<国立歴史民俗博物館>
縄文時代の日本の人口比率が、
東日本に極端に偏っていたことは
良く知られていますが、弥生時代になると、
逆に西日本の人口が爆発的に増えて行きます。
また、日常生活で使用する道具ひとつをとっても、
弥生時代に移行するに従い、
女性が制作していたとされる
独創的な「土器」や「土偶」は姿を消し、
男性主導で製造が行われた「金属製品」が
大多数を占めるようになるのです。
つまり、縄文時代と弥生時代以降とでは、
社会構造が正反対になってしまったわけで、
縄文の人々が弥生人の価値観を受け入れるまでには、
相当大きな壁があったことは想像に難くありません。
そのことを示すかのように、他の地域が
弥生色に染まりつつある時期の東北北部では、
青銅器を始めとする金属器がほとんど普及せず、
かろうじて始まった灌漑水田稲作に関しても、
残された遺跡からは鋤や鍬などの農具ではなく、
土偶などの呪術具などが多数発見されるのだとか……。
さらには、それらの水田も稲作が開始されて間もなく、
何らかの理由で耕作放棄されてしまった
という話もありますし、縄文時代から
弥生時代にかけての青森県近辺では、
独自の動きが出ていた可能性が伺えるのですね。