狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

3 日本本土の爆撃計画きまる 

2022-08-27 08:03:47 | ★原稿

 

 

 

3 日本本土の爆撃計画きまる  

 

 

 

 

 

 

日本は無差別爆撃と米側が抗議
対日報復爆撃案を検討
ドーリットルのB25東京初空襲
米大統領、蒋介石を激励
B29で日本本土壊滅の作戦
チャーチルヘの書簡
カムチャッカ基地案


はげしい空襲にさらされる重慶の市街:1940年5月から9月にかけて、日本海軍爆撃隊は168回の昼間爆撃、14回の夜間爆撃をくわえた

 一九四三年〔昭和十八年〕の春に、ウルフ将軍は新設の第五十八爆撃飛行団の指揮官に任命され、十二月までに、日本本土爆撃を開始できるように、中国へB29を配備するための準備を指令された。
 B29を極東に使用することは、ルーズベルト大統領みずからの考えであった。
 ルーズベルト大統領は、すでに一九四〇年〔昭和十五年〕十二月、パールハーバー攻撃の一年もまえに、中国によって日本本土が爆撃されるのをみたいもんだ、といっていた。
 三年以上にわたって、日本は陸と空から中国を攻め続けている。
 日本軍の爆撃機は、蒋介石の国民党政府が西にのがれて首都としていた重慶を、くりかえし攻撃してきた。
 重慶駐在のアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソンは、一九三九年〔昭和十四年〕の夏までに六六回の空襲を体験していた。
 この無差別爆撃についてのワシントンの抗議に対して、日本側は敵の軍事目標に限定されていると回答していた。
 憤慨したアメリカ政府は、一九三九年の後半に、報復措置として航空機関係製品の輸出を禁止し、さらに一九一一年〔明治四十四年〕東京で締結され、一九四〇年一月二十六日で期限のきれる通商航海条約を更改しないと発表した。
 この条約の失効の翌日、国務長官コーデル・ハルは、ワシントン駐在日本大使に、日本軍飛行機によって爆撃された三五以上の中国の都市の名と、一部には日時までを明記してあるリストを手わたした。
 このリストには“中国にある米国資産で、日本軍の爆撃によって損害をうけ、しかもその位置は事前に日本当局側に通告され、米国国旗をかかげていたもの”の約二〇〇の事例も引用されていた。

1 日本は無差別爆撃と米側が抗議 top

 日本側が、中国側の軍事機関や施設以外のものを爆撃したことはないと否定するのに対して、ハル国務長官はこうのべた。
 「公的機関から、あるいは私的な情報や新聞などから、中国にある日本軍が、全く軍事的機関や施設のない場所で、住民を爆撃し銃撃をくわえた多数の事例についての詳細な報告が、わが国にきている。
 さらに、焼夷爆弾の使用は(必然的に戦闘員でない市民や、その財産に、むざんな損害を与えて)住民に大損害を与えてきた。多くのばあい、日本軍の航空攻撃は、武装してない住民たちを恐怖におとしいれようと意図しているとしか、考えられない」

フランクリン・D・ルーズベルト大統領:かれはドイツが新しく創設した空軍の真価をよく認めていた。

米国国務長官コーデル・ハル
アリ-シャンから東京を爆撃することを提案した。

 これにつづく数ヵ月、米国をなやませたのは、中国に対する日本軍の航空攻撃ではなくて、日本が、ヨーロッパにおけるドイツの勝利に刺激されて、新しい領土的野心を拡大していったことであった。
 ヒトラーの成功は、日本人の頭には“強い酒”のように作用した。
 日本軍は、重慶を爆撃することを続けたばかりでなく、一九四〇年六月十四日には、日本政府は東京のアメリカ大使に対して“これらの攻撃を強化しようと意図している“こと、中国内に残留しているアメリカ官憲あるいはアメリカ市民のうける損害には、責任をおえないと通告してきた。
 さらに六月二十日、パリがドイツの手におちたのち、インドシナのフランス当局をおどして、中国への軍需資材の輸送をおさえるために、インドシナ鉄道にそって日本軍の監視員を駐留させることに同意させた。
 そしてまた七月十八日、東京からの無言の威圧に直面して、苦悩する英国は、香港やビルマをへて行われている、蒋介石軍に対する軍需資材の輸送を停止することに同意した(この決定は十月に廃棄された)。
 一九四〇年の秋、日本はドイツ・イタリアと一〇年間の軍事的経済的同盟を結んだ。
 この三国同盟の目的は、ヨーロッパとアジアで“新しい秩序をうちたて、これらを維持する”ことであった。
 これらの出来事が、ルーズベルト大統領が、中国側に、なんとかして、日本を爆撃させたい、という希望を表明するようになった原因であると思われる。
 ルーズベルトと同じように、日本に対して怒りをかんじていたハル国務長官は、別の考えをもっていた。

