常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

溢れ出る言葉と世界

2009年07月06日 | 異次元

-言葉にしないことに意味がある-

これは大変重要なことですが、その逆も然りです。

-言葉にすることにも意味がある-

この世界は、矛盾に満ちており、それはコインの表裏のような関係にあると考えなければならないでしょう。表があるからといって、それだけを見ていては本質を見失い、また裏を知っているからといて、表を忘れてしまっては、それもコインから目を背ける行為に繋がる可能性があります。私自身に限界があることは明らかです(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)が、それでも、世界がそうした矛盾に満ちていることを知りながら、このように「言葉にする」という行為をしばらく続けていこうと思います。

ところで、こうした「言葉にする」という行為は、別の表現をすれば、三次元世界への変換であると言えると思います。つまり、何かを書いたり、言ったりするからには、それを思ったり、考えたりするわけで、それは実際に書いたり、言ったりする行為の前の時点では、本人の頭の中にあり、「無に等しい存在」になっていると言えるでしょう。その「無に等しい存在」を「言葉にする」と、それが目に見えるかたちになる、あるいは空気の振動によって耳で聞こえるかたちになるという意味で、私たちが視認できる三次元世界のものに置き換えている、つまり三次元世界への変換であると言うことができるのです。それはあるいは、「無に等しい存在」を「有の存在」にする行為と言うことができるかもしれません。

ただし、ここで目を向けるべきは、「無に等しい存在」は、けっして「無」ではなく、別次元には存在していたであろうという点です。思ったり、考えたりしていたことは、あくまでも心の中のものであり、それは三次元世界の枠組みによっては、極めて特定が難しい場所にあると言えます。しかし、それは場所の特定が難しいというだけで、その存在がないと断定することはできません。そうである以上は、その「無に等しいもの」は、三次元よりもさらに上の次元において、存在していると仮定するべきであると考えます。

これをあらためて整理して、ひとつの仮説とするならば、以下の通りとなります。

-「無に等しい存在」は、高次元における「有の存在」である-

このように考えると、「言葉にする」ということは、高次元に存在するものを、私たちが視認できる三次元世界上に表現するということになります。「言葉は溢れ出るもの」(「溢れ出る言葉たち」参照)という表現に従えば、高次元に存在していたものが、溢れ出して、より低次元である「この三次元世界」に流れ込んできたということになるかもしれません。さらにこのことについて、主語を自分に置き換えて表現しなおすと、自分が高次元に抱えていたものを、溢れ出した低次元世界で表現する行為が、まさに「言葉にする」ということになるでしょう。

少々、別の話に聞こえるかもしれませんが、私としては、こうした感覚は、創造主という存在があるとしたら、きっとその創造主という高次元の存在が、この次元の世界を創造したときと似ているような気がしてなりません。つまり、高次元に存在する創造主は、その次元だけに留まらず、低い次元に溢れ出るような「何か」を、「この三次元世界の創造」というかたちで表現したということです。これが、いわゆる創世ということになります。

最先端の科学では、宇宙の始まりについて、「無」の状態からポロッと生まれたという考え方があるようです。それは、いわゆる何もない「無」ではなく、この宇宙空間以外のところに、別のポテンシャルエネルギーが存在しており、そこからポロッと出てきたようなイメージです。ポテンシャルエネルギーが存在している世界は、私たちが視認できる三次元世界の枠組みを超えており、科学的にも明確な答えが用意できるわけではないため、その詳細については何とも言えません。ただ、ひとつの表現として、宇宙の始まりを担ったポテンシャルエネルギーが存在していた空間があるとするならば、それを「高次元世界の空間」と考えることは可能であろうと思われます。

私としては、冒頭に書いたように、「言葉にする」ことの限界を認識してはいますが、「創造主ですら、そんな感じでこの世界を作ったのかもしれない」という言い訳をしつつ、開き直って、今日もこうして「言葉にする」行為を続けるのでした。

《おまけ》
「創造主」等という言葉を使った瞬間、何か特定の宗教を連想する方々がいらっしゃいますが、それは旧来型の宗教の枠組みに囚われた考え方という言い方ができるような気がします。実際、「創造主」という言葉以外で、何か別の言い方があると便利なのですが、パラダイムシフト前夜というのは、こうした概念を誤解なく表現するということが、非常に難しいということなのでしょう。繰り返しですが、私自身は、「創造主」という別の何かが存在するというよりも、本来、人間一人一人が、創造主の化身としての役割を果たすことができると考えています(「創造主の正体」参照)。敢えて宗教風に表現するなら「自分教」、自分自身が神様、一人一人が神様ということでしょう(「「自分教」の薦め」参照)。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 音楽の役割分担と調和 | トップ | 「IF」のない世界と運命 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

異次元」カテゴリの最新記事