常識について思うこと

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「IF」のない世界と運命

2009年07月07日 | 人生

「歴史にIFはない」と言ったりしますが、これはまったくその通りだと思います。そして、それは今の自分の人生にも深く関わっていると考えるべきでしょう。あまりに当然のことなので、あらためて書く必要もないかもしれませんが、歴史は現在に繋がっているものです。

自分が生まれてから、現在に至るまで、長い歴史から見れば短い間、様々な出来事があって、それらによって、「現在の自分」があることは事実でしょう。しかし、それはけっして、自分が生まれて以降の自分や他人の言動だけで、決定付けられているわけではありません。既に亡くなっているような歴史を作り上げてきた人物、ひとりひとりの言動によっても、それは成り立っていると考えなければならないと思います(もっと遡って言えば、地球誕生や宇宙創世までをも含めることができますが、ひとまず本記事では、人類史上程度のイメージにしておきます)。

このときの「歴史を作り上げてきた人物」というのには、歴史上の有名人は言うに及ばず、全くの無名な無数の人々も含まれます。このことは、極めて多くの人々の言動、無数の要因を加味しなければならない複雑系のカオスのような世界においては、至極、当然のことであると言えるでしょう。そしてこの場合、たとえ「IFはある」と考えたとしても、その影響によって導き出される「現在」の結果までをも計算することは、不可能であると言えます(「予測不能なカオス社会」参照)。勝手な妄想レベルは自由ですし、その「IF」により、直接的に影響が及ぼされる簡単な結果くらいを想像することはできるかもしれませんが、長い歴史を経た後の「現在」に至るまでの姿までをも決め付けることができないことは、極めて当たり前の論理だろうと思います。

そうした意味で、今日を生きる私たちにできることは、ただあるがままの「現在」を受け入れるということであり、そのことが「歴史にIFはない」という言葉によって、表現されているのではないかと思うのです。

ところで、私にとって、「IFはない」のは何も歴史だけに限りません。未来についても「IFはない」と言えるのではないかと思います。

普通に考えれば、未来では何が起こるか分からないので、その分だけ「IFはある」と言えるでしょう。そして、そのことによって、「未来は分からない」と言うこともできると思います。しかし、私は、必ずしもそうではない側面もあるのではないかと思うのです。

それは例えば、不確定要素に満ちた世界において、何かしら自分が生きる上での大原則を決めてしまうことで、何が起ころうとも、結論をひとつの方向に向かわせることはできるといった考え方です。相手の出方や環境の変化といった、目に見えない無数の可能性を想定して、いちいち対応策を講じておくようなイメージではありません。目指すべき方向性、自分の生き方を貫くことで、結果として見えている結論、「分かっている未来」に導いていくようなイメージです。それは、別の言葉で「ビジョン」と呼んだりしますが、いずれにせよ、「分かっている未来」に向かっている以上、その点においては、まったく「IFはない」状態なのであり、既に結論が決まっているとも言うこともできるということです(「カオス世界の読み取り方」参照)。

こうした整理の中で、私は過去においてはもちろん、未来においても「IFはない」と思っています。そして、このように考えると、過去から現在、さらに未来に繋がる時間軸のなかに、「IF」のない一本の線が見えてきます。これを別の表現で言えば、既に「世界が決められている」という意味で、「運命」という言葉になります。つまり、この世界には「IF」がなく、既に運命付けられているということになるのです。こうした言葉については、得体の知れない宗教や占いの類でよく使われるため、やもすると「いかがわしいもの」といった捉え方をしがちになりますし、私自身、その気持ちが分からないでもありません。

しかし、上記のような整理をしていく中で、私自身、過去にも未来にも「IFはない」ということから導き出される、「運命」という概念を否定することはできませんし、あらゆることが「運命」であると思うこと自体は、それほど悪いことではないと考えるのです。

随分と昔の話になりますが、「ターミネーター2」という映画で、サラが核戦争を起こす人類の未来に対して、机に「No Fate(運命でない)」と刻み込むシーンがありました。私は、あらゆる事象について、「運命」とも言うべき必然を感じますが、このように、もし仮に「運命でない」と思いたいことがあるのならば、それに向かって努力することが重要なのだろうと思います。「ターミネーター2」のテーマは、そうした「運命」を変えていくことだったのでしょう。

-運命でない-
そう思える現実や未来があるのであれば、それに向かって、切り開いて進んでいくのが、人類が生きるべき道でしょう。

-運命である-
世界のあらゆる事象について、そう思えるようになったとしたら、その人はその世界の主になったということができるでしょう。

どちらでも構いません。どちらにしても、人間が生きていく以上は、こうしたことと向き合っていくことになるのだろうと思うのです。

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