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1451 ちょっと佐藤惣之助について

2010-05-01 09:00:43 | 賢治関連
      【Fig.1『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷出版)】

 では今回は佐藤惣之助に関して。
 まずは『Yahoo!百科を事典』を見てみる。おおよそ次のような人物であるようだ。
 佐藤惣之助(さとうそうのすけ)(1890―1942)
 神奈川県生まれの詩人。暁星中学附属仏語専修科に学び、佐藤紅緑に師事して俳句を詠んだ。千家元麿らと知り合い『白樺』的な人間主義から生命感と感覚性豊富な詩風に移り、晩年は戦争や時局に歩調をあわせた詩を書いた。詩集は『正義の兜』『わたつみの歌』など22冊があり、主宰した『詩之家』(1925.7創刊)から多くの新人を出した。晩年には古賀政男と組み、『赤城の子守唄』や『人生劇場』などの作詞もした。

 以前触れたように、大正13年12月の「日本詩人」に佐藤惣之助氏が賢治の詩の言葉の特異性に注目して「奇犀冷徹その類を見ない。大正十三年度の最大の収穫である」と絶賛したということだったが、この佐藤は『宮澤賢治』というタイトルで次のような小論を書いている。
   宮澤賢治
                       佐藤惣之助
 宮澤賢治!の名は、草野心平君から紹介された。
 草野君は、その他数人の詩人を紹介してくれた。友に私の嘱望の詩人である。
 以上の人は、殆ど私の對蹠の人々である。それが為に私は熱心に読んだ。そして感心した。
 ことに宮澤訓の場合、「春と修羅」は私を驚かした。私も且つて「華やかな散歩」を世に問ふ時に、従来の詩語詩藻に一切據るまいといふプライドをもつてした。ところが「春と修羅」の場合は、そんなものは頭から蹴飛ばしてゐた。
 「詩語詩藻の一切なる詩集」これは珍しいものだ。さういつて私は一紹介文を書いた。そして云つた。((宮澤君のやうに新しく、宮澤君のやうにオリヂナリテーをもつて、君も詩を成したまへ。))
 そこには、天文、地質、植物、化學の術語とアラベスクのやうな新語體の鎖が、盡くることなく廻轉してゐた。例へば「小岩井農場」の如き。
 そこには私達の持たない峻烈な、雪線的氣芳があつた。蜒蜿たる龍骨があつた。そして、紫外、赤外線的、科學的風景が果てしなく把述されてゐた。
 これは當時の詩壇の驚異であつたが、「春と修羅」は一般に読まれずに終つたらしい。特に私は人に奨めて、その寄贈本さへ、今は失ってしまつた。…

   <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)より>
 <註>詩藻=詞藻(言葉のあや)?、氣芳=芳気?、蜒蜿=蜿蜒(延延)?

 ついいままでは、辻潤も佐藤惣之助も共にそれぞれ独自に賢治の凄さを発見していたと思っていたのだが、佐藤の場合は辻とは異なり草野心平から紹介されて知ったということだったのだ。すると、草野の役割の方が遥かに佐藤よりも大きかったことがこのことからも知らされる。

 そしてあれっと思ったのが、佐藤は一体誰から詩集『春と修羅』を寄贈されたのだろうか、もしかすると森荘已池だったりして…ということである。
 というのは『ふれあいの人々』の中に森荘已池は次のようなことを書いているからである。
 …大正十四年、私が上京したとき「春と修羅」は神田の古本屋でなくて夜店の古本屋に出ていた。
 神楽坂、本郷、新宿、渋谷、神田のアセチレンの光の下に、二、三冊ずつ一冊十銭也でゾッキ本にまじって売られているのを見た。
 …
 私が「岩手詩人協会」をつくったとき、賢治は機関誌の「貌」の刊行費にと「春と修羅」「注文の多い料理店」を三十冊ずつくれた。私はどうすれば売れるのかを知らない中学生だった。賢治は「会員の皆様に買ってもらって『貌』の印刷費にすればいいでしょう」と、言ってくれたのだが―。…
 私は上京するとき、「春と修羅」を売って「貌」の印刷費を作ろうと東京に運んだ。
 だが、ケチネ氏が売り払った大量?の「春と修羅」が二十銭、三十銭で神田や本郷、新宿などの夜店の古本屋に、二、三ずつ出回っていたので、驚いてみな寄贈してしまった。何れ当時の有名無名の詩人たちに贈ったものと思うが、名簿もないので全く不明である。…

    <『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷出版)より>
 <註>ここでいう『ケチネ氏』とは神田の古本屋関根書店の店主の関根喜太郎のことであり、当時は神田の書店組合長であったという。

 前述の通り佐藤は『春と修羅』を買ったとは言っておらず寄贈を受けたということだから、森が驚いて寄贈した有名無名の詩人の中の一人に佐藤惣之助がいたのかも知れない。もしそうであったとしたならば、森の怪我の功名?だったかもしれない。
 それにしても、『春と修羅』は大正13年に関根書店から一冊2円40銭(かなり高価!)で発売され、発行部数は1,000冊だったということだが、1年ほどでぞっき本と一緒に夜店で売られていたとは意外であった。

 なお参考に、森が上京した年1925年(大正14年)の年齢を示せばそれぞれおおよそ
  辻    潤(1884~1944)=41才(ダダイスト?)
  佐藤惣之助(1890~1942)=35才(同人誌『詩之家』刊行等)
  宮澤 賢治(1896~1933)=29才(花巻農学校教諭)
  草野 心平(1903~1988)=22才(広東嶺南大学生)
  黄    瀛(1906~2005)=19才(「朝の展望」が『日本詩人』第一席入選巻頭を飾る)
  森 荘已池(1907~1999)=18才(盛岡中学学生)
である。辻と佐藤は賢治より年上、草野、黄、森はいずれも賢治より年下であった。

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