みちのくの山野草

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3426 『賢治と嘉内ガイドブック』より

2013-08-05 09:00:00 | 賢治関連
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 このガイドブックの18pと19pは下の写真のようになっていて、

            <『賢治と嘉内ガイドブック』(特定非営利法人つなぐ)より>
 賢治から嘉内に送られた書簡は現在七十三通残っている。
 しかし、嘉内から賢治に出した書簡は一通も見つかっていない。
とあり、
 嘉内から賢治宛に出した書簡は戦災によって焼失したために一通も見つかっていません。
と記されている。
 たしかに、宮澤賢治宛の来簡は皆焼けてしまったという噂は私も聞いている。
 ところが同ガイドブックの20~21pは下図のようになっていて

 嘉内の賢治宛て書簡が
 発見されれば、決別の真相、
 友情の継続が
 明らかになるかもしれない。
とあり、
 …嘉内の賢治宛て書簡がまったく残っていないこともあって、わかっていません。
とも述べられている。

 これはなにも、嘉内と賢治の関係だけの問題ではなくて、高瀬露と賢治の関係においても然りである。書簡を用いて論考するのであれば、往復書簡があってこそ妥当なそれが可能なのであって、往簡のみとか来簡のみに基づくそれであれば、ましてその下書に基づくそれであれば、その論考は危ういものとなることは必至である。

 一方では、賢治の書簡の下書や反古でさえも整理されて残っていた(草野心平が賢治没後に宮澤家を訪れた際に、清六は整理された遺稿等の中から心平宛の書簡の反古を直ぐさま出してくれたということを、『宮沢賢治覚書』や『詩友 国境を越えて』から知ることができる)という。
 ところがそれらは、昭和20年8月の10日の花巻空襲の際に火災で焼けてしまったという話も聞くが、以前に投稿したように、「生徒諸君に寄せる」の詩稿は空爆で罹災した書類の中の往復書簡の堆積からみつかったということだから、来簡の全てがその火災で焼けてしまったというわけではなさそうだ。まして、素朴に考えて、往簡や書簡下書だけは焼失せずに残っていて、来簡の方は焼失してしまって一通も残っていないということはまったく不自然だ。
 だからおそらく、来簡の一部は宮澤家のどこかに紛れ込んでいて未だ残っていると思われるので、宮澤賢治研究家には是非見つけ出して欲しいものだ。そうすれば曖昧になっていたり、不明のままになっていたりしているもっと多くの事柄の真相が明らかになるはずだ。

 それにしても、この事に関して宮澤賢治研究家はなぜ緘黙しているのだろうか、と疑問を抱くのは私だけなのだろうか。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
クリックすれば見られます。


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