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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3507 篤治郎と花巻温泉

2013-09-17 08:00:00 | 賢治関連
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 さて、『花巻市制施行記念 花巻町政史稿』からもう少し引用したい。
 伊藤儀兵衛の長男篤次郎は父に先立つて明治の末年か大正の初年頃に早世したが恐らく父以上の事業家であった。合資会社伊藤商店を経営して生糸貿易を担当したのも北上運送の仕事を引受けたのも実は篤次郎であつた。
 貴族院議員満期後の儀兵衛は家業を篤次郎に譲つて自分は菊造りと謡曲とに餘世を送つた。
 今の花巻温泉は朝日新聞の下村海南の命名で初代の社長は金田一国士であるから誰でも金田一を当初の計画者と思つている実はこれを始めたのは伊藤篤次郎であつた。彼は台温泉の台湯舘に居住して台の湧湯を今の場所に引き、ここに一大遊園地にすることを思い付いた。そして地主の殆ど全部を説得して土地の買い占めを終わり「台遊園地新温泉」と名づけて施設にとりかかつたが中道にして倒れたのである。彼が死んだ後には笹屋は昔の差笹屋にあらず儀兵衛は隠退して俗事に干渉しなかつたので、篤次郎の事業は雲散霧消、北上運送も人手に渡り合資会社も店を締めて了つた。然し彼の想起した花巻温泉は偉傑金田一国士が事業を継承し彼が想像したよりも以上の雄大な温泉郷として発達し地方のために有意義な名物を残すことになつた。
         <『花巻市制施行記念 花巻町政史稿』(八木栄三著、花巻郷土史研究会)63p~より>
 たしかに八木の言うとおり、花巻温泉といえば金田一国士のアイディアによるものとばかり私は今まで思い込んでいたが、どうやらその先駆者は何と伊藤儀兵衛の長男伊藤篤次郎であったようだ。
 このことに関しては『花巻温泉物語』にも、
 国士の目指したのは花巻温泉開発はただ宿泊施設を作るという単純なものではなかった。六甲山の北東端に開けた観光都市宝塚に匹敵するリゾート基地を花巻に建設<*>しようとしたもので、人々のど肝を抜くに十分だった。…(略)…
 そもそものきっかけは、国士が岳父金田一勝定の後を受けて社長に就任した盛岡電気興業株式会社と花巻電気会社が大正十年十二月に合併したのを機会に、花巻電気や地元の人たちが勧めていた温泉開発計画を受け継いだ。
              <『花巻温泉物語』(佐々木幸夫著、熊谷印刷出版部)4p~より>
と記述されているから、その当初のアイディアやプランは地元で起こったものであったと判断してよさそうだ。
 たしか金田一国士は花巻出身ではなかったはず(調べてみたならば青森県三戸町出身であった)で、どうしてその金田一が一大レジャーランド花巻温泉を創ろうとしたのだろうかと以前から疑問に思っていたのだが、最初にそれを思い付いたのは実は伊藤儀兵衛の長男だったということを知って、地元の人間としては正直ちょっと胸のつかえが下りた。そして長男の篤次郎といい、四男の岡山不衣といい、伊藤儀兵衛のみならずその息子達も花巻の発展のために甚大な貢献等をしたということを知って、改めて伊藤儀兵衛のことを地元の我々は忘れてはならないのだということを悟り、再認識した。

<*註>
 実際金田一が思い描いたように、以前〝花巻温泉の花壇はどこに〟でも触れたとおり、昭和2年に行われた大阪毎日と東京日日両新聞社主催の「日本新八景」の全国投票において花巻温泉は200万票を集めて最高点を獲得したというし、國民新聞社全國温泉十佳選投票では最優位になったとのことである。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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