ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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問題に出会ったら

2010-10-27 | 育児
 幸せを感じる時の感覚を常に持ち続けたいと思います。しかし、問題が起きるとすぐにその感覚が消えてしまいます。
 消えていくのは、問題を困った事だと考えているからだと最近気づくようになりました。
 もし、問題が新しい発見の機会だと考えれば、これは楽しみの一つになります。楽しみならば、わくわくし、決して幸せな時の感覚が薄れることはありません。
 困った事にしているのは、自分自身なのです。
 でも、問題が起きたその時に学びの機会だとはなかなか言い難いところです。どんな意味付けができるとわくわく感が薄れないで問題解決に当たることができるのでしょう。
これは、人それぞれ異なると思います。取り組みの意欲を高めるためのきっかけは様々です。
・いい出会いを作る機会なのかもしれない。
・関係を深める機会になるかもしれない。
・物事の本質を見抜く機会になるかもしれない。
・技術を磨く機会になるかもしれない。
・状況を整える機会になるかもしれない。
・時間を有効に利用できる機会になるかもしれない。
・お金を稼ぐ機会になるかもしれない。
・力を試す機会になるかもしれない。
 このかもしれないと思うことで、取り組む意欲につなげることができます。下心があるからよくないと思われるかもしれませんが、大事なことは、わくわく感を持続することです。
 取り組むきっかけはどうあれ、取り組んでいるうちにいろいろなものが見えてきます。それが現実です。
 その現実を受け入れるための意味づけがあれば、意欲をもって取り組めるのが人間です。
 子どもを育てることも同じです。問題が発生したときに何を考えているのでしょう。
 困ったことにすると、問題はなかなか解決しません。困ったことが次から次へと発生します。
 何とかなると思えば、何とかなるものです。悲観的にならず、楽観的になっても、事は進みます。
 問題の中に自分を放り込む前に、問題の外に自分を起き、構えを作ってから飛び込むことが冷静に判断できる自分を作るように思います。
 水に溺れるのは急激な変化に対応出来ず、動揺するためです。
急激な変化の真っ直中にいる時、水の中にいる自分を冷静に見る自分があれば、溺れないための手だてを打つことができます。
 問題解決も同じです。子どもの目の前の問題にすぐに飛び込むことなく、冷静に問題を見つめ、問題の本質を見極めてから飛び込むようになればきっと問題解決も早くなると思います。 
 一歩進めば、問題にぶつかる私たちです。問題に放り込む前の自分を作るためのチャンスが一杯あると考えることができます。繰り返しながら、次第に対応がうまくなる自分を目指したいと思います。

