常識について思うこと

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五次元世界へのヒント

2010年06月25日 | 異次元

三次元よりも高い次元の世界はあるのだろうと思います。既に、このブログのなかでは、四次元世界の考え方について、ひとつのあり様を述べてきています(「確からしい四次元の存在」等参照)。それは、科学の世界における「多世界解釈」に表れていたり(「多世界解釈の不思議」参照)、ブラックホールの謎にも繋がるものがあるでしょう(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照)。このあたりについては、いずれ明らかになってくるだろうと思います。

ところで、仮に四次元の世界があるとすると、そこには無数の三次元世界が存在することになります。分かりにくければ、我々が視認している三次元世界のなかに、無数の「平面」という二次元世界が存在することを思い直すとよいかもしれません。四次元世界には、歪んだもの、重なり合っているもの、綺麗な状態のもの、小さいもの、大きいもの・・・実に様々な状態のものがあることでしょう。この三次元世界は、宇宙と言い換えてもよいかもしれません。

そして、そうした無数の宇宙には、非常に似通ったものもあり、「自分」という存在も、それらに散らばっているかもしれないということです。それは例えば、今、あなたの目の前に、「緑茶」のペットボトルがあるとして、他のことは全く同じながら、目の前にあるペットボトルだけが「烏龍茶」になっている宇宙も存在するかもしれないという具合です。

ただし、私なりにこうした四次元世界の考え方や仕組みについて、多分、そうなのだろうと思いつつ、その散らばっている無数の宇宙に、別の「自分」は存在しないと思っています。それはつまり、この四次元世界のなかで、私という存在があるのは、唯一、この宇宙、この三次元世界だけであるという感覚です。

以下は、「揺らめく現実世界」からの引用です。

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例えば「決死の覚悟」というのも、なかなか面白いものです。このブログでも、繰り返して述べている通り、本当に大切なものを拾いたければ、それを捨てる勇気を持つことも大切です(「欲するものへの心持ち」参照)。つまり命を拾いたければ、「決死の覚悟」が必要なわけですが、それは言い換えると、自分が死ぬという「死の妄想」でもあります。「死の妄想」は、自分が死ぬというひとつの可能性を強力にイメージすることであり、これは自分が死ぬ「別宇宙の形成」にも繋がると考えることができます。しかし、実際にその別宇宙が形成されたとしても、その別宇宙においては、自分が死んでしまうため、結果として、そうした別宇宙に存在する自分はいなくなり、それとは引き換えに、「死の妄想」をしたこの宇宙における自分が強く生きることに繋がると言えるわけです。このときの「別宇宙に存在する自分がいなくなる」ということは、別の言い方をすれば、雑念や迷いを滅することだと言えるでしょう。

逆に、別宇宙にいる自分の存在を許しているということは、迷ったり、後悔したりする状態にあるということであり、他の可能性を引きずっていることだろうと考えられます。このうち、過去における他の可能性を引きずるということが、後悔するということでしょう。だからこそ、強く生きたければ、過去を受け止め、後悔の念を消し去ることが肝要なのです。なぜならば、そうすることで別宇宙に存在する自分を打ち消し、この宇宙における自分の存在を高めることができると思われるからです(「時間との付き合い方」参照)。
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一瞬を無駄にしない覚悟と生き方を貫いていくと、この世界には一切の「IF」がないことに気付くことでしょう(「「IF」のない世界と運命」)。そして、その感覚が即ち、他の宇宙には、他の「自分」が一切存在しないことに気付くことでもあるわけです。

ただし、これだけでは問題が出てきます。なぜなら、そうなると他人が考える「自分」の存在を説明できないからです。

つまり、ある他の誰か(ここではAさんとします)が「自分」のことについて、「あの人がこうしてくれたら・・・」、「あの人がこう言ってくれたら・・・」、「あの人がこうしてしまったら・・・」等々、迷っていたり、思いを巡らせたりしているような場合、その無数に散らばった宇宙のなかには、いろいろなケースのAさんが存在することになります。そして、そのいろいろなケースのAさん毎に、「自分」の意思とは無関係な「自分」が存在してしまうことになるわけです。いくら「他の宇宙に自分はいない」と言ったところで、そこまでを否定することはできません。

つまり、ある四次元世界のなかで、他の宇宙にある「自分」の存在を否定しきったとしても、そのさらにその外側には、やはり別の宇宙があって、他の「自分」が存在してしまうかもしれないということです。こうしたことが起こるのは、「自分」が捉えている四次元世界の外側に、さらに別の四次元世界があるからと考えてもよいでしょう。それはつまり、無数の四次元世界が散らばる、五次元の世界があるということかもしれません。

こう考えると、結局のところ、冒頭で触れた四次元世界というのは、各個人が持っている精神世界ということになるような気がします。ここでは、「各個人」というところがポイントです。人間一人一人は、必ず精神を持っており、様々な想像、妄想、思いを巡らせることができ、それが四次元世界の形成に大きく関わっているということです。

しかし、こうした各個人の精神世界は、まったく切り離されているわけではありません。例えば、集合的無意識というような言葉で語られるように、それらはきっと、交わり合ったり、干渉し合ったりすることもあるでしょう。そうした全体の精神世界をつかさどる世界が、五次元世界にあたるような気がするのです。

蛇足ですが、昔、私の上司だった方が、「俺は俺の宇宙を持つ。お前はお前の宇宙を持て」とおっしゃっていました。その当時、私なりには、冒頭にあるような四次元世界をイメージしつつ、自分自身の「三次元世界としての宇宙」を構築していこうと考えていました。

しかし、ここで書いたように、四次元世界自体が、各個人の精神によって形成されるものだとしたら、「お前はお前の宇宙を持て」という言葉は、もっと広く、自分だけの「四次元世界としての宇宙」を持てという言葉として解するべきなのでしょう。「自分の宇宙」という言葉の意味を広く広く捉え、五次元世界までをも視野に入れた上で、高次元の視点から、例えば、「天上天下唯我独尊」という言葉を噛み締めてみると、また違ったことが見えてくるように思います。

宇宙の謎、高次元世界の姿については、まだまだ分からないことだらけです。ここに記しているのは、あくまでも仮説でしかありません。ただそれでも、これからの謎解きをしていく上で、このあたりに重要なヒントが隠されているような気がします。

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