2 対日報復爆撃案を検討 top

 一九四〇年十二月十日、ハル長官は財務長官へンリー・モーゲンソーと会談したときに、米国は五〇〇機の爆撃機をアリューシャンから出発させて、一回だけでいいから東京を爆撃して、日本人を痛い目にあわせるべきだといった。
 しかし、モーゲンソーが心にとめたのは、大統領の言葉のほうであった。
 彼はこのことを、ワシントンにいた中国の宋子文遣米特使にもらしており、のちに中国航空部隊の毛邦初将軍や蒋介石の軍事顧問であったクレア・シェンノート大佐たちと、中国軍による日本本土爆撃計画を検討した。
 毛将軍とシェンノート大佐は、一九四〇年の十一月末に、蒋介石の特使として、五〇〇機の米軍戦闘機と操縦士を中国増援のため派遣することを要請しに、ワシントンに到着した。


米国財務長官ヘンリー・モーゲンソー:
一九四〇年に中国にB17「空の要塞」を供与することを提案した

 航空機の購入計画を調整する権限をもっていた財務長官のモーゲンソーが、中国側が東京や日本の都市を攻撃するのに使うならば、B17爆撃機を供与しようと提案したときには、毛邦初とシェンノートはよろこんだ。
 蒋介石に電報で照会したところ、すぐにモーゲンソーの提案を受諾するという返事がきた。
 これにもとづいて、十二月中旬に、モーゲンソー・毛・シェンノートの三者が会談して、この計画をさらに協議し、シェンノートは地図によって、B17が日本を攻撃できる基地を指摘した。
 一九四〇年の十二月十九日にモーゲンソーは、この計画を大統領と数人の閣僚に提示し、ルーズベルトは喜んで同意を与えた。
 しかし、十二月二十二日、この全計画は陸軍長官スチムソン邸でひらかれた会議でダメになってしまった。
 この会合にはモーゲンソー、マーシャル参謀総長、それにノックス海軍長官も参加した。
 マーシャルは、米国はじゅうぷんな数のB17「空の要塞」を持っておらず、それに、すでに大統領から多数のB17をイギリスに派遣するよう要求されていると抗議した。
 モーゲンソーはただちに、このマーシャル将軍の抗議をうけいれ、長距離爆撃機のかわりに、一〇〇機の戦闘機を中国側に与えることにした。
 一方、一九四一年のはじめ数ヵ月間、シェンノートは 在中国米国義勇兵部隊の結成を急ぎ、米軍将兵のかりあつめに奔走した。
 これが、のちに“フライング・タイガーズ”〔空飛ぶ虎〕として有名になる部隊である。


1944年11月3日、中国昆明で:
クレア・L・シェンノート少将(左)とエドガー・E・グレン准将(右)


ドーリットルの爆撃機が東京を初空襲した。目標から煙がのぽる。

1942年4月18日 空母「ホーネット」の甲板を飛び立って日本にむかうB25B「ミッチェル」爆撃機

3 ドーリットルのB25東京初空襲 top

 パールハーバーに対して日本軍が奇襲をかけてからは、日本本土への報復爆撃の構想は、米国内で熱烈な支持をうけた。
 しかし一九四一年十二月七日〔日本では八日〕から一九四二年の春までは、日本軍はあらゆる抵抗をふっとばした。
 何万キロにもおよぶ大作戦を展開し、資源豊富な地域フィリピン、蘭領東インド、ポルネオなどを占領した。
 また香港、シンガポール、ラングーンを占領し、英軍をビルマからおっぱらい、中国への補給線であったビルマ公路を閉鎖し、グアム島、ウェーキ島、それにギルバート諸島を占領し、アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島にも侵入した。
 わずかに、一九四二年四月十八日にジェームス・H・ドーリットル大佐の指揮するB25双発爆撃機が、空母から発進して東京を初空襲したことだけが、連合軍側の鬱憤をふきとばしたのであった。
〔この空襲は、一六機の陸軍双発爆撃機B25を空母「ホーネット」に搭載、東京から約一二〇〇キロの海上から発進し、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などに昼間爆撃をくわえた。空襲後、一機はソ連のウラジオストクヘ飛び、他は東支那海を横断し中国東南部の山間地帯へのがれた。日本側の損害は軽微であった〕
 ドーリットルの東京空襲は、米国ではカッサイをはくしたが、これで報復の痛い目にあったのは、作戦に協力した中国側であった。
 日本軍は報復措置として、中国中部で大きな攻勢〔昭和十七年五月からの浙カン(せっかん)作戦〕にでて、ドーリットル隊の着陸した麗水飛行場などを破壊し、広範囲にわたる掃蕩作戦を展開した。


