迷走していた「たんなさん」のつぶやき

※個人の感想です・・・

先人のご苦労がありました 『【詳説戦後・沖縄の米軍基地】「死にもの狂い」が結実 普天間返還』

2010年04月16日 | 政治
沖縄の米軍基地問題、鳩山が決着をつけるといっていた5月末が日に日に近づいて来るにも関わらず、依然として迷走を続けています。
鳩山民主党が反故にしたキャンプ・シュワブ沿岸部の移設先ですが、ここに決めるまでの苦労をこの記事を読むまでボクも知りませんでした。
このようなご苦労があってようやく決まった移設先を、選挙の票目当てでいとも簡単に反故にして未だにドタバタし、挙句の果てに「ルーピー鳩山」とまで言われるバカに、是非とももの記事を読んでいただきたいものです。
【詳説戦後・沖縄の米軍基地】「死にもの狂い」が結実 普天間返還
 鳩山由紀夫首相は15日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先の決定を、来年に先送りすることを決めた。平成18年に日米両政府は移設先をキャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市辺野古)とすることで合意しているが、鳩山政権の決定先送りで、問題の決着はさらに混迷を極めそうだ。普天間飛行場返還合意の舞台裏、戦後の沖縄の米軍基地の歴史を検証する。
             ◇
 橋本政権が誕生して1カ月余りたった平成8年2月21日。自民党総裁室に、首相の橋本龍太郎と、地方分権推進委員会委員長を務めていた秩父小野田会長の諸井虔らが顔をそろえた。会談の目的は沖縄問題だったが、報道陣をはじめ外部には伏せられた。
 諸井は沖縄県知事の大田昌秀を囲む会に参加しており、「沖縄の思い」を橋本に伝えるために足を運んだのだった。「普天間飛行場の返還を、日米首脳会談で出してくれれば、沖縄の県民感情は和らぐ」。諸井は「大田の話」と前置きした上で、こうアドバイスした。
 日米首脳会談は、3日後の23日(日本時間24日)、米国のサンタモニカで行われることになっていた。橋本政権には、沖縄の米軍基地問題の解決が重くのしかかっていた。7年9月の米兵少女暴行事件を契機に、沖縄では米軍への反発が一気に広がっていたからだ。諸井の言葉を受けて橋本は早速、検討に乗り出した。
 しかし、首相官邸執務室で開かれた訪米勉強会では、外務官僚が強硬に反対した。「そんなことを首相が言えば恥をかく」「安全保障の『あ』の字も分かっていないと思われる」…。橋本の悩みは深まる一方だった。
 しかし、橋本は決断した。首脳会談で「フテンマ」と具体名を出し、米大統領のクリントンに返還を迫ったのだ。首相就任後初の日米首脳会談で、安全保障関係を揺るがしかねないテーマを切り出すことは“賭け”だった。
 「大統領の沖縄問題に対する真摯な態度がうかがえた。その場の雰囲気で決断したというしかない」
 橋本に政務秘書官として仕えた江田憲司(現みんなの党幹事長)は振り返る。
 こうして普天間飛行場返還をめぐる日米交渉は始まった。橋本は師と仰ぐ元首相の竹下登に、頻繁に電話をかけて相談を重ねた。当時、竹下の弟で秘書だった亘(現自民党副幹事長)は、竹下がこうアドバイスしていたのを記憶している。
 「交渉には勝ちはない。でも負けもない。そういうものだと思ってやりなさい」
 駆け引きしながら相手を説得し、双方が歩み寄る形で合意を見いだす…。橋本はこのころ記者団に「ボクは本気で、死にもの狂いで交渉しているんだよ」と苦しい胸の内を明かしている。
 橋本は4月17日のクリントンとの2度目の首脳会談に向けて、自ら米駐日大使のモンデールとひざ詰めの直接交渉を行った。その結果、日米両政府は普天間飛行場の全面返還で合意。同月12日、首相官邸でモンデールと共同記者会見を行い、これを発表した橋本は会心の笑みを浮かべた。会見を終えて、公邸に戻った橋本は、先回りして待ちかまえていた江田と抱き合い、交渉の成功を喜んだ。
× × ×
 ところが、その後に難しい問題が控えていた。移設先をどこにするかだった。9月初旬、橋本は膠着(こうちゃく)状態に陥った移設先問題で頭を痛めていた。移設先に浮上した嘉手納基地(沖縄県嘉手納町、沖縄市、北谷(ちゃたん)町)やキャンプ・シュワブなどはいずれも、地元の強い反発を受けた。
 そんな折、橋本は羽田空港に向かう車中で、海上構造物の技術やコストの検討を江田に命じた。江田は「(海底にくいを打ち込んで櫓(やぐら)を造り、その上に滑走路を載せる)桟橋方式(QIP)なら実用化されているし、生態系を保護でき、いつでも撤去できます」と答えた。橋本も「それはいい」と満足げな表情を浮かべた。
 「撤去可能な海上ヘリポートを建設する可能性を、日米両国の技術を結集して研究する」
 同月17日、首相就任後、初めて沖縄入りした橋本は、地元自治体関係者ら約250人を前に、海上ヘリポート構想を打ち出した。橋本は「撤去可能とすることで、基地の恒常化を回避でき、地元の理解も得られる」と踏んでいた。
 橋本はその後、移設先はキャンプ・シュワブ沖とする方向で検討を進めた。しかし、1年余りたった9年12月21日、名護市で海上ヘリポート建設の是非を問う住民投票が行われた。結果は反対が54%と賛成の46%を上回り、キャンプ・シュワブ沖ヘの移設は難しい情勢となった。
 3日後の24日。名護市長の比嘉鉄也は、首相官邸に橋本を訪ねた。重苦しい空気の中、比嘉は決意を伝えた。
 「移設を容認します。その代わり私は腹を切る(辞職する)。後任には、助役の岸本(建男)を出して、必ず勝ちます」
 橋本は起立して比嘉の言葉に耳を傾けた。「悲壮な決意で国の重い責任について、辞任までして活路を見いだすことに、心から敬意を表します」と答える橋本の目から、涙がこぼれ落ちた。
 比嘉は橋本に「メモを1枚ください」と求めると、沖縄に伝わる琉歌(りゅうか)をしたためた。
 「義理んむすからん ありん捨ららん 思案てる橋の 渡りぐりしや」
 義理捨てがたく、橋を渡ろうか悩んでいるが、渡らなければならないという心境を詠んだものだった。太平洋戦争での沖縄戦の悲惨さ、米軍基地を抱え続けてきた戦後の歴史。しかし、移設先が決まらなければ「最も危険な基地」といわれる普天間飛行場が残る。言うに尽くせない比嘉の苦渋の選択が、普天間返還の歯車を回した。
 それから12年。日米合意にこぎつけた普天間移設は、今なお迷走を繰り返している。MSN産経ニュース2009.12.23 18:35


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