ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

「幸せに」

2016-11-23 14:42:27 | 日常
日付変わった。
寝ようと思ったが睡魔が消し飛び眼が冴えた。

久しぶりにこの動画見て、コメントを読んで知った。
この人は事件から8年後に自殺していた。
(新版)温情判決≪介護のはなし≫(認知症の母親殺害事件)

この人に執行猶予付きで「温情判決」を言い渡した裁判長の言。

「絶対に自分で自分をあやめる事のないように
 お母さんのためにも、幸せに生きてほしい」


「幸せに」とはどういう意味だろう?
今も分からない。
どういう意味で裁判長は彼に「幸せに」と言ったのだろう?
この日記ブログに上げたのは去年の暮れ、
職場の勉強会で紹介されたこの動画を見た後だった。
(「ぱんくず日記」 職場の勉強会 2015-12-08 20:10:44
     http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/s/%E6%B8%A9%E6%83%85%E5%88%A4%E6%B1%BA)

幸せに?
幸せにとは何ですか?
幸せとはこの人にとってどういう意味だと思いますか?

2006年7月、懲役2年執行猶予3年の「温情判決」を受け、
裁判長から「幸せに生きてほしい」と言われた後、この人は家賃約22000円のアパートで独居し始めた。
木材会社で働いていたが、2013年2月「会社をクビになった」と親族に伝えたのを最後に消息を絶った。
2014年8月1日、遺体で見つかった。
琵琶湖大橋から湖に飛び降りるのを目撃した人があり、自殺だった。
所持金は数百円で預金はなかったという。

私の父は2014年7月に死んだ。
もし私の父がこの人の母親のようだったら。
身体はまだ元気で車椅子生活を続けて在宅介護生活がもっと長く続いていたら、
いずれは私も間違いなくこの人と同じ境遇になったであろう、確実に。
就職するための資格を持っていたって預貯金があったってそんなものは何一つ通用しない。

私は思う。
もし父があの致命的な誤嚥で呼吸不全にならなかったら
回復して自宅に退院する事になっていたら。
おそらく私もこの人のように、
時間的に経済的に体力的に心理的に消耗し尽くし更に追い詰められた事だろう。
実際、父の生存時に私はいつも死ぬ事を考えていた。
生きていればその先に何か楽しい事とか嬉しい事とか神の恵みとか
何やら得体の知れない「何か幸せな良い事」があったとしてもそんなものは要らなかった。
(正直、今もそんなものには興味が無い、どうでもいい事だ。)
酷く疲れていて、何でもいいからこの人生を早く終わらせたかった。

父が入院し刻一刻と死に向かうまでの約1年半は、介護疲れとか消耗感よりも
医療機関とは名ばかりの老人病院で劣悪な戦時中の強制収容所の如く粗末に物品扱いされて
どんどん骨と皮ばかりに衰弱する父の容態に、
自分が疲れただの死にたいだの思う事は後に回し、気を揉み怒りを噛み殺す日々が続いた。

1年後、自分が死ぬ前に父が力尽きた。

父が持ち堪えて在宅に戻る可能性は残されていた筈だった。
生きていさえすれば、咀嚼や嚥下が出来ず胃瘻増設して食べる楽しみが無かったとしても
冗談の一つも言って笑う事があったかも知れない。
時間が工面出来ず実現していなかった聖書の朗読なんかをして
父の好きな個所を読み聞かせる事が出来たかも知れない。
入院前のように鉢植えの花を見せて喜ばせる事も出来たかも知れない。

父が生きていた時、職場でもネット上でもよく人に言われた。

「貴方は親の介護ばかりでなくてもっと自分の人生を楽しんで
  幸せになってほしい」


父が死んだ後、よく色々な人に言われた。

「これからはもっと自分のために自分のしたい事をして、幸せになってほしい」

何年経っても、文字として書いただけでも怒りで頭の中が真っ白になる。

「幸せになってほしい」

虫唾の走る踏み躙りたい言葉である。
しかし私はいつもこのように人から言われる度に笑った。
情緒が凍り付くと顔面は微笑で固まる。
どうせ説明してもわからないのだ。
他人事とはそういうものだ。

この人のような追い詰められた人が無理心中や殺人や自殺を実行し、
起こってしまってから初めて事件として世に注目され皆で動画や記事を見てさめざめ泣く。
そして動画やサイトでは「泣けるいい話」のお涙頂戴タグが付けられる。

父がこの世に生きていて私が戦っていた時、私はこの人と同じ立場だった。
手に職があろうと金が幾らあろうと何一つ通用しない現実を思い知った時、
私はこの人と同じだった。
何も無くなったら終わりにしようと思っていた。
自分がこの人と違うのは、一緒に死ぬという発想をしなかった事だけだ。
誰からもそうと気づかれず自分一人で確実に死ぬ方法を練っていた。
しかし更にもっと戦わねばならないものと対峙した時、自ら死ぬ事は後回しになった。
戦っている最中、私が自ら死ぬよりも先に父が力尽きた。
私はその死を無念だと思う。
父がゴミのような扱いを受けて死んで行った事が心底悔しく、無念だと思う。

しかし父がもし力尽きる事無く生き永らえていたら、
私は自分が確実にこの人と同じ道を辿ったと確信する。

この人は私だった。
戦っている最中にこの人の「介護殺人・認知症の母親殺害」のニュースを見た時も、
その後の裁判で「温情判決」のニュースを見聞きした時も、
一滴の涙も出なかった。

今は悲しい。
この人は私だった。
自分だった人がやっぱり生きられずに自ら死んだ。

悲しい。