子どもの発言の後に「○さんの言ったことは・・・。」「わかる?こういうことだよ。」などと説明したり、補足をしたりする姿はよく見かける。
分かってもらいたいという気持ちが強いとどうしても子どもの前に立ち、説明をしてしまう。いわゆる「オウム返し」である。これは、教師が子どもの発言をうまく利用して、内容を説明しているので、子どもを生かしているように見えるが実は子どもを殺していることになる。
「オウム返し」はなぜ悪いのか。
1 子どもの発言を横取りしたことになる。
生かしたつもりでも、子どもの発言よりも教師の説明の方が丁寧でよくわかることが多いため、聞き手の子どもたちは、子どもの発言で理解したというよりも教師の説明で理解したことになる。これでは、話し手の子どもは生かされない。
2 理解を妨げる原因の一つとなっている。
話し手の発言した内容を聞き手が理解したかどうかは、わかったとうなずくだけではわからない。わかった振りをしているだけかもしれないし、自分の都合のよいところだけをわかったと言っているのかもしれない。
話し手の内容をきちんと話さないと、理解した内容はわからない。
例えば、「○さんの言うことはこういう事ですか?」と質問したり、「私は○さんと同じでこう思います。」と話したりしたときに初めて理解しているということがわかる。
また、「○さんのここはわかるが、ここはわからないので教えてください。」などという質問をし、自分で理解を深めようとする子どもにとっては教師の説明は邪魔である。(子どもの理解の道筋は同じではない。個々によって異なっている。)
聞き手が話の内容を理解しようと頭をフル回転している最中であるからここは説明をせず、子どもの理解を妨げないように反応を楽しむことが大事である。
3 子どもの活躍の場を奪うことになる。
一人の発言は、話し手の考えを理解し、自分の立場をはっきりさせるために質問したり、意見の交流をしたりする大切なきっかけになる。子ども同士で発言し合うことで、自分なりの立場を明確にすることができる。しかし、教師が説明すれば、子ども同士が発言する機会が奪われ、常に受け身となる。
4 表現力を伸ばす機会を奪うことになる。
一度でうまく説明することは我々大人でも難しい。まして、子どもである。発表は、仲間から質問を受け、補足したり、分かってもらえずに説明の仕方を工夫したりする機会にもなる。教師が説明することは、聞き手を意識しながら話し方をうまくするせっかくの機会を教師が奪っていることになる。
説明する教師の顔には、自信が満ちあふれている。ここにおごりはないだろうか。
・子どもの説明よりも私の方がうまい。
・私が説明すれば、効率がよい。
・私の説明ならば、わかるはずだ。
もし、そうだとしたら「話し手はどこへ行ってしまったのだろう。」私には、話し手を主役にできない教師にしか見えない。
オウム返しをしない努力は、かなりきつい。それは、わからせたいと思う気持ちと子どもを生かしたいと思う気持ちの狭間で生きなければならないからだ。
また、
・先生はちっとも教えてくれない。
・友だちの説明では分かりにくいのにどうして助けてくれないの?
などと、教師を頼り、助けを求める子どもたちには不親切に映るからだ。教師に教えてもらうことになれている子どもには、この時間が無駄のようにも感じる。
オウム返しは、傍にいて手を引いていることになり、自分の力で歩むことにはならない。
人生を歩むとき、いつも師となって導いてくれる人がいるとは限らない。自ら考え、判断し、実行しなければならない。
学習はまさにそれだ。自らの力で勝ち取るたくましさが必要である。
我々教師は、次代を担う子どもたちを日々育てている。日々こつこつと積み上げていく努力なしには子どもは育たない。
さて、毎日どれだけの子どもを生かしているのだろう。殺していることはないだろうか。
分かってもらいたいという気持ちが強いとどうしても子どもの前に立ち、説明をしてしまう。いわゆる「オウム返し」である。これは、教師が子どもの発言をうまく利用して、内容を説明しているので、子どもを生かしているように見えるが実は子どもを殺していることになる。
「オウム返し」はなぜ悪いのか。
1 子どもの発言を横取りしたことになる。
生かしたつもりでも、子どもの発言よりも教師の説明の方が丁寧でよくわかることが多いため、聞き手の子どもたちは、子どもの発言で理解したというよりも教師の説明で理解したことになる。これでは、話し手の子どもは生かされない。
2 理解を妨げる原因の一つとなっている。
話し手の発言した内容を聞き手が理解したかどうかは、わかったとうなずくだけではわからない。わかった振りをしているだけかもしれないし、自分の都合のよいところだけをわかったと言っているのかもしれない。
話し手の内容をきちんと話さないと、理解した内容はわからない。
例えば、「○さんの言うことはこういう事ですか?」と質問したり、「私は○さんと同じでこう思います。」と話したりしたときに初めて理解しているということがわかる。
また、「○さんのここはわかるが、ここはわからないので教えてください。」などという質問をし、自分で理解を深めようとする子どもにとっては教師の説明は邪魔である。(子どもの理解の道筋は同じではない。個々によって異なっている。)
聞き手が話の内容を理解しようと頭をフル回転している最中であるからここは説明をせず、子どもの理解を妨げないように反応を楽しむことが大事である。
3 子どもの活躍の場を奪うことになる。
一人の発言は、話し手の考えを理解し、自分の立場をはっきりさせるために質問したり、意見の交流をしたりする大切なきっかけになる。子ども同士で発言し合うことで、自分なりの立場を明確にすることができる。しかし、教師が説明すれば、子ども同士が発言する機会が奪われ、常に受け身となる。
4 表現力を伸ばす機会を奪うことになる。
一度でうまく説明することは我々大人でも難しい。まして、子どもである。発表は、仲間から質問を受け、補足したり、分かってもらえずに説明の仕方を工夫したりする機会にもなる。教師が説明することは、聞き手を意識しながら話し方をうまくするせっかくの機会を教師が奪っていることになる。
説明する教師の顔には、自信が満ちあふれている。ここにおごりはないだろうか。
・子どもの説明よりも私の方がうまい。
・私が説明すれば、効率がよい。
・私の説明ならば、わかるはずだ。
もし、そうだとしたら「話し手はどこへ行ってしまったのだろう。」私には、話し手を主役にできない教師にしか見えない。
オウム返しをしない努力は、かなりきつい。それは、わからせたいと思う気持ちと子どもを生かしたいと思う気持ちの狭間で生きなければならないからだ。
また、
・先生はちっとも教えてくれない。
・友だちの説明では分かりにくいのにどうして助けてくれないの?
などと、教師を頼り、助けを求める子どもたちには不親切に映るからだ。教師に教えてもらうことになれている子どもには、この時間が無駄のようにも感じる。
オウム返しは、傍にいて手を引いていることになり、自分の力で歩むことにはならない。
人生を歩むとき、いつも師となって導いてくれる人がいるとは限らない。自ら考え、判断し、実行しなければならない。
学習はまさにそれだ。自らの力で勝ち取るたくましさが必要である。
我々教師は、次代を担う子どもたちを日々育てている。日々こつこつと積み上げていく努力なしには子どもは育たない。
さて、毎日どれだけの子どもを生かしているのだろう。殺していることはないだろうか。