先頭を歩くだけが仕事ではない

2010-10-26 | 育児
 子どもの活動には、安全を配慮することは当たり前です。
しかし、その配慮がどの程度できるのかは、教師によってことなります。
 例えば、遠足で子どもを引率する場合
道路を歩く時、危険の度合いを考えながら、引率をしているかどうかでその教師の配慮が見えてきます。
 目的地に向かって、常に先頭を歩く教師がいますが、安全への配慮を考えると疑問を感じます。
 いくら長い道のりであっても、安全を確認しながら、少しずつ前に進むという感覚が大事になります。
 危険度の高い場所を見つけ、必ず安全を確認するという姿勢で臨みます。低学年であれば、あるほど、その配慮は多くなります。
 危険の予知ができるように現場での指導をしながらの引率になります。
 交差点が一番危険度が高いことは誰もが知っています。ここでは、子ども任せにしないで、必ず教師の見届けをします。
 つまり、教師が一旦止まって、全員を安全に渡してから、先頭まで急いで進みます。人数が多ければ、交差点で引き継ぎをし、先頭まで進みます。
 これが、常に安全を確保しながら、少しずつ前に進むという姿になります。
 ですから、教師の歩くペースは、一定にはなりません。歩いたり、止まったり、走ったりと常に変化します。これも安全を確保するためです。
 いつも子どもの先頭に立たねばならないと考えるのは、思い込みです。子どもに任せても安全に前に進むことができます。
 このとき、大切になるのは、どこまで子どもに任せるかということになります。よく利用するのは、交差点や電柱です。「あの交差点まで進んでね。」「次の電柱まで進んでね。」などと危険を感じない所まで子どものペースで進めるようにします。この方が子どもは自分のペースで歩くので、楽に前に進めます。
 また、集団全体については、出来る限り固まって動くことを大事にします。この方が危険な場所に関わる時間が短くて済むからです。
 前を歩いている子から離れないようにつめて歩くことを子どもたちに求めます。話に夢中になっているとつい前を歩く子から離れてしまうことがあるのが、子どもたちです。つめて歩くことも能力です。先頭を子どもに任せることで、指導が可能になります。前に詰めて歩く子どもを褒めたり、間隔が広がった時に指導したりすることができます。
 子どもを引率する時に、安全への配慮ができる教師が年々減っているように思います。先輩教師が伝えていないために気づいていないのかもしれません。
 でも、じっくり考えれば、当然だとわかることではないでしょうか。
 自分一人でも全員を安全に引率する能力を身につけていないと、すぐに補助の支援者を要求します。一人でできなければ、活動の制約も受けます。
 もし、万が一の時に一人では対応できないから必要だという前に、一人で安全に引率する能力を身につけることに全力を尽くすことが先のように思います。
 教師はわかっているから先頭を歩きたがるように思います。これは引率だけではありません。授業も同じです。先頭を歩きたがっている自分があるとつまずく子どもの気持ちが見えません。先頭を子どもに譲る勇気も時には必要です。

幸せのエネルギー

2010-10-25 | 育児
 私たちが何か事をする時、それを成し遂げる意志の強さが必要となります。すぐに達成できるようなものであれば、強制的にでもさせることができますが、やや困難な事となるとそれは無理です。
 意志が弱ければ、やり続けることができず、途中で挫折することが多くなります。
 する事に対する意志の強さは、一人一人異なります。
 親が子どもに話す言葉に、「勉強しなさい。」「部屋をきれいにしなさい。」「自分の事は自分でしなさい。」「人には優しくしなさい。」「けんかをしてはいけません。」などがあります。これは、いつ終わるともなく投げかける言葉かけではないでしょうか。
 させなければならないと思う根底には、何があるのでしょう。
 これらは、端的な言葉で表現することができます。
 そして、それは、嬉しさ、愛しさ、苦しみ、楽しさ、気持ちよさ、恥ずかしさ、怒り、恐れ、憎しみ、ねたみ、焦り、優越感、不安感、劣等感、満足感、充実感、空虚感など今感じている感情になってきます。
 つまり、わたしたちの意志の裏にどんな感情があるとやり続けることができるかということになってきます。
 これらの感情は、理屈(意志)ではありません。無意識に働く感情がそれをすべきことに立ち向かわせているということになります。
 でも、感情をうまく説明することはできません。体験を通して感じるしかありません。
 それでも、言葉で説明しようとするのが私たち大人です。する事に意味をもたせ、ねうちがあることをしていると思うことで事をする子どものする事への意志を強くさせようとします。
 充実感や満足感がもてるまで、続けることになります。しかし、この裏には、今は、空虚感があることになります。 
 「~ができない」からできるようにしたいと考えるのは、正にこれです。
できないという前提があるから、今取り組むことになります。
 これでは、いつまで立っても終わりません。反対にできて当たり前だと感じていれば、求めることはありません。
 もし、「~ができる」からできて当たり前という考え方であれば、ちょっと違ってくるということです。
 できることが前提としてあるので、できないことに不安はありません。きっとできるようになると思えるので、心配はしません。
 どんな思い方をするかは、今の心の状態できまります。
 プラス思考がよいと言われますが、これも理屈です。実感してプラス思考をしている人と理屈でプラス思考をしている人は違うということになります。
 プラス思考の人は、今の感情がよい状態になっているので、常に快として物事を考えます。しかし、プラス思考をしなければならないと思っている人の今はよい状態ではありません。(空虚)
 私たちの今の状態が未来を創り出すのです。
 幸せを感じながら生きている人は、幸せな人生です。不幸を感じながら生きている人はいつまでも不幸を感じながら生きていくことになります。
 このように視点を変えるだけで、見えるものが違ってきます。ということは誰もが幸せな人生を歩むことができるということになります。
 繰り返しすることで実感してプラス思考する生き方ができるようになります。
 今の幸せを探して、それを土台にして生きてみませんか?誰でも、必ずプラス思考で物事を見ることができるようになります。
 子どもに幸せな人生をプレゼントできるのは、今幸せを感じているあなたしかないのです。