左から蒋介石総統、宋美齢夫人、スチルウェル中将:1942年4月9日ビルマのメイミョーで

4 米大統領、蒋介石を激励 top

 中国の抵抗力のよわいことを心配したルーズベルト大統領は、四月二十八日、公式に中国政府に対して、ひきつづき支援を与えることを約束し
 「日本軍はビルマ公路を封鎖するかもしれない。しかし、わたくしは、勇敢な中国国民にこういいたい。日本軍がどこまで前進してこようとも、蒋介石総統の軍隊に、飛行機と弾薬をおくる方法はかならず見つけることができる。我々は、中国の国民が、侵略者日本に対して、最初に立ちあがって戦った、ということを忘れてはいない」
とのべた。
「中国を戦争から脱落させないようにし、米国に対する中国国民の友情をつなぎとめる」ためルーズベルトはインドからヒマラヤを越えて蒋介石軍とシェンノートの航空部隊に補給を続けることを決意した。
 このあと一九四三年〔昭和十八年〕一月のカサブランカ会談〔モロッコのカサブランカで、ルーズベルトは英国首相チャーチルらと会談し、枢軸国側に無条件降伏をもってのぞむことなどを決定した〕の席上、蒋介石の軍事顧問ジョゼフ・W・スチルウェル将軍の具申した、連合軍がビルマを奪回するための地上作戦の準備を開始する、という計画を支持した。
 この会議では日本を爆撃する可能性についても協議した。
 マーシャル将軍はこの件について陸軍航空軍〔AAF〕の見解を代弁し、日本の工業は「航空攻撃に対して弱いから、強力な攻撃をくわえれば、日本の戦力を破壊できるであろう」とのべた。
 ルーズベルトはこれに同意した。
 彼は「日本に対する散発的な爆撃」でも「中国国民の士気高揚に大きな効果をもたらす」と考えていた。
 一月十八日、この問題の検討の席上、大統領は爆撃機をふくむ二〇〇機か三〇〇機の飛行機を中国におくることを提案した。


1943年9月、北アフリカでの会談のときのジョージ・C・
マーシャル将軍(右)とドワイト・D・アイゼンハワー将軍(左)
マーシャルは、日本の工業は航空攻撃に弱いので、強力な攻撃で
日本の戦力を破壊できるであろうという陸軍航空軍の見解を代弁した

1941年8月大西洋会談のときの
ルーズベルト米大統領(左)とウィンストン・チャーチル英首相

 そして蒋介石に電報をおくり、自分としては「総統がただちに日本に対して攻勢をとれるように、シェンノート将軍の航空部隊を増強することを決意しているので、この米国の援助の問題を討議するため、アーノルド将軍を重慶に派遣する」ことを通告した。
 しかし、このあと数ヵ月間は、英米軍の計画はヨーロッパ作戦で忙殺されており、米国の資源の大部分もそこにつぎこまれていた。
 ヒトラー打倒が最優先するというチャーチルの意見に完全に同意していたルーズベルトとしては、一九四三年には、中国・ビルマ・インド戦域〔CBI〕の要求する大きな軍事的援助はできない、ということもやむをえないと考えた。
 さて一方、スチルウェルとシェンノートの二人は、中国にかんする戦略について重大な論争をおこなっていた。
 シェンノートは一つの前提(あとで誤っていたことがわかったのであるが)、すなわち「我々は中国に日本を攻撃させねばならない。もし我々が直接日本を爆撃しようとするなら、中国に基地をもたねばならない」というスチルウェルの考えは了解した。
 しかしシェンノートは、さしあたっては連合軍は中国にある日本軍にもっと航空攻撃をかけるべきであるとした。
 これに対してスチルウェルは強力な中国軍ができあがらなければ、日本軍はドーリットルの空襲のあとでやったような大攻勢をかけてき、中国本土の連合軍側の航空基地を占領するだろうと反ばくした。
 スチルウェルはいう。最も優先すべきことは、中国軍の増強である。
 両者の論議はルーズベルト大統領に提出された。大統領はシェンノートの見解に同意した。
 この航空作戦のほうが重慶に対して直接的な援助になると思われたからである。
 在中国の日本軍に対する航空攻撃を強化するため、インドからの物資空輸作戦の増強も認可された。


