《1 オオバショウマ》(2023年8月13日撮影)
《2 ナベナ》(2023年8月13日撮影)
《3 ママコノシリヌグイ》(2023年8月13日撮影)
《4 ヌスビトハギ》(2023年8月13日撮影)
《5 何トウバナなのかな》(2023年8月13日撮影)
《6 オオバコ》(2023年8月13日撮影)
《7 ヤマハギ》(2023年8月13日撮影)
《8 オニドコロ》(2023年8月13日撮影)
《9 》(2023年8月13日撮影)
《10 アカバナ》(2023年8月13日撮影)
《11 ミヤマイラクサ》(2023年8月13日撮影)
《12 フシグロ》(2023年8月13日撮影)
《13 》(2023年8月13日撮影)
《14 オオウバユリ》(2023年8月13日撮影)
《15 クリンソウ》(2023年8月13日撮影)
《16 ズダヤクシュ》(2023年8月13日撮影)
《17 クモキリソウかな》(2023年8月13日撮影)
《18 ウド》(2023年8月13日撮影)
《19 ネムノキ》(2023年8月13日撮影)
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例えば『校本宮澤賢治全集第十四巻』における、新発見の書簡252cの公表や「推定群⑴~⑺」の公開もまたそうだ。
昭和52年に出版された同巻は「補遺」において、
ところが、これら一連の書簡下書群の最もベースとなる書簡下書252cについて、同巻は「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と断定してはいるものの、その典拠を何ら明記していない。ここでもまた杜撰なのだ。その裏付けがあるということも、検証した結果だということもまた付言していない。従って、「内容的に高瀬あてであることが判然としているが」といくら述べられていても、「内容的に」というような漠とした表現では、読者にとっては「客観的に見て判然としていない」ことだけがせいぜい判然としているだけだ。
《2 ナベナ》(2023年8月13日撮影)
《3 ママコノシリヌグイ》(2023年8月13日撮影)
《4 ヌスビトハギ》(2023年8月13日撮影)
《5 何トウバナなのかな》(2023年8月13日撮影)
《6 オオバコ》(2023年8月13日撮影)
《7 ヤマハギ》(2023年8月13日撮影)
《8 オニドコロ》(2023年8月13日撮影)
《9 》(2023年8月13日撮影)
《10 アカバナ》(2023年8月13日撮影)
《11 ミヤマイラクサ》(2023年8月13日撮影)
《12 フシグロ》(2023年8月13日撮影)
《13 》(2023年8月13日撮影)
《14 オオウバユリ》(2023年8月13日撮影)
《15 クリンソウ》(2023年8月13日撮影)
《16 ズダヤクシュ》(2023年8月13日撮影)
《17 クモキリソウかな》(2023年8月13日撮影)
《18 ウド》(2023年8月13日撮影)
《19 ネムノキ》(2023年8月13日撮影)
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例えば『校本宮澤賢治全集第十四巻』における、新発見の書簡252cの公表や「推定群⑴~⑺」の公開もまたそうだ。
昭和52年に出版された同巻は「補遺」において、
新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので、高瀬あてと推定し、新たに「252a」の番号を与える。〈『校本全集第十四巻』28p〉
と述べて、「新発見」の賢治書簡下書252c等を公表した。そして、 本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが、〈同34p〉
と断定し、この「断定」を基にして、従前からその存在が知られていた宛名不明の書簡下書と合わせて約23通を「昭和4年と推定される〔日付不明 高瀬露あて〕書簡下書」として一括りにして公表したのだ。ところが、これら一連の書簡下書群の最もベースとなる書簡下書252cについて、同巻は「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と断定してはいるものの、その典拠を何ら明記していない。ここでもまた杜撰なのだ。その裏付けがあるということも、検証した結果だということもまた付言していない。従って、「内容的に高瀬あてであることが判然としているが」といくら述べられていても、「内容的に」というような漠とした表現では、読者にとっては「客観的に見て判然としていない」ことだけがせいぜい判然としているだけだ。
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