”やっと出会えた五庚申塔”で報告した春日神社近くに住んで居られる庚申講中のご老人から聞いたことで、まだ報告していなかったことが一つある。
それは、
その年の納めの庚申日に『七庚申塔』に色を塗る講中がある
ということである。このことを聞いて、私は心の中で『そういうことだったんだ』と膝を打った。
先ずはその前に、以前に疑問を呈したことがある色が塗られた『庚申塔』を紹介する。
《1 地蔵堂の庚申待供養塔》(平成21年1月29日撮影)
文字の部分に朱い塗料が塗られていた形跡がある。
《2 花巻養護学校前の庚申塔》(平成21年1月29日撮影)
中央の庚申塔全体に色が塗られてあった形跡があるし、特に文字は朱で彩られていたようだ。
《3 北野の七庚申塔》(平成21年2月10日撮影)
中央の七庚申塔には全体に白っぽいものが塗られてある。
《4 椚ノ目熊野神社の庚申塔》(平成21年2月15日撮影)
梵字の部分が赤色で塗られている。
《5 小瀬川熊野神社の七庚申塔》(平成21年2月25日撮影)
七庚申が黒色で、その他の文字が赤色で鮮やかに塗られている。
おそらく、このご老人の『その年の納めの庚申日に『七庚申塔』に色を塗る講中がある』という話から、これらの『庚申塔』は納めの庚申日に刻字や塔全体に塗料が塗られて化粧直しをして貰ったのだろうということが推測できる。
そして、納めの庚申日に化粧直しをするということであれば、それは作神としての『庚申様』(特に豊作の年となると言い伝えられている『七庚申』)に感謝し供養するための行為であったのだろうことが容易に推測できる。
そこで、あのページを見てみよう。
【Fig.28 復元版「雨ニモマケズ手帳」165~166p】(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房)
羽黒山などの供養塔のスケッチが描かれているが、青や赤そして紫の色鉛筆で丁寧に塗り分けられた”五庚申と七庚申”も書かれている。
このことに関して、「雨ニモマケズ手帳」研究の第一人者小倉豊文氏は
おそらく以上が最初の記入であって、それに重ねて「七庚申」と「五庚申」二つを鉛筆の二重文字で書き、それぞれの上部に二重圏点をつけ、更にそれらを紫・青・赤の三色鉛筆で塗ったのは、後の別な機会であろう。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉 豊文著、東京創元社)より>
と論じている。
ということは、花巻周辺の人たちは納めの庚申日に庚申塔に感謝の意を込めて色を塗ることを賢治は知っていて、それに倣って賢治はこのような彩色を施した描き方をしたのではなかろうか。
つまり、まずは鉛筆で二重文字の「七庚申」と「五庚申」を書くことにより庚申塔を建立したものとし、おそらく昭和6年の納めの庚申日(旧11/23)にその文字の上に彩色したのではなかろうか。昭和6年の花巻の凶冷の回避祈願と供養するために。私が心の中で『そういうことだったんだ』と膝を打った理由はこのことだったのである。
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それは、
その年の納めの庚申日に『七庚申塔』に色を塗る講中がある
ということである。このことを聞いて、私は心の中で『そういうことだったんだ』と膝を打った。
先ずはその前に、以前に疑問を呈したことがある色が塗られた『庚申塔』を紹介する。
《1 地蔵堂の庚申待供養塔》(平成21年1月29日撮影)
文字の部分に朱い塗料が塗られていた形跡がある。
《2 花巻養護学校前の庚申塔》(平成21年1月29日撮影)
中央の庚申塔全体に色が塗られてあった形跡があるし、特に文字は朱で彩られていたようだ。
《3 北野の七庚申塔》(平成21年2月10日撮影)
中央の七庚申塔には全体に白っぽいものが塗られてある。
《4 椚ノ目熊野神社の庚申塔》(平成21年2月15日撮影)
梵字の部分が赤色で塗られている。
《5 小瀬川熊野神社の七庚申塔》(平成21年2月25日撮影)
七庚申が黒色で、その他の文字が赤色で鮮やかに塗られている。
おそらく、このご老人の『その年の納めの庚申日に『七庚申塔』に色を塗る講中がある』という話から、これらの『庚申塔』は納めの庚申日に刻字や塔全体に塗料が塗られて化粧直しをして貰ったのだろうということが推測できる。
そして、納めの庚申日に化粧直しをするということであれば、それは作神としての『庚申様』(特に豊作の年となると言い伝えられている『七庚申』)に感謝し供養するための行為であったのだろうことが容易に推測できる。
そこで、あのページを見てみよう。
【Fig.28 復元版「雨ニモマケズ手帳」165~166p】(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房)
羽黒山などの供養塔のスケッチが描かれているが、青や赤そして紫の色鉛筆で丁寧に塗り分けられた”五庚申と七庚申”も書かれている。
このことに関して、「雨ニモマケズ手帳」研究の第一人者小倉豊文氏は
おそらく以上が最初の記入であって、それに重ねて「七庚申」と「五庚申」二つを鉛筆の二重文字で書き、それぞれの上部に二重圏点をつけ、更にそれらを紫・青・赤の三色鉛筆で塗ったのは、後の別な機会であろう。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉 豊文著、東京創元社)より>
と論じている。
ということは、花巻周辺の人たちは納めの庚申日に庚申塔に感謝の意を込めて色を塗ることを賢治は知っていて、それに倣って賢治はこのような彩色を施した描き方をしたのではなかろうか。
つまり、まずは鉛筆で二重文字の「七庚申」と「五庚申」を書くことにより庚申塔を建立したものとし、おそらく昭和6年の納めの庚申日(旧11/23)にその文字の上に彩色したのではなかろうか。昭和6年の花巻の凶冷の回避祈願と供養するために。私が心の中で『そういうことだったんだ』と膝を打った理由はこのことだったのである。
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