 「国防は国の専権事項で地方が口を出す問題ではない。承認取り消しは理解できず非常に残念だ」。辺野古移設推進派の島袋吉和前名護市長は翁長氏の対応をこう批判した。島袋氏は「県民すべてが反対のように報道されているが、地元の辺野古の住民は8割以上が条件付きで移設を容認している」と強調。「沖縄は基地問題だけではない。国と協力しなければ振興は進まない」と説明し、政府との関係悪化による沖縄振興の遅れに懸念を示した。

一方、安全保障に詳しい神保謙慶応大准教授は「埋め立て承認プロセスは法的に非常に固い。法廷闘争で県が勝つ可能性は限りなく低く、それは翁長氏も理解しているはずだ」と指摘。「工事をさせない期間を引き延ばし、公約実行をアピールすることが翁長氏の目的になっている」との見方を示した。

 そのうえで「翁長氏に勝算があるとすれば、県民の支持の盛り上がりだ。『世論戦』が最大のポイントになる」と分析。「政府は沖縄に『上から目線』の失礼な態度を取ってはいけない。感情的な反発を招けば本当に沖縄が反政府で一致してしまう」と述べた。

 

「無責任に辺野古反対とは言えない」 民主・岡田代表

朝日新聞 2015年10月20日19時34分

 

12 コメント

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じつに意義深く画期的な訴訟です (山路 敬介)
2015-10-24 09:09:40
宜野湾市民わけても基地周辺住民にとって、騒音や危険性が喧しくいわれて久しい。
しかし、これまでこれが憲法の「生存権」の侵害にあたるものであるのかどうか、司法の判断ははっきり明示していない。(騒音訴訟の下級審において判決文中、生存権の問題であると暗に認めたに等しい下りもあったと記憶しますが。)

もし、本訴訟で住民側が完敗という事になれば「生存権」までは言えないことになり、移転そのものの意義に疑問符がつくが、経緯やこれまでの判決から見れば、そうはならないことは明らか。

一方、この訴訟のキモは被告を国としないで、翁長知事と沖縄県にしたことである。
当然、被告側としては被告の当事者的確性を争ってくるだろう。
しかし、それはむしろ住民側(原告)の思うつぼに嵌る危険性もはらむ。
なぜなら、翁長登場前までの国や県の努力により、「普天間の危険性の除去」は目と鼻の先のところに来ている事が明らかであり、裁判所は明らかな証拠をもってそれを認めるだろうからである。
こうしたこれまでの努力や経緯を無視し、被告己が一人の判断によってちゃぶ台返しをする事は、当該原告である宜野湾市民らの権利の侵害を行なうものである。
そのことの責任はもはや国ではなく、「知事であり県である」という理論には、論理的整合性も十分でありましょう。
つまり、時間もかかり、(政権によっては)そのやり方に稚拙な面もあったが、事ここに至って国のやるべき事は被告救済の観点から必要十分であり、それをなお阻害するものが宜野湾市民のさらなる被害を助長する者である、という事が明らかとなるでしょう。

また、被告は県民ではなく実際の被害者である宜野湾市民である、というところも肝要ですね。
公正と公平を旨とする司法は、県民全体の多数意思(仮にですが)よりも、宜野湾市民の実際の被害救済を尊重せざるをえません。

誠にうまく考えられていて、翁長氏にとっては実に深刻な訴訟をかかえた、と言えそうです。
また、実に訴訟ウォッチャー延髄の妙味ある訴訟ですね。

 
Unknown (東子)
2015-10-24 09:12:58
宜野湾住民訴訟は民事訴訟なので、賠償金額の決定までは裁判所はするが、実際の回収は原告が自力でしなければならない。
例え、翁長知事に8億4千万円の支払い命令が出ても、翁長知事がもっている資産が限度で翁長知事が破産するだけ。
翁長知事が図々しければ、1円も支払わず、そのままもできる。

県は、流石にそんな図々しいことはしないだろうから、県に出された賠償額を支払うだろう。
だとしても、血税には違いないが。
血税はけしからんと言って県職員個人の資産で賄うことはなく、あくまで組織として払う。

もし、知事の分を県が肩代わりしても、知事の財産の範囲内でしか県に返済はない。
それは、知事の負債(払いきれなかった分)まで県が背負うことになり、更に血税を多く使うことになる。
だから、県が肩代わりすることは、ほとんどないと思う。



宜野湾住民訴訟の賠償金を誰が負担するかに関係無く、翁長知事にとって大ダメージであることは、確かだ。
宜野湾市民、GJ。
 
Unknown (東子)
2015-10-24 09:13:25
>「政府は沖縄に『上から目線』の失礼な態度を取ってはいけない。感情的な反発を招けば本当に沖縄が反政府で一致してしまう」

ふ~~~ん、上から目線ね……。
沖縄県民って、何様?
という世論も喚起してしまうことにも注意よ。

「沖縄県民は被害者」である→国(政府)批判への盛り上がりに欠けると、米国の世論に期待し、それも不発に終わると、今度は独立論者と結託して「民族的な迫害」を受けていると世界に向かって国連で宣伝した。
が、同じ県民から否定された。
翁長知事に投票した人の中からも「独立まで任せた覚えはない」という声がある。
 
