◆「やっぱりゴジラが参加しない野球では韓国には勝てないのか」。
「・・・・・・」。
「それに、ジョージ・マッケンジーの不参加も痛かったナー」
「誰? その人。」
「ジョージマケンジ 城島健二だよ!」。
「ゲ!・・・オヤジギャグ!」。
これで娘との会話はあえなく終了。
所謂オヤジギャグとはダジャレの事?
◆日本語には同音語・類似発音語が多い。
話している本人が意識できない「同一の音」がたくさんある。
それに日本には言葉遊びの洒落の文化がある。
古典を紐解けば掛詞(かけことば)が頻出して我々を惑わす。
有名な「蛍の光」で例を示そう。
♪蛍の光 窓の雪
文読む月日 重ねつつ
何時しか年も ★すぎのとを
★あけてぞ 今朝は 別れ行く♪
※「すぎのとを」は 「疾(と)うに過ぎる」と、「杉の戸を」の掛詞。
※【▽疾うに】は「ずっと前に。とっくに。」
※「あけて」は「(夜が)明ける」と「(戸を)開ける」の掛詞。
次に日本の伝統話芸である落語からの有名な例。
「隣に塀が出来たよ」
「へー!」
これでおしまい。
◆オヤジギャグと云うと哀れなオヤジの姿が浮かぶ。
受けないのに必死でギャグを飛ばす姿。
まわりの冷ややかな目。
それを気にしていたらシャレにならない。
「今年の投資の見とおしはですね」・・・と、強行する。
同じギャグでもイケ面の若者が放つとウケル。
ギャグとはセクハラに似たり。
「気を落とさずに頑張れよ」と肩を叩いて励ましたつもりなのに、相手が「キャー!」と発した一声でセクハラになる。
その「ハゲマシ男」にデブとハゲの条件が加われば最早セクハラは決定的だ。
同じ行為をキムタク似のイケ面にやられたら、
「彼って、とってもやさしいのよ」と言うことになる。
おっと、話をオヤジギャグに戻そう。
結局オヤジギャグって受けないダジャレの事?
◆昔感銘した哲学者・「トイレの哲人」の言葉を想いだす。
昔々、筆者が未だ厚顔の、・・いや、睾丸、でもなく抗癌、・・そう、紅顔の美少年の頃。
一寸しつこいボケだが、日本語は斯くも同音異義語が多いという事を示したボケと理解あれ。 パソコンの変換機能さえもボケをかます昨今だ。
当時私は大学生だった。
必要に迫られて大学のトイレに入ったら、しゃがんだ真正面の落書きを見て驚き感銘した。
そして、己も束の間の哲学者になった。
「七つ八つ 音はすれども 空吹きの
実の一つだに 出ぬぞ悲しき」
これほど作者の心情を赤裸々に吐露した名歌を私は知らない。
そして次のような感想歎が添えてあった。
「トイレとは思考(シッコ)し空想(クソ)する
場所なり」
私はこの天才的歌人にして哲学者の尊顔を見たく思い、学校の掲示板にて作者捜し求めたが・・・・・・
結局、読み人知らずに終わった。
私はこの作者を密かに「トイレの哲人」と尊称した。
この伝でいくと「トイレの哲人」も単なるダジャレ好きになってしまう。
今頃は周囲の凍りついた空気も全く意に介しない「真の哲学者」になっているだろう。
そして哲人的オヤジギャグを連発しているのかも知れない。
◆オヤジギャグが受けるは受けないは、本人と相手の語彙の多寡にもよる。
オヤジギャグをスポーツに例えると、語彙の多寡はスタミナに相当する。
しかしスポーツで重要なのはスピードとタイミング、つまり瞬発力である。
どんなに語彙豊富にギャグを連発しても、それがスピードとタイミングを伴わないダラダラした物であれば、はた迷惑この上も無い。
とすれば、語彙豊富で瞬発力のあるギャグは最早オヤジギャグとはいえまい。
人付き合いの潤滑油になるだけでなく本人の脳細胞の活性化にも貢献する。
さー、どんどんオヤジギャグを連発しよう。
スピードとタイミングを伴って。
「・・・・・・」。
「それに、ジョージ・マッケンジーの不参加も痛かったナー」
「誰? その人。」
「ジョージマケンジ 城島健二だよ!」。
「ゲ!・・・オヤジギャグ!」。
これで娘との会話はあえなく終了。
所謂オヤジギャグとはダジャレの事?