どんな教師になりたいか

2010-10-22 | 育児
 教師を目指す教育実習生の方にどんな教師になりたいかを尋ねてみました。いろいろな答え方があります。
 「子どもたちには、お姉さんのように映ってしまうので、褒めることはできても、叱ることはできません。だから、叱ることができる教師になりたい。」
 「子どもが話したことを生かしながら、上手に授業を進めたいので、私は、子どもの考えにそった授業のできる先生になりたい。」
などと答えが返ってきました。 
 この2人の共通点は、どちらも教師の能力をさしています。これも大切な教師の一面ではありますが、全体ではありません。
 そこで、「それができる先生というのは、どんな先生なのでしょう。」と問いかけをしました。
 すぐには答えが見つかりません。じっくり考えた上で、「子どもを温かく包む先生」「優しくも厳しい先生」「愛情溢れる先生」などの答えが返ってきました。
 これは、ある価値観をもった教師像になります。
 「こんな価値観をもっているから、こんな能力が発揮されることになるんだね。」と話しました。
 能力は、その裏にある価値観に支えられて力を発揮します。ですから、どんな教師になりたいのかを明確にするということは、どんな価値観をもって子どもに対峙する教師なのかということになります。
 その価値観にあった能力、行動、そして環境作りが日々なされていきます。現実には、これがはっきりわかる先生とわかりづらい先生がいます。
 それはなぜでしょう。
 それは、価値観が一つでないからです。大切にしたい価値観は他にもあります。それらが、混在しているからわかりづらくなります。
 これをわかりやすく整理し、子どもたちに伝えていくことができる教師が、「しっかりした教師」「骨のある教師」などと言われる教師として子どもや保護者に映っていくのでしょう。
 整理するということについて、学級目標を例に考えてみます。
 学級目標を3つ程の価値観を並列にして掲げてある学級をよく見かけます。
 私たちの脳は、一度に3つを扱うことができません。当てた焦点にしか目が向きません。ですから、私は、この並列に掲げた価値観を一度に具現するのは、難しいと考えています。
 3つあれば、その教師の味を出して、1つに絞り込むことが必要だと思います。
 つまり、どれか1つを幹にし、他の2つを枝として扱うという考え方です。
 具体的な例を挙げます。
 自主性 連帯性 健康性を目標に掲げる学級があります。
これを自主性を幹にした場合は、「自ら」をキーワードにします。 
・自分から進んでなかよくなろうとしているね。(連帯性が枝)
・仲間のことを真っ先に考えられるね。(創造性が枝)
・進んで大きな声で挨拶できるね。(健康性が枝) 
 これを連帯性を幹にした場合は、「仲間」をキーワードにします。
・仲間を作りたいという気持ちがあるから進んで出来るね。(自主性が枝)
・互いに知恵を出し合う仲間は素晴らしいね。(創造性が枝)
・一緒にいるとやる気がわいてくるね。(健康性が枝)
 この例のように何を幹にするかがはっきりわかるように子どもに伝えることで「うちの先生は、よく~という。」というようになります。
 学習は繰り返しによって身に付くので、常に意識するものは、印象として強く子どもの心に残るからです。
 つまり、様々な価値観を自分が一番大事にしたい価値観を幹にして、意図的に言葉を選びながら、結びつけていくことで、伝えたい価値観が子どもたちに浸透していくということになります。
 この方が伝える教師側にとっても伝えやすいと思います。
 意識することで、言葉は変わります。言葉が変われば、子どもの反応も変わります。
 育てたい価値観は明確になっているでしょうか。どんな教師になりたいのかという問いは、自分自身の生き方を見つめ直す機会になります。

