《創られた賢治から愛すべき賢治に》
山梨日日新聞社入社◇大正12年9月 徒歩で関東大震災の救援に行く。
◇大正13年6月 山梨日日新聞社に入社。
甲府中学時代の後輩で、前々年に山梨日日新聞社社長に就任していた野口二郎の要請を受け、同社に入社。甲府や峡北地区の短歌会に参加し作歌を続けていた嘉内は、編集及び文芸部記者となる。翌年5月までの約一年間記者として活動。
◇大正14年3がち22日 佐藤さかゑと結婚。再度の営農
◇大正14年5月 山梨日日新聞社を退社。その後昭和6年まで営農。
故郷に戻った嘉内は、本格的に営農の準備を始めた。めざすところはもちろん、かつて「花園農村」と表現した模範農村の実現である。しかし、自らを「農人」と称し、理想をかざした前回の時とは異なり、今回は現実とも妥協しつつ地域に根付いた方法を、嘉内は模索していた。
<『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(大明 敦編著、山梨ふるさと文庫)116pより>◇ 〃 6月25日 賢治から最期の手紙。
お手紙ありがたうございました。
来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます
お目にもかゝりたいのですがお互ひもう容易のことでなくなりました 童話の本さしあげましたでせうか
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます
お目にもかゝりたいのですがお互ひもう容易のことでなくなりました 童話の本さしあげましたでせうか
<『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)73pより>
◇大正15年 再度の営農
『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』によれば
(二) 再度の営農
嘉内が取り組んだ農村改善運動は、共同経営・共同購入を基本としたいわゆる協同組合方式を採り入れたもので、今日の集落農場型農業生産法にも通じる考え方がある。そこには、大正八年に「農人」として花園農村の理想を掲げて営農を始めた時の、…(略)…反省もあったであろう。この時期の嘉内の農村改善運動は、概ね次のようなものであった。
<『心友宮沢賢治と保阪嘉内』(大明 敦編著、山梨ふるさと文庫)119p~より>嘉内が取り組んだ農村改善運動は、共同経営・共同購入を基本としたいわゆる協同組合方式を採り入れたもので、今日の集落農場型農業生産法にも通じる考え方がある。そこには、大正八年に「農人」として花園農村の理想を掲げて営農を始めた時の、…(略)…反省もあったであろう。この時期の嘉内の農村改善運動は、概ね次のようなものであった。
ということであり、その「農村改善運動」は次のような5項目からなるという。
第一:土地の問題(小作制度の解消)
嘉内は、地主は田地一町歩ほどと畑地六~七反があればよいと考え、余分な自家の農地は実勢価格の三分の二から四分の三で小作人に開放した。
第二:労働力の問題
「結」を村落全体に拡大することを考えた。
第三:共同作業・共同購入を提唱。
第四:資金の問題
「無尽」の仕組みを改善し、「百姓銀行」の制度を考えた。
第五:現金収入を得るための農村副業(養鶏と養蚕を主に)
◇大正15年7月 青年訓練所開所。嘉内は、地主は田地一町歩ほどと畑地六~七反があればよいと考え、余分な自家の農地は実勢価格の三分の二から四分の三で小作人に開放した。
第二:労働力の問題
「結」を村落全体に拡大することを考えた。
第三:共同作業・共同購入を提唱。
第四:資金の問題
「無尽」の仕組みを改善し、「百姓銀行」の制度を考えた。
第五:現金収入を得るための農村副業(養鶏と養蚕を主に)
(五) 青年教育への理想
青年訓練所での教練の指導は、在郷軍人が担当したため、大正十五年七月十三日に藤井青年訓練所が開設されると嘉内もその指導に携わることになった。そのことが嘉内の人生を大きく変えていくことになるのである。
<『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(大明 敦編著、山梨ふるさと文庫)127p~より>青年訓練所での教練の指導は、在郷軍人が担当したため、大正十五年七月十三日に藤井青年訓練所が開設されると嘉内もその指導に携わることになった。そのことが嘉内の人生を大きく変えていくことになるのである。
<『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)26pより>
◇昭和2年1月 在郷軍人会分会長となる。
◇昭和2年2月 青年訓練所主任となる。
◇昭和5年8月 青年指導者講習会参加。農業伝習所構想に憑かれる。
嘉内は、青年訓練所で農村の青年を指導する仕事を通じて、青年教育への関心を強めていく。昭和五年三月に日本青年協会主催の青年指導者講習会に参加したことは、そんな嘉内に一つの方向を与えたものと思われる。嘉内は、農業伝習所を設立し、そこで青年たちに近代的な農業経営を教えることが、農村を発展させることにつながると考えたのであろう。
<『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(大明 敦編著、山梨ふるさと文庫)129p~より><『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)22pより>
上京
昭和6年10月 本格的に青年教育に取り組むために、田地を整理して離村。
東京久留米町に移り、日本青年協会武蔵道場主任となる。
昭和7年3月 豊島区東長崎に転居。
【日本青年協会武蔵道場(浄牧院)にて(昭和7年7月3日撮影)】
<『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)26pより>
昭和8年4月 日本青年協会主事補となる。
日本青年協会退職、病臥
昭和9年4月 日本青年協会退職。アミノ酸醤油、砂鉄精錬など農村副業の研究を行う。
昭和11年11月 療養のため帰郷し、病臥。
昭和12年2月8日(41歳) 逝去。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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