<国立歴史民俗博物館>
西日本各地で稲作文化が広まり、
中国地方では弥生系の新たな呪術、
つまり「渡来系呪術」が浸透し始めたその頃、
青森を中心とする北東北一帯では
「縄文がえり」とも呼ぶべき現象が起こっていました。
青銅器を始めとする金属製の用具はもちろんのこと、
せっかく整えた水田稲作のシステムまで放棄し、
まるで「弥生」のすべてから身を引くかのように、
縄文への回帰を選んだ東北縄文人の
姿が浮かび上がってくるのです。
一方、あれほど多彩だった「縄文の呪術具」に関しては、
どういうわけか彼らが再び手に取ることはなく、
かろうじて「土偶」を細々と造り続けていたくらいで、
他の土版や石棒などは早々に姿を消したと聞きます。
もしかすると東北地方の縄文人は、
「行き過ぎた偶像崇拝」の弊害や、
多くの犠牲を伴う渡来系呪術の危うさに直面し、
一旦「引きこもる」ことを決めたのでしょうか……。
後世になって「ヤマト系の神社」が
東北に進出できなかった理由も、
この時期の東北縄文人の
「引きこもり」に端を発すると考えれば、
個人的には非常に納得する部分があるのですね。