本質が見えない

2010-10-21 | 育児
 物事の本質が見えてくると、すべきことに無駄がすくなくなります。その本質が見えないために私たちは、試行錯誤するのだと思います。
 今、目の前に抱えている問題の本質はなんだろうと探ると見えている問題の裏に影となって潜んでいる厄介な問題が見つかることがあります。
 見えている問題は、ほんの一面でしかないこと
 見えない問題の方が根深く、扱いにくいこと
 見えない問題を扱うだけでは、見える問題は解決しないこと
 関連つけて両方を一度に扱わないと問題が解決しないこと
 例えば、子どもが登校を渋るという問題があったとします。
・目に見える問題
 登校をいやがって駄々をこねる。
 部屋から出てこない。
 食事に時間がかかる。
 起きようとしない。等
・目に見えない問題
 友達関係で悩みを抱えている。
 学習についての抵抗がある。
 先生を嫌っている。
 親と離れることに不安を抱えている。
 もっと親の側にいたいと思っている。
 親を困らせようとしている。
 人間の脳は、安心・安全のためにはたらいています。問題の本質は、この安心・安全から考えるとわかりやすくなります。
 この場合、学校と家とを天秤にかけたとき、家の方が安心・安全だと考えられます。
 ところで、危険だと感じた時、私たちは、どのような対応をするでしょう。
・危険から逃げる。
・危険に立ち向かう。(解消する。)
 危険度が低ければ、自分で解消するように動くことができます。
しかし、自分で解消できなければ、逃げるしかありません。
 我慢しなさいと言われても危険だと感じている以上なかなか我慢はできません。手助けが必要になります。
・助けてほしいから登校を渋るのかもしれません。
・裏の問題に気づいてほしいから登校を渋るのかもしれません。
 何かのサインだと考えると、ただ、「学校へ行きなさい。」「わがままだ。」などと子どもの尻を叩いて目の前の問題を解消しようとしても解決できません。
 ですから、登校を渋ることのよさは何だろうと考えてみます。つまり、危険を避け、自分を守ろうとしていると考えるのです。
 学校に問題がある場合
・学校にある問題から逃げようとしている。
・学校にある問題に気づかせようとしている。
 家庭に問題がある場合
・安心・安全が確保されるように立ち向かおうとしている。
・立ち向かえないので、自分を責めて解消しようとしている。
・別の弱い所に当たろうとしている。(物、人、事)
 (登校渋りにはならなくても、家庭での不満が解消されないために、学校で解消する行動を取ることもある。)
 問題が複雑になれば、簡単には解決出来ません。絡んだ糸を一つ一つ取り上げてほどくしかありません。複雑になる前に出来る限り早くこのサインに気づくことが大切だということになります。
 学校での暴力行為の原因が家庭の不安定さになっていることもあります。これは複雑に問題が絡んだ時に発生します。この場合、問題は根深く、目に見えることだけを扱っていると問題は解決しません。モグラたたきのようにすぐに形を変えて、問題を作り出します。
 子どもは自分を守るために必死になっているのです。暴力的になるのは、最後の砦のようなものです。自分を守るために必死になって抵抗しているのだと解釈すると、「やめなさい。」とは言えません。
「止めることが出来ないほど辛いのです。止められないのです。」という子どもの必死な思いが伝わってきます。
 「ごめんね。サインに気づかず。辛い思いをさせてしまったね。」と子どもに頭を下げるしかありません。サインに気づくのは、親だけの仕事ではありません。子どもと関わる教師の仕事でもあります。
 子どもの変化に敏感になり、問題を共有して解決に当たらないと問題の早期解決にはなりません。サインを見つけてもそれが、子どもの本質の問題からずれていると、子どもは「わかってくれない。」という気持ちが強くなります。
 これは、わがままではないのです。子どもが必死になって訴えているのです。
 本質の問題からずれているかどうかは、こちらの対応に対する子どもの反応で見ることができます。子どもの感情に触れることでそれがわかります。感情は、子どもの表情や姿に現れます。ですから、子どもの変化に鋭敏になるしかありません。
 現象的な問題が解決したように見えても隠れた問題を扱っていないとまた別の形で問題を作り出します。ですから、常に本質を見ようと探り続けることがとても大切になります。
 「思い込みで子どもの問題に当たっていることはないだろうか。」「問題のとらえ方はこれでいいのだろうか。」と自問自答しながら、子どもと対峙する姿勢をいつまでも忘れないでいたいと思います。