訂正 (山路 敬介)
2015-10-24 09:29:21
× 延髄
○ 垂涎

 
Unknown (東子)
2015-10-24 09:33:37
県職員は「自分の懐が痛まない」&「県職員の怠惰で辺野古移設が進まないのでない」ので、勝訴にあまり熱心にならない可能性がある。
他方、翁長知事は、知事という地位を訴えられているのではなく、翁長知事個人が訴えられている。
直接自分の財産、名誉に関係するので、勝訴を目指したいだろう。

県と翁長知事に温度差が出るか。
興味のあるところである。
 
Unknown (東子)
2015-10-24 09:33:59
組合=辺野古反対→職員=辺野古反対の図式が成り立つ。
が、職員は無罪であると、県職員が辺野古移設を反対しているのではなく、翁長知事の指示で反対の色を出しているだけで、職員は本来無色であると主張したら、面白いなぁ。
もし、「職員は本来無色であると主張したら」、組合は辺野古反対運動ができなくなる。
 
本日の沖縄タイムス投稿欄 (カウンター58)
2015-10-24 10:48:59

オピニオン面に一般投稿6本(児童生徒限定の「ぼくも私も」除く)。

「防衛費の増大 平和とは真逆」の豊見城市・佐藤悦晴さん(68)は4月5日、5月17日、6月14、26日、7月13日、8月2、16日、9月14日、10月5日に続き今年10回目の掲載。
「万人を尊重し 紛争なくそう」の那覇市・松原須奈子さん(67)は2月5、17日、5月6日、7月30日、9月13、22日に続き今年7回目の掲載。
「ゲート前抗議 子にも見せて」の沖縄市・西原聖一さん(58)は今年初掲載。
「新基地建設で 日米安保強化」の那覇市・大城良司さん(48)は1月5、19日、3月22日、4月1、18、26、28日、5月15、24日、6月9、24日、7月2、15日、8月5、18日、9月1、26日に続き今年18回目の掲載。
「王府時の境界 疑問多い」の宜保安孝さん(38)は今年初掲載。
「感性の多様性」の大宜味村・米須邦雄さん(63)は1月20日に続いて今年2回目の掲載。
 
カギカッコは投稿欄における見出し。

沖縄市の過激派・西原さんの主張は、ゲート前の暴力行動を児童生徒にも扇動するもので、こういう投稿を新聞に載せてはいけない。


 
12億円は程良い金額 (清島清)
2015-10-24 11:33:57
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賠償額12億円は程良い金額だと思う。
これが1億2千万円だと安すぎて翁長のダメージは無いし、120億円だと額が大きすぎて支払うという感覚が無くなるだろうし、私個人的に翁長の泥拭いの為の血税を使わせたくない。

賠償額を12億円に設定するとして、勝訴したとしても減額されると思うので、原告の人数をもっともっと増やした方が良いと思います。

狼魔人様、原告団の募集先が分かれば教えて頂けますでしょうか。チラシを作って宜野湾市内にポスティングを行って告知いたします。


宜野湾市の現在の人口は9万4400人。
私は法律に疎いのですが、この裁判に勝った後、更に他の宜野湾市民が同じ訴訟を起こせるのでしょうか? どなたか法律に詳しい方、教えて頂きたいです。
もし、起こせるとしたら、市民の1割くらいの1万人は訴訟するかもしれませんね。 巨大な原告団の行動は、沖縄の世論をも変えられることでしょう。

沖縄県民の敵、売 国 奴 の翁長雄志を1日も早く駆除したいものです。
 
1万人訴訟 (狢)
2015-10-24 13:38:52
清島様

>もし、起こせるとしたら、市民の1割くらいの1万人は訴訟するかもしれませんね。 巨大な原告団の行動は、沖縄の世論をも変えられることでしょう。

普天間爆音訴訟に見習って1万人訴訟が実現したら「オール沖縄」も粉砕ですね。
 
今回の訴訟が辺野古にも飛び火して欲しい (清島清)
2015-10-24 14:58:00
狢様
>オール沖縄の粉砕、最高です!
沖縄マスゴミも相当な打撃を与えるでしょうね!


賠償について
別の見方をすると、普天間基地の恩恵を受けず不満を持っている市民が大勢いると思います。
近所の豪邸は基地地主で、うちはボロアパートの住人など。

1万人訴訟だと、一人当り訴訟費用が500円として、賠償額が300万円としたら、不満に思っている人や、貧乏の人たちは皆んな飛び付くでしょう。良くも悪くも。
家族5人だと1500万円の儲け(訴訟費用500円は勝訴で戻って来る)
賠償で儲けるという考え方は悪いかもしれませんが、反日左翼やマスゴミを叩く結果となるから沖縄県民や国民にとっては良いと思います。


辺野古住民の皆様もこの訴訟を見習って、名護市と稲嶺市長を訴えましょう!
漁業に何年も居座り続ける反対派テント。
辺野古の方々がテントの撤去を名護市に陳情しても無視し、事もあろうに稲嶺はこの反対派テントに激励に来るぐらいですから。

また、相手が国(国土交通省)になってしまいますが、キャンプシュワーブ前の反対派テントも訴えて欲しい。

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