《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)
第八章 賢治昭和二年の上京
さて、次の仮説、
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した………………♣
は検証出来たから、今後この反例が見つからない限りはという限定付きの事実となってゆくであろう。そこで、この検証出来た「仮説♣」に基づいて、賢治昭和二年の上京はどのようなものだったのかを考え直してみたい。1 下根子桜時代の詩創作数
まずは、賢治はチェロが上達しないことに対してどのように対処したのだろうか。
グラフから見えてくること
そのヒントを与えてくれそうなのが、下根子桜時代の賢治の詩の創作数の図表、下掲の【Fig.4 下根子桜時代の詩創作数】である。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
そしてこのグラフからは何が見えてくるか。真っ先に目に付くのが大正15年4月である。この月は全く詩を詠んでいない。そして次が同年12月と翌年の昭和2年1月である。この2ヶ月間も同様に賢治は全く詩を詠んでいない。考えてみれば、前者については賢治が下根子桜に移り住んだばかりの月だから時間的に余裕がなくて詠めなかったと、また後者については、12月の場合は殆ど滞京していたし、1月の場合は例の10日おきの講義等で多忙だったから詠めなかったということでそれぞれいずれも説明が付く。どうやら賢治は忙しいときには詩を詠まない傾向がありそうだ。
ところが逆に、昭和2年の3月~8月の詩の創作数は極端に多くなっていることも特徴的である。これは、賢治の羅須地人協会の活動が次第に停滞していったのと対極的な動きを見せていると私には見える。つまり、この3月~8月の間は楽団活動を全くしなくなり、定期的に行われてきた講義も次第に先細りになっていったので、そのことによって生ずる心の隙間を埋めようとしているかの如くに賢治は旺盛に詩を詠んだように見る。それこそ「農民詩」などを。
そういえば、3月になって一気に創作数が急増しているが、この3月といえば松田甚次郎が初めて下根子桜に賢治を訪ねて来たのだが、その初対面の卒業を間近に控えた盛岡高等農林のその若者に「小作人たれ、農村劇をやれ」と賢治が強く熱く迫った月である。そして同年の夏頃といえば、その松田がほぼ出来上がった「農村劇」の脚本を携えて故郷新庄から再び指導を受けに来たのが8月8日であった。
あるいはまた同じくその夏頃といえば、労農党稗貫支部の実質的な支部長川村尚三が賢治から下根子桜に呼ばれたりした頃でもあるし、その年の夏から秋にかけては川村が『国家と革命』を教え、賢治は土壌学を教えるという交換授業を一定期間行ったり(『岩手史学研究N0.50』(岩手史学会)220p~より)していた頃だ。この頃の賢治は精神的昂揚期にあったと言えそうだ。
賢治に何が起こったのか
ところが先のグラフから明らかなように、昭和2年の場合9月になると創作数は一気に激減して2篇のみとなり、その後の10月~3月の半年間はなんと1篇の詩すら詠まれていない。一体そこにはどんな変化が賢治には起こっていたのだろうか。それまでが亢進期であったとみれば、ここからは抑鬱状態に陥ったと見ることもできそうだ。あるいは、そこにはよほどのことが起こっていたと考えるのが自然かなとも思う。
実際、前掲書の『岩手史学研究N0.50』には続けて、昭和2年に行われた交換授業の結末が書かれており、
夏から秋にかけて読んでひとくぎりしたある夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったが、これはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌日からうちわ太鼓で町をまわった。
という。そうすると、昭和2年の夏から秋にかけて行った二人の交換授業を通して、賢治は思想面で大きな変化が起こってしまっていたということは言えそうだ。また、上田哲の論文『「宮澤賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―』には、高瀬露が、
賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後、先生のお仕事の妨げになってはと遠慮するようにしました。
<『七尾論叢 第11号』(1996年12月、吉田信一編集、七尾短期大学発行)81pより>と話したという菊池映一氏の証言が載っている。一般には賢治の方が高瀬露を拒絶したというのが巷間流布している「伝説」であるが、実はその二人の立場は全く逆だということも却ってあり得る。それは、当の露が「事実でないことが語り継がれている」とはっきり言ったと上田哲が『図説 宮沢賢治』(上田・関山・大矢・池野共著、河出書房房新社)所収の「賢治をめぐる女性たち」で述べていることからも提起される。
つまり、露の方は『春と修羅』を出版したり農民のために献身しようとしたりしている賢治を「師」として崇敬し、それが故に賢治を支援しようとしただけのことだった。ところが、そのような露に賢治は次第に心惹かれていったので、露は賢治にもうこれ以上迷惑を掛けてはいけないと悟って昭和2年の夏以降は下根子桜から遠のくようになってしまった、という可能性すらある。それが賢治にはとても耐えられず、辛かったとも考えられる。さてはてはたしてそうだったのか、それとも伝説通りであったのか現時点では私にはわからないが、いずれにせよ露は賢治の許を離れていった。