違っていてはわからない

2010-10-19 | 育児
 「一人一人みんな違ってみんないい。」・・・この言葉を聞いて、何となく自分は自分でいいのだと思う人がいるかもしれません。それは、それで、自分を生かすことができるので、よいのでしょう。
 しかし、人と関わる時、相手の気持ちをよくわかっていないとトラブルになることがしばしばあります。
 ここには、「あなた」と「わたし」は違うと自分と他人を分けた考えをもっているとなかなか相手の気持ちがわかりません。
 似ている所を探し、共感することなしには、トラブルは、減りません。
・自分の正当性を主張し、相手を非難する。
・間違いを極端に嫌い、間違うことは恥だと思っている。
・ミスがあったら、他人に転嫁する。
 これらは、すべて自分と他人を分けているから起きることです。
 誰にでも、欠点はあります。誰もがミスをします。人は、本当は一緒にいたいと思っています。一人では居られないと思っています。
 なぜ、そんな自分なのに自分と他人を分けたいと思うのでしょう。
・根底的に自分に自信がない。
・区別することが自分を守ることだと信じている。
・複雑な時代に対応できないでいる。
 様々な要因があるように思います。
 私たちは、みな同じ人間なのです。体験や経験の違いはあっても同じ人間なのです。互いに理解しあうことで、関係性がよくなります。
 もし、同じ体験や経験をしたなら、自分もそうなるかもしれない。
 もし、その体験や経験がなかったら、やっぱりそう考えるかもしれない。
などと思うことができたら、相手を非難したり、自分と区別したりすることはないでしょう。

 子どもと大人、上司と部下、親と子、教える側と教えられる側・・・・すべて分離して相手を見ています。そして、自分をそれらしい自分に創り上げています。相手の立場になれば、わかるはずです。違いを作ることでトラブルが増えるとしたら、どんな立場に立てばよいのかを考える自分が必要だと思います。
 これには、互いの立場を超えた立場になることではないでしょうか。どちらの立場も見える第三の立場が必要です。
 一度その立場から自分のあり方を眺めてみるとまた違った自分が見えてくるはずです。
 違っていてはわからないことが、わかってくるように思います。

新たな挑戦

2010-10-16 | 育児
 いくつになっても新しいことを始めると胸がときめきます。ただ、若い頃とは違って、自分の思いだけでまっしぐらに進むことはありません。
・自分が信じてやろうとすることに制限を受けたくない。
・まずは失敗してでもやってみたい。
・どんな結果になるのか、見てみたい。
 若い頃の私の気持ちの中にこんな気持ちがありました。
 しかし、今はこれだけでは動きません。周りへの配慮も考えながら、周りの人々を巻き込みながら始めようとすることが多くなりました。
それは、何故かと考えてみました。
・周りを巻き込まない代わりに成果もそれ程大きくなかったこと。
・失敗ではなく、学びがあったということ。
・多くのことを学んで、より大きなことを始めたくなったこと。
・周りを巻き込んだ方が大きな影響を生むこと。
・やり甲斐が回りの人にも生まれること。
・一緒に取り組む仲間がいると心強いこと。
・巻き込んだ仲間にすでに思いが伝わっていること。
・一人でも多くの理解者が増えることの方が新しいこと以上に意義があると感じるようになったこと。
 ここに至るまでの努力があったから、今の自分があると思っています。
いきなり今の自分になれたわけではありません。
 すると不思議なことに感謝の気持ちが沸いてきます。
・思い通りにさせてもらえた人が身近にいてくれたこと。
・失敗をしても、影で支えていてくれた人がいたこと。
・常についてきてくれた家族がいたこと。
 私より一日早い誕生日を迎えた妻へも感謝の気持ちを花束に添えて送りました。

