たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

稲作文化

2019-01-02 09:03:44 |  能登の神社

<白山比咩神社 しらやまひめじんじゃ>

 

能登の真脇遺跡に環状木柱列が造られた時代、

北部九州を入り口として、

相当な勢いで北上しつつあった稲作文化は、

伊勢湾のあたりで一時、

伝来の速度が落ちたという話があります。

つまり、南方から流れ込んできた新たな文化は、

どういう理由か中部地方の一帯において、

一旦伝播を阻まれたということで、

その付近に「縄文文化を死守しようとした何か」が、

存在していた可能性が浮かび上がるのです。

 

能登の人々もこの時期、稲作文化を受け入れるのか、

それとも縄文文化を維持するのかの

岐路に立たされていたのでしょう。

いくら古代の能登人が、

「やさしや」の精神を持っていたとは言え、

やはり他の地域と同様、渡来人や外国人

との軋轢は避けられなかったはずです。

恐らくそれらの選択は、

弥生人に融合(帰属)するのか、

それとも弥生人と争って消滅するのかという、

究極の二者択一だったのかもしれません。