ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

共有した時間を回想する

2016-11-16 23:31:36 | 日常
日付変わった。
日曜の朝からずっと後頚部が痛む。
こんな丑三つ時にストレッチをしている。

休みの翌日の日勤。
朝からだるい。
寝起き悪くてダメだ。
朝食は牛乳とクラッカーだけにしておく。
昼食も冷蔵庫にある白菜煮込みとアボカドを適当に詰めた。


・・・・・

仕事終えて市内に所用あり出かける。
職場の人の父君が突然亡くなったので葬儀に間に合わないので弔電を打とうとしたが、
情報が何も無い事に気づいた。
反対行きのバスで職場に引き返す。

・・・・・

「あの、終点ですよ」

運転手に起された。
あーあ。
職場に引き返したら遅番の人も帰宅した後だった。
介護職の人が弔電に必要な情報を調べてくれたので助かった。
弔電を打って、バスで帰宅。
今度こそ眠らないぞ。

腹減ったのう。
仕事が繁忙だったのに朝も昼も食事の熱量少なかったな。
閉店間際のスーパーに立ち寄る。

売れ残りの半額刺身とおでんのパックを買った。
刺身、どうよ。
見た感じ大丈夫そうだ。
もし当たったら明日の遅番に大穴開けてしまうかも知れない。

何と豪勢な夕食(笑
米飯抜き、主食は刺身のツマだよ。
 

腹を下しませんように。

・・・・・

同僚の父君の訃報を聞いて
さっきバスに揺られながら、道を歩きながら一昨年の夏の事を思い出し反芻していた。

父がどんどん容態悪化して骨と皮だけに衰え、
絶え間なく鼻から気管に管を通して喀痰吸引しなければならず、
どう見てもCHF末期、胃瘻造設しても持たないのではないかと思ったその翌朝だった。

長い期間、病院とは名ばかりの療養型老人病院で体位変換をろくにして貰えず褥瘡を作られ、
拘縮した手が少し動いた(ように見えた)という理由でベッド柵に紐で縛られ、
正面仰臥位のまま水とブラシで口腔内清拭をされて上顎の皮がべろり剥けて出血し、
その血液を誤嚥して肺炎を繰り返し、中心静脈栄養の針を7か月間入れたまま一度も交換せず、
敗血症を起こし発熱で症候性癲癇を起し両方の眼球が右に寄っているのに
「お年寄りってこういうものですから」と夜勤看護師は嘯いた。
院長を呼んで貰い救急車で別の病院に搬送した。
「看護サマリーは書けませんから!」と叫ぶ夜勤看護師の声を背中で聞いた。
搬送した先の看護師に経過を説明すると驚愕していた。
IVHカテーテルを7ヶ月間入れっぱなしで一度も交換していなかった事に対して。
「看護サマリーは書けない」と夜勤看護師が言ったため添書は無いが
代わりに詳細を親族の私が記録しているので参考にしてほしいと差し出した事に対しても。
しばらく手を握った後「また明日来るね」と言って病室を出た、それが最後になった。
呼吸苦で涙目になった父の顔を私はまた憶えている。
手を握ったままバスを逃し、最終の発車時刻まで私は父の病床にいた。
拭いても拭いても目から涙が滲んで来た、あの苦しい寂しい顔が目に浮かぶ。
生きて苦しんで涙を流していた父親の最期の顔を反芻する。
その日と共に、終わった。
「もうこれで最後かも知れないからやっておかなくては」
という強迫観念に追い立てられる日々が終わった。
胃瘻造設したら退院後の受け入れ先を探さなければならない、
見つからなければ自分は仕事を辞めなければならない、仕事を辞めまた無職になって
父の在宅看護(介護ではない)を準備するためにあらゆる事をしなければならなかった。
あの事やこの事や色々な事柄、急ぎする筈だったMSWとの面談も、
当てのない新しい担当ケアマネ探しも、在宅で必要になる介護ベッドのレンタル契約、
在宅で使う吸引器のリース、訪問看護と往診に応じてくれる医療機関探しも、
経済的な心配も、何もかも一切が、あの日から要らなくなった。

回想すると15年間という時間を共有した事で自分に残されたものはたくさんある。
遺されたものによってあらゆる感情が引き出されて来る。
時間を十分共有出来ずに終わっていたら違っていたかも知れない。
さっきバスが父の住んでいた建物の傍を通った。
遠く花火を眺めて喜んだ窓が見えた。

世を去るまで共有した苦しい毎日を思い浮かべると辛いが、
この世での別れが突然やって来て思い浮かべるものが何も残っていないのは
きっともっと辛い事に違いない。