四次元戦争などと言うと、いろいろな想像が働くかもしれません。人によっては、SF映画のひとコマを想起されることでしょう。私個人としては、もし他の誰かがこんな言葉を使ったら、ドラえもんの映画を思い浮かべるような気がします。
それはさておき、そもそも、ここで言うところの四次元とは、一体何かということについて、簡単に述べておきたいと思います。
当然のことながら、通常、私たちが視認しているのは三次元空間であり、それを超えるとされる空間や事象については、なかなか信じ難いものがあります。しかし、最先端の科学において、四次元以上の世界が存在することは、当たり前のように語られるようになりましたし、真剣に四次元世界の問題について、きちんと向き合う時代に入りつつあるのではないかとも思います。
ある方と科学に関する議論をしているとき、「今の科学は、三次元の現象を見事に説明している」という言に触れたことがあります。そうだとするならば、それはそれで良いことです。そして、少なくとも私は、四次元世界の存在を受け入れることが、そうした三次元の法則を否定することには繋がらないと考えています。
少し次元を下げた例で説明すると、二次元の平面空間についての法則があるとして、それは三次元世界から見たときにも、立派に通用する法則であることは間違いありません。その二次元空間が、普遍的な二元空間として、他世界とも一切関わらぬまま存在する限りにおいて、その二次元世界を説明する法則は、そこでの現象を見事に説明し続けるでしょう。
ただし、二次元の平面空間を「折りたたむ」、あるいは「他の平面(二次元空間)と重ねる」といった、三次元的な処理をしてしまうことで、状況は変わります。平面と平面が重なり合うことで、それまでの平面の概念が変わり、従来の二次元法則だけでは説明しきれない現象が生じます。例えば、同一平面上にある2つの点の距離が変わったり、同じ平面に存在しないはずの点同士が交わったりするということが起こるということです。こうした現象を説明するには、平面を折りたたんだり、他の平面同士を重ねるという三次元的な概念を含んだ法則が必要になるのであり、それはそれまで二次元世界を説明していた法則を補足するかたちで、生み出されることになります。
そうした意味で、三次元の世界を説明する法則は、それはそれとして意味があります。ただし、四次元以上の世界が存在するという場合、その三次元世界は、唯一の世界にはなりえません。三次元世界の外側には、別の三次元世界があると考えることができるからです。四次元以上の世界を想定するときには、そうした他の三次元世界との関係性を説明するためにも、四次元の法則が必要になってくるのです。そしてそれは、三次元の法則を否定するものではなく、それでは説明しきれない事象について、補足説明するかたちで生み出される類のものになるのでしょう。
その肝心な四次元の法則について、私は「心」が大きく関与しているように思います。もう少し、踏み込んでいえば、人間は葛藤を重ねながらも、最終的に正しいと感じることを行うということであり、そうした心の作用が、この三次元世界の形成には大きく関与しているということです(「確からしい四次元の存在」参照)。
「自分の心に正直になる」とか、「自分の心と向き合う」という表現があったりしますが、これはこれからの時代において、一人一人の人間に対して、より一層強く求められてくることになるでしょう。そして、タイトルにある「戦争」という観点からすると、戦争の意味合いが、まったく変わってくると考えられるのです。
戦争とは、簡単に表現してしまえば、人間同士の殺し合いです。当然、これが手放しで肯定されてよいはずがなく、これまでの歴史のなかで、何故こうした悲惨な行為が繰り返されてきてしまったのかについては、いろいろな見方があろうかと思います。それでも敢えて、私なりの考えを示すならば、戦争において痛烈に残るのは、身内(拡大すれば自国)の犠牲者に対する思いです。実際には、相手側にも、同じような悲しみが生まれてしまっていることを知りながらも、目の前にある身内への悲しみが勝ってしまい、それが憎悪となって、対峙し合う人々を突き動かし、さらに悲劇を拡大させるという側面があるのではないかと思うのです。
しかし、その自分の憎悪の感情を爆発させた結果として、相手側にも同じような悲しみに暮れる人々が生まれることを、実感できてしまったとき、そこに大きな心の葛藤が生まれてくるでしょう。
文民統制という概念があります。これについては、さまざまな考えや学術的な意見もあるでしょうが、少なくとも、情報がオープンになっていれば、相当な抑止力として効果を発揮すると考えられます。過去のケースでいえば、例えばベトナム戦争における反戦運動などは、戦場で何が起きているかについて、視覚情報を含めて数多く伝えられた結果として、巻き起こった現象であり、それが文民統制を通じて、戦争抑止の力として働いたと見ることができるでしょう。
メディアが発達して以降、戦争当事者である国の政府や関係者など、一部の特定の人々が、文民統制を逆手にとって、自国民の戦意を高揚させたり、敵国民の惨状を伝えなかったりといった情報操作をすることで、自分たちの目的を達成するという試みもなされてきたと思われます。しかしそれは、そうした特定の人々によって、情報が統制されている限りにおいて有効なのであり、メディアがインターネットのようなオープンシステムに移行し、情報の流通を制御できなくなると、状況は大きく変わると考えられます。
戦争の当事者である国の国民は、戦争をするとされる相手が、普段、どのような生活をしているのかについて、視覚的な情報を含めて、簡単に知ることができるようになるのです。そしてその相手が、自分たちと何も変わらず、家族がいたり、友人がいたり、学校があったりするなかで、さまざまな喜怒哀楽を経ながら生きているだけで、そこに彼らなりの幸せがあることを実感したとき、それを知った国民は、大きな心の葛藤に陥ることになるでしょう。そうした心の葛藤とは、言い換えれば自問自答の作業です。それは他者を敵とする戦争ではなく、自分を相手にした戦争でもあります。そのように自分自身を相手取った心の戦争こそが、タイトルにある「四次元戦争」ということです。
この「四次元戦争」の結果、人々が「戦争をするべきではない」という結論に至れたとき、彼らは強く、また広く反戦を唱えることができるようになるでしょう。情報統制をして、一定の方向に持っていこうとする政府や特定の人々が、これを無視して戦争をすることは、極めて難しいはずです。インターネットのようなオープンシステムが世界的に整えられたとき、戦争のかたちは大きく変わり、それは極めて強い戦争抑止力として働く可能性があるのです。
もともとインターネットは、三次元世界(通常、私たちが視認している世界)での戦争において、敵を殲滅し、勝つための道具として生み出されました。しかし、それが次の時代において、四次元世界における戦争に大きく役立ち、結果として、三次元世界に平和をもたらすツールになるとしたら、それはとても面白いし、また非常に良いことだと思うのでした。
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