可能性を信じて

2010-10-15 | 育児
 他人にできることならば、自分にもできると考えているか、それとも、自分にはできないと考えるかによってかなり前向きさが違ってきます。
 当然のことですが、制限を加えれば、その制限以上のことはできません。制限を加えなければ、可能性はどんどん広がります。
 その可能性を決めるのは、自分しかありません。
 本当に可能性があるの?と疑い始めると可能性に限界を加えることになります。
 決して諦めず、常に可能性を追い求めることで可能性はどんどん広がっていきます。
・50の手習いを始める人
・200本安打を9年連続更新続けるイチロー
・アースマラソンに挑戦している間寛平
私たちの周りにも様々な挑戦者がきっといるはずです。
 自分の可能性を信じている人には、限界がありません。常に新しい課題を作って前向きに生きています。
 これは、技術だけのことではありません。
・場を広げること
・情報を集めること
・人との関係を広げること
・考えを深めること
 ノーベル賞を2人の日本人が受賞したニュースも入ってきました。化学の分野で挑戦し続けた結果がこの受賞につながったのでしょう。
 1つの道を究めることは、まさにこの限界を感じない努力の成果ではないでしょうか。
 教育も同じです。私たちが次代を担う子どもを育てる道を究めるための努力に限界はありません。常に挑戦し続ける私たちの生き方そのものが教育ではないでしょうか。
 これは、ノーベル賞を受賞する以上に価値ある生き方だと思います。教師になった以上、極める努力をしたいと思います。
 努力をし続ける人々を見ると意欲を沸いてきます。

何を信じて

2010-10-14 | 育児
 いろいろな事が目の前に起きて判断を迷う時が誰しもあります。そんな時に頼るのは、何でしょう。
 助言や他人の動き、規範など様々な情報を得ながら、最終的には自分で決断しています。
 「○○さんが言ったから」とよく聞きますが、○○さんが言わなかったら、決めないかと言えばそうではありません。自分なりにそれがいいと判断した根拠を明らかにしただけで、言う言わないに関係なく、よい情報だと判断し、決定したはずです。
 責任を取らなければならないという状況は、誰もが避けたい状況です。できれば、責任を取りたくないと思っています。自分自身に影響が及ばないようにしたいと思うのは、無意識の働きによるもので、決してあなたが、意図して避けようとするものではありません。自然なことです。
 失敗したら、少なからず誰もが隠したいと思います。これも同じです。失敗も自分自身を責める材料になるからです。
 もし、これらを学びの機会ととらえたら、どうなるのでしょう。
 判断し決定したことや失敗したことからは、必ず学べることがあると信じることができたら、結果を受け入れることができるでしょう。
 自分が下した決断は、間違いはない。今できる自分にとって精一杯の努力の結果なのです。それ以上の決断も、それ以下の決断もないのです。常に私たちは全力で事に当たっているはずです。 
 また、失敗についても同様です。初めから失敗しようとして失敗する人はいません。結果として思い通りにならなかったというだけです。自分なりに精一杯努力した結果です。何かが足りなかったからその結果になったのです。そこには、必ず学べる何かがあるはずです。
 それでは、決断や失敗を恐れるのは、何故でしょう。奥深く自分を探ってみましょう。
・自分をよく見せたいという見栄があるかもしれません。
・恥をかきたくないという思いがあるかもしれません。
・評価が下がることを恐れているかもしれません。
・関係が崩れることを恐れているかもしれません。
 これらは、よい判断をしようと精一杯努力するエネルギーを奪いとるものになるとは思いませんか?
 今の自分を信じて、精一杯事に当たることが自分にとって一番よい結果になると思います。
 誰もが完璧ではありません。一人ですることに完璧なことはありません。必ず足りないことがあるはずです。
 学びしかありません。常に学びながら成長している私たちではないでしょうか。
 もし、精一杯取り組んでいることに、手を差しのべる人がいたとしたら、あなたは、受け入れるでしょうか。それとも受け入れを拒否するでしょうか。受け入れることは、恥でもありません。評価が下がることでもありません。事がうまくいくためにあなたの無意識が求めていた支援だと考えてみてはどうでしょう。
 あなたが必死になっている時に差しのべられる手は、その時それが必要だから現れたと考えた方があなたにとって負担が少なくなります。一緒に歩もうとする仲間がいてくれることに感謝しながら、事がうまく進むように努力します。そして、一緒に喜びを分かち合います。その方が力になります。
 あなたの周りにあなたと一緒に歩もうとする仲間がいることは、あなたの財産です。
 常に私達は全力で事に当たっています。それは、自分を生かそうと無意識が働いています。自分を信じることは、正にこの無意識の力を借りることになります。
 自分を信じて全力で事を進めている時は、必死になっている自分があります。これは、子どもが無我夢中で動き回っている時と全く同じです。
 そんな自分を愛おしいと思うのは、私だけでしょうか。