5 B29で日本本土壊滅の作戦 top

 B29爆撃機による日本本土爆撃の具体案は、一九四三年八月のケベック会談〔カナダのケベックで行われた米英首脳会談〕で、はじめて表面化した。
 この会議でアーノルド将軍は「日本打倒のための航空作戦計画」という、ウルフ将軍指揮下の第五十八爆撃飛行団を使用する計画を提出した。
 この飛行団には、この七月に第一号機が生産されたばかりの新爆撃機B29が配備されていた。
 アーノルドは、このB29を中国中部、できれば長沙周辺に展開することを提案した。
 B29の二五〇〇キロの航続距離をもってすれば、日本の軍需産業を破壊する継続的な攻撃を開始できるだろうとのべた。
 アーノルドと幕僚たちは、一たび爆撃行動が開始されれば――それは一九四四年〔昭和十九年〕十月ごろになるが――日本軍は、この爆撃機の基地に攻撃をかけてくることを予想したが、中国軍やシェンノートの航空部隊は、この攻撃に対抗できるものと考えていた。
 この航空攻撃計画の根底にある理論は“ビリー”ミッチエルいらいの伝統そのままであり、航空軍戦術学校の空軍力本来の役割にかんする見解そのものであった。
 アーノルドたちは戦略爆撃によって、アメリカの空軍力は日本の軍需産業を無力にし、その航空部隊を制圧し、海軍艦艇と商船を撃沈し降伏に追いこむことができる、と信じていた。
 彼らは、七八〇機のB29が、一ヵ月に五回出撃すれば、六ヵ月で日本を破壊しつくせると計算していた。
 また彼らは、一九四五年の八月の末までには、連合軍の日本占領を可能にすることができるとのべており、この期日は統合参謀本部が考えていた、ドイツ降伏後十二ヵ月で、日本を敗北させるという目標にも合致するものであった。
 スチルウェルと中国・ビルマ・インド戦域の航空軍司令官、ジョージ・E・ストラトマイヤー中将は、この計画について意見を求められた。
 ストラトマイヤーはこの計画をルーズベルト大統領がカサプランカで最初に提案した計画に近づくように修正した。
 つまり、B29の基地をカルカッタ地区におき、中国内の前進基地で余分な燃料をおろして爆弾を搭載し、日本に向うことを提案した。
 インドに基地をおく構想は、爆撃攘の安全が確保されると同時に、整備上の問題を容易にする利点があった。
 この改訂された計画は「マッターホーン」と名づけられ、ワシントンで承認された。

6 チャーチルヘの書簡 top

 このあと、大統領は一九四三年の十一月十日、つまり蒋介石を招いていたカイロ会談〔エジプトのカイロでひらかれたチャーチル、ルーズベルト、蒋介石の会談〕で、英国としてはヨーロッパ上陸作戦の主問題、ルーズベルトは蒋介石ともに中国救済のビルマ作戦などを論じた。
 日本の戦後の領土処理なども決定された〕の直前に、チャーチルに手紙を送ってこうのべている。
 「我々は来年早々、新しい爆撃機をもって、太平洋の敵に強力な打撃を与える計画を準備中である。日本の軍事力、海軍力、および海運力はその製鉄工業に依存しており、現在は限界ギジギリまできている。その製鉄工業の原動力となっている満州および九州の炭鉱地帯は、中国の成都地区を基地とする長距離爆撃機の行動範囲内にはいるし、またこれを破壊できる。この爆撃機は、カルカッタ付近に建設中の基地から飛ばせることができ、現在やっている航空輸送をさまたげることにはならない……」
 「この計画を実現するために、長距離爆撃機の四つの基地建設に、あらゆる便宜を与えられるよう、インド政府に指示されることを希望する……」
 「これは大胆ではあるが、実行可能な計画である。この作戦を遂行することで、日本の陸海軍の戦力を低下させ、アジアにおける我々の勝利を促進することができるであろう」
 この同じ日、十一月十日に、ルーズベルトは蒋介石に電報して、成都地区に五つの飛行場を、一九四四年の三月末までに、一ちがいなく建設するように要請した。大統領はこうのべた。
「このB29による奇襲によって、日本に破壊的打撃を与え得ると衷心から確信している」
 チャーチルも蒋介石もすぐに同意した。
 そこで、十一月十四日に米陸軍省は、インドでの飛行場建設に必要な航空技術者と、ダンプカー中隊の移動を命じ、その第一陣は、十日後には、もうインドに到着した。

7 カムチャッカ基地案 top

 一九四三年十一月二十九日、テヘラン会談〔ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三者会談で、イランの首都テヘフンでひらかれ、戦略の問題、戦後の問題などを検討した。スターリンはドイツ打倒後、日本を攻撃することを約束した〕のあいだに、大統領はジョゼフ・スターリンに、ソ連が約束した「日本に対する攻撃」を開始したらすぐ、日本を爆撃するためにB29を一〇〇機から一〇〇〇機を展開する基地をシベリアの沿岸地方に提供できないか、という意味の手紙をわたした。
 ソ連側は数ヵ月たってから回答した。
 カムチャッカにB29の基地を提供してもよいというものであったが、あいまいなもので、ついに実現しなかった。
 しかし、ソ連側はなんとかしてB29の機密を手にいれようと努力していたのである。
 これについては別の章でのべることにする。

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