<白山比咩神社 しらやまひめじんじゃ>
能登の真脇遺跡に環状木柱列が造られた時代、
北部九州を入り口として、
相当な勢いで北上しつつあった稲作文化は、
伊勢湾のあたりで一時、
伝来の速度が落ちたという話があります。
つまり、南方から流れ込んできた新たな文化は、
どういう理由か中部地方の一帯において、
一旦伝播を阻まれたということで、
その付近に「縄文文化を死守しようとした何か」が、
存在していた可能性が浮かび上がるのです。
能登の人々もこの時期、稲作文化を受け入れるのか、
それとも縄文文化を維持するのかの
岐路に立たされていたのでしょう。
いくら古代の能登人が、
「やさしや」の精神を持っていたとは言え、
やはり他の地域と同様、渡来人や外国人
との軋轢は避けられなかったはずです。
恐らくそれらの選択は、
弥生人に融合(帰属)するのか、
それとも弥生人と争って消滅するのかという、
究極の二者択一だったのかもしれません。