受け取った分しか受け取れない

2010-10-13 | 育児
 コミュニケーションには、話し手と聞き手とが存在します。話し手が一生懸命に話したとしても、聞き手は、話の内容をすべて聞き取ることはできません。
 当たり前のことですが、それが当たり前と感じていないで、話したことはすべて伝わったと勘違いしていることの方が多いと思います。
 「伝えたはずなのに伝わっていない。」
 「どうして、そうするのか。私の言ったこととは違う。」
 「何度も繰り返し言ったから、間違いないはずだ。」
こんな言葉を時々耳にします。
 伝わったと思っていても伝わっていないことがあると不快を感じることがあり、相手に責任を転嫁する場面によく出会います。
 しかし、本当に相手に問題があるのでしょうか?
 聞き手は、話し手の言葉を受け取りますが、受け取った言葉は、話し手が思うような言葉ではないかもしれないのです。
 元々体験や経験が異なる話し手と聞き手です。同じ体験をしたのならば、同じイメージを描くと思いますが、異なる体験ではそうはいきません。
 自分の体験にあるものを使って、想像しながら、自分で話の内容をイメージするしかありません。ここに歪曲が起こります。
 また、相手が伝えたいことは言葉を介していますが、本来相手が伝えたいことは、言葉に表れていないこともあるはずです。そのため、話した内容だけしか受け止めていない聞き手は、すでに省略されている内容を受け取ることになります。そして、受け取った言葉をすべて受け取る力がなければ、ここでも省略が起こります。
 話し手は、歪曲と省略がある中であるにも関わらず、うなずいたり、「はい」と返事をしたりする聞き手を見て、「伝わった」と判断しています。そして、この姿を元にして次の行動を起こします。
 常に伝わったと思いこんでいるので、聞き手の行動が思いとずれると相手を非難します。そして、不快を感じるのです。
 しかし、この「伝わった」という思い込みから始まったことなのです。
もし、伝わっていなかったかもしれないという思いがあれば、不快にもならないし、相手を攻撃することもありません。
 「やっぱり伝わっていなかったのか。」と考えたり、「伝え方が悪かったね。」と謝ったりすることができます。
 このようにコミュニケーションによってもたらされる問題の原因は、話し手の思い込みによることが多いのです。コミュニケーションでは話し手と聞き手が入れ替わるため、互いの思い込みのずれが問題をより複雑にします。
 互いが自分の伝え方の問題だと考えればトラブルに発展することはないと思います。
 このトラブルを防ぐためには、確認をするしかありません。一つ一つ丁寧に確認し、誤りがないかどうか慎重になる必要があります。
 特に聞き手が子どもの場合は、その点を慎重に扱う必要があります。私たちのように体験や経験が豊富ではないため、理解も十分ではありません。言葉が通じるからわかるはずだと思うのも思い込みです。 
 全く異なる理解になることもあるのだというくらいの慎重さが必要です。これを欠くと子どもを叱らなくてもいいところで叱ったり、反省しなくてもいいところで反省させたりすることにもなります。
 授業も全く同じです。伝えたことがわかったことにはなりません。子どもが使って初めてわかったということになります。
 一方的な教授の授業(教師が子どもに伝える授業)では、子どもは十分わかっていないかもしれません。子ども自身が言葉にする機会を増やして、理解した内容を確認しなければなりません。
 伝える側の問題に気づくと、授業が変わります。常に反応を見て、確認しながら、授業を進める慎重さを持ち合わせる教師でいたいと思います。