◆日本語には同音語・類似発音語が多い。
話している本人が意識できない「同一の音」がたくさんある。
それに日本には言葉遊びの洒落の文化がある。
古典を紐解けば掛詞(かけことば)が頻出して我々を惑わす。
有名な「蛍の光」で例を示そう。
♪蛍の光 窓の雪
文読む月日 重ねつつ
何時しか年も ★すぎのとを
★あけてぞ 今朝は 別れ行く♪
※「すぎのとを」は 「疾(と)うに過ぎる」と、「杉の戸を」の掛詞。
※【▽疾うに】は「ずっと前に。とっくに。」
※「あけて」は「(夜が)明ける」と「(戸を)開ける」の掛詞。
次に日本の伝統話芸である落語からの有名な例。
「隣に塀が出来たよ」
「へー!」
これでおしまい。
◆オヤジギャグと云うと哀れなオヤジの姿が浮かぶ。
受けないのに必死でギャグを飛ばす姿。
まわりの冷ややかな目。
それを気にしていたらシャレにならない。
「今年の投資の見とおしはですね」・・・と、強行する。
同じギャグでもイケ面の若者が放つとウケル。
ギャグとはセクハラに似たり。
「気を落とさずに頑張れよ」と肩を叩いて励ましたつもりなのに、相手が「キャー!」と発した一声でセクハラになる。
その「ハゲマシ男」にデブとハゲの条件が加われば最早セクハラは決定的だ。
同じ行為をキムタク似のイケ面にやられたら、
「彼って、とってもやさしいのよ」と言うことになる。
おっと、話をオヤジギャグに戻そう。
結局オヤジギャグって受けないダジャレの事?
◆昔感銘した哲学者・「トイレの哲人」の言葉を想いだす。
昔々、筆者が未だ厚顔の、・・いや、睾丸、でもなく抗癌、・・そう、紅顔の美少年の頃。
一寸しつこいボケだが、日本語は斯くも同音異義語が多いという事を示したボケと理解あれ。 パソコンの変換機能さえもボケをかます昨今だ。
当時私は大学生だった。
必要に迫られて大学のトイレに入ったら、しゃがんだ真正面の落書きを見て驚き感銘した。
そして、己も束の間の哲学者になった。
「七つ八つ 音はすれども 空吹きの
実の一つだに 出ぬぞ悲しき」
これほど作者の心情を赤裸々に吐露した名歌を私は知らない。
そして次のような感想歎が添えてあった。
「トイレとは思考(シッコ)し空想(クソ)する
場所なり」
私はこの天才的歌人にして哲学者の尊顔を見たく思い、学校の掲示板にて作者捜し求めたが・・・・・・
結局、読み人知らずに終わった。
私はこの作者を密かに「トイレの哲人」と尊称した。
この伝でいくと「トイレの哲人」も単なるダジャレ好きになってしまう。
今頃は周囲の凍りついた空気も全く意に介しない「真の哲学者」になっているだろう。
そして哲人的オヤジギャグを連発しているのかも知れない。
◆オヤジギャグが受けるは受けないは、本人と相手の語彙の多寡にもよる。
オヤジギャグをスポーツに例えると、語彙の多寡はスタミナに相当する。
しかしスポーツで重要なのはスピードとタイミング、つまり瞬発力である。
どんなに語彙豊富にギャグを連発しても、それがスピードとタイミングを伴わないダラダラした物であれば、はた迷惑この上も無い。
とすれば、語彙豊富で瞬発力のあるギャグは最早オヤジギャグとはいえまい。
人付き合いの潤滑油になるだけでなく本人の脳細胞の活性化にも貢献する。
さー、どんどんオヤジギャグを連発しよう。
スピードとタイミングを伴って。