とまれ、昭和2年夏から秋にかけて賢治には思想面あるいは女性関係で急激な変化が起こっていたといえるのではなかろうか。あるいはそのどちらもが起こったのであればなおさらに賢治はショックであったであろう。それゆえ、その後の賢治はしばらく精神的に立ち直れず、詩の創作意欲が湧くというようなことはなかったと解釈すれば、この詩の創作数の推移の説明は付く。
思考実験(昭和2年9月の上京)
あるいはまた、9月に入って突如詩の創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまった原因は、大正15年の12月と同様にそれこそ上京していたがためということだってあり得る。
この昭和2年9月の「2篇」といえば「藤根禁酒会へ贈る」と「華麗樹種品評会」のことのようだが、かつての殆どの「賢治年譜」には次のようにもう1篇の詩が載っていて、
昭和二年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
となっている。そして9月に上京したということも同様に、だ。
だからもしかすると、9月に入って突如創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまったのは精神的なダメージを受けたからだったというよりは、かつての「賢治年譜」の殆どが載せてあったとおりにこの9月に賢治は上京していたからであると考えてもその説明が付くことに気付かされる。ちょうど前年の12月に上京していた時がそうであったように。はたまたその両方であって、精神的なダメージと併せて、上京していたからだと考えればその説明はさらに説得力が増してくる。
そこで、昨今では全く「通説」ではなくなってしまったが、かつて(昭和30年頃以前の)殆どの「宮澤賢治年譜」に載っていた「昭和2年9月の賢治の上京」の可能性について以下に少しく思考実験してみたい。その可能性が、それこそ澤里武治の証言によってある程度裏付けられそうな気がするからである。
その証言とは、以前に何度も引用している、
澤里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。……………①
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年 8月発行)217p~より>と賢治が澤里に対して語ったという証言である。
では実験を開始する。
さて、こう賢治が澤里に話した日はいつかというと、先に検証してみた結果昭和2年の11月頃の霙の降る日であることが間違いなさそうだということが既にわかっている。そうすると、その際賢治が話した「今度はおれも真剣だ」という発言に注目するとあることが見えてくる。
まずは、このことから次の等式
「今度」の上京=昭和2年11月頃の上京
が導かれる。すると次に、「今度はおれも真剣だ」という賢治の発言からは、『「今度」でない上京』が「昭和2年11月頃の上京」以前にあったということが導ける。そしてまた、『「今度」でない上京』における賢治のチェロの練習はそれほど「真剣」なものではなかったということも。もちろんそれは、
「真剣」≒「少なくとも三ヵ月は滞京する」
という程度の意味でではあるが。
さてそうすると、もちろんこの場合に真っ先に思い出されるのが例の大正15年12月の上京であり、
「今度」でない上京=大正15年12月の上京 ……………②
という等式が成り立つかもしれない。
がしかし、
「今度」でない上京=昭和2年9月の上京 ……………③
という等式だって十分に成り立つ可能性もあるし、賢治の昭和3年6月の上京は当て嵌まらないから、この「②」か「③」以外の候補は考えられない。
でははたしてどちらが歴史的事実だったのだろうか。そこで注目したいのが「少なくとも三ヵ月は滞京する」である。この具体的な期間の限定の仕方「三ヵ月」は賢治自身が決めたものではなくて、チェロの指導者がその『「今度」でない上京』中に賢治の腕前を直接目の当たりにした上でアドバイスしたものであると考えた方が妥当ではなかろうか。
そしてまたなにより、この「①」の差し迫った、とりわけ「とにかくおれはやらねばならない」という賢治の語り口からすれば、そのアドバイスを受けたのはそれほど昔のことではなかろう。一方で、約1年前の「三日間のチェロの特訓」はまさしく「真剣」そのものだったはずだ。つまり、大正15年12月の上京の際のチェロの練習も「真剣」だった。さすれば、この場合にどちらがふさわしいかといえ消去法によって「③」の方となろう。
したがって、言い方を換えれば
◇かつての殆どの「宮澤賢治年譜」にあったように、賢治は昭和2年9月に上京しているという可能性が高い。
と言えそうだ。そしてその上京は、いわば『「三ヶ月もの長期にはわたらない、「それほどは真剣でない」チェロの練習』が目的のそれだった、とも。
それ故に賢治は忙しくて、昭和2年の10月の詩の創作数は皆無だったとも言えるのかもしれない。そしてこのことからは逆に、9月の上京・滞京は同月の後半からだったということも言えそうだ。「藤根禁酒会へ贈る」が詠まれたのが9月16日だから、この日はまだ岩手に賢治は居たと判断できるからである。
…と推論してみたが、今回の思考実験はちょっと付会過ぎたかもしれない。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
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