思っていることと事実とは違う

2010-10-07 | 育児
 子どもの姿を見て、いろいろな解釈をすることができます。
・この子は、きっと困っているのだろうな。
・この子は、きっと優しい子だろうな。
・この子は、この調子ならばこんな子になるはずだ。
・この子は、今辛い思いをしているだろうな。
 しかし、その思いは実際の子どもとは違います。
例えば、困っていると解釈しても、それは事実ではないかもしれません。
・困っているけど、自分で何とかなりそう
・困っているけど、自分から助けを求められるから大丈夫
・困っていて、何が何だかわからない。
・困ってしまって何も手につかない。
・本当は困っていないけど、困った振りをして私を見てほしい。
この時、子どもの何を見て、判断したのかがとても重要になります。
子どもの思いは、表情に表れます。それを読み取ったわけですが、その読み取り方が内面に近いものになるか、遠いものになるかは、観察する側の見方一つで変わります。でもどちらも事実とは違います。どちらも観察する側の解釈でしかありません。本当の所は、本人に聞くしかありません。
 でも、その本人が本当の気持ちを言っているかどうかもわかりません。これは、教師との信頼関係によって対応が異なるからです。
 安心して話せる相手ならば、本当の気持ちを言ってくれるでしょう。しかし、壁を感じる相手ならば、衣装をまとって相手が納得する姿を見せようと努力します。
 本当の気持ちをきちんと伝えてくれる安心感があれば、その場だけでなく様々な場で自分の気持ちを伝えてくれるはずです。関わろうと自分から働きかけてくれるはずです。そのつながりがなくて、一方的にこちらから関わっているだけなのにいつも本当の気持ちを伝えてくれると解釈しているとしたら、これこそ思い込みでしかありません。
 子どもの動きをきちんと見分けることがとても大切になります。
そして、その上で子どもの気持ちを聞くことになります。確実な信頼関係が出来上がっている時ならば、本当の気持ちを伝えてくれるでしょう。子どもですから、十分な話し方はできなくても、伝えようと必死で訴えてくれるはずです。
 思っていることと事実とは違います。
 このことを本当にわかっている人は、子どもから目を離すことはありません。子どもに聞かなければ事実がわからないからです。事実に基づいて対応することと思い込みで対応するのでは、対応が異なってきます。
 子どもが喜ぶ対応は、事実に基づいた対応です。それが自分に近ければ近いほど安心できます。
 ここまで考えると子どもに対応している自分のあり方を見つめることができます。
・期待だけで対応しているだけの自分はないだろうか。
・今を見ないで、過去の経験から対応している自分はないだろうか。
・子どもの心を探り続けている自分だろうか。
・都合のよい解釈で子どもを見ている自分はないだろうか。
 子どもの本当の気持ちを見誤ると的確な指導はできません。常に自分の指導は子どもの本当の気持ちに合った指導だろうかと疑うことができれば、謙虚に指導を反省することができます。
 事実をとらえることはそれほど簡単ではありません。いつも子どもの心に焦点を当てている教師が的確に事実をとらえることができるようになります。試行錯誤しながら、子どもにぶち当たるのが私たちの日々の実践だと思います。その努力を怠るようになったら、教師としての質の向上はありえません。

誰もが全力を尽くしている

2010-10-06 | 育児
 子育てで悩む人は、たくさんいます。逆に