常識について思うこと

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惨劇を無駄にしないために

2008年06月09日 | 社会

秋葉原で大変な惨劇が起こりました。通り魔事件としては、最悪の犠牲者数でもあり、被害者ご遺族や関係の方々の心境を考えると、こうした事件が二度と起きないようにと心から願うばかりです。

ところで、現実問題として、こうした事件が再発しないようにするということは、とても難しいことでもあります。警備を固めるといった「犯罪を抑え込む」手法もありますが、こうした手法は、犯罪とは無縁の「善良な人々」に対しても、監視の目やチェックをかけていくということにもなり、息苦しく住み難い社会を作っていくことにも繋がります。もちろん、それで問題を解決できるのであれば、大いに進めていくべきでしょうし、ある程度の効果が期待できることも事実でしょう。しかし、そうした手法ばかりに頼って、問題を根絶するということは、非常に難しいことだと思うのです。

また一方で、こうした惨劇を起こす人々は、凡そ「普段は温厚」、「おとなしくて無口」な人だったりします。つまり、普段は穏やかで、とても事件を起こすように見えないような人々が、考えられないような残忍な事件を起こすようになってきているのです。規制や監視の目を厳しくすればするほど、こうした問題の原因となる心の闇は、さらに奥底へと沈み込みながら、根を張っていくでしょう。そのように、安易な力技での対策は、ますますこうした傾向を強めていくのではないかという点で注意が必要です。

少々、観点を変えます。

一昔前、校内暴力や暴走族が社会的な問題となった時代がありました。社会を取り仕切っている大人と、社会に適応できなかったり、社会が間違っていると思ったりしている子供たちとの対決は、かなり表立って行われていたように思います。子供たちは、社会を受け入れることができず、その不平不満を堂々と大人たちにぶつけていくし、大人たちもそれに対して、真正面から向き合っていたように思うのです。昔の問題も、今の問題も軽んじるわけではなく、少なくとも当時の傾向として「悪ガキ」や「ツッパリ」が、多くの問題を起こしていたという意味で、それらは見えやすく、またそこを抑え込むかたちで問題を解決するという手法が十分に機能していたのではないかと思います。社会を取り仕切っている大人たちには力があるため、それを続けていくことで、社会全体の力で、子供たちのそうした抵抗を抑え込むことはできました。そして、そうすることで社会のルールは守られつつ、大人たちの力で豊かな社会を実現できました。

時代が進むにつれて、代わって出てきたのが、抑え込まれた子供たちのフラストレーションが、社会の目が及ばないところで爆発したり、隠れていたエネルギーが突然爆発したりといった現象ではないかと思います。家庭内暴力や子供たちの「キレる」現象は、傍目からはおとなしくしている子供たちが、その内に抱える負の感情やエネルギーを社会に対して、正面からぶつけることができず、社会の目が届かないところでぶつけたり、隠していたフラストレーションが、ある日突然爆発したりというかたちで表れた結果だと考えることができると思うのです。

私は、こうした現象は、社会に対する絶望感から生み出されている部分があるのではないかと考えます。言い換えると、社会の仕組みが強大すぎて、何をやっても無駄であるという諦めの風潮が、大きな原因ではないかということです。

つまり、「悪ガキ」や「ツッパリ」が、問題児となっていた時代では、「暴れれば何とかなる」、「何か行動すれば世の中が変わる」という期待を持つことができたのではないかと思うのです。実際、「ツッパリ」がカッコよく見えたのには、社会に反抗しているという姿勢やスタイルが、当時の若者から支持されたという側面があったでしょう。しかし、「悪ガキ」や「ツッパリ」が、社会から抑え込まれると同時に、経済や政治を含む、社会全体の仕組みがますます硬直化、または強大化していくにつれ、いつの間にか「何をやっても無駄」、「所詮社会とはそんなもの」という諦め感を生んでしまったのではないかと思います。ひとつの傾向として、例えば今日において、一昔前の暴走族のようなことをやる子供たちは、「(無駄なことをしている)カッコ悪い人々」に見られるような風潮があるように思えてなりません。こうした傾向が、どれだけ進んでいるかはともかく、それらは社会に対しての絶望感から生まれているという側面があるように思うわけです。

ここで見落としてならないことは、社会に絶望している人々が、もはや過激な言葉や行動で、自らの意思を表現することすら諦めているということです。それは、傍目からは「普段は温厚」だったり、「おとなしくて無口」な人々と見られることが大きな落とし穴になります。

話を通り魔事件に戻します。

こうした悲惨な事件が起こるたびに、「普段おとなしい人間がどうして?」などという議論がなされたりしますが、それに答えを出せない方々は、表面上の「おとなしい」という部分に目を奪われているような気がします。その人の内側で、膨れ上がっていった負の感情やエネルギーがあったことが見落とされているように思えてならないのです。そして、それは硬直化した社会全体の仕組みが、多くの人々に諦められてしまうほど、絶望的な状況にあって、その出口を誰もきちんと見出せていないことに、大きな原因があるように思うのです。

「おとなしくて無口」な人々は、何も考えていないわけではなく、ものすごい感情やエネルギーを内に秘めている人々です。それは、時に惨劇を引き起こしてしまうほど、恐ろしいかたちで負の効果を生み出します。しかし一方で、人間のそうした力は、常に負の効果を生み出すわけではなく、きちんとした方向性を持たせれば、正の効果を生み出すこともできるだろうという点が、極めて重要なことです。

今回の悲劇のなかで、事件を引き起こした犯人に対して、同情の余地はありません。犯した罪については、残った全ての人生をかけて償うべきでしょう。しかし、それだけでは問題の本質が解決されることになりません。上記のような硬直化し、また強大化してしまった社会の仕組みを残したままでは、問題の根本的な解決はされ得ず、またいずれ同じような悲劇が繰り返されると考えた方がいいかもしれないのです。そして、もしそうだとするならば、現在を生きている私たちが考えるべきことは、今後の明るい未来に向けて、いかに社会を変えていくことかということであり、夢や希望を持てる社会を実現するかということではないかと思います。

今回の事件で、犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈りするとともに、その犠牲から、これからを生きる私たちが学ぶべきこと、私たちが為すべきことを真剣に考えていきたいと思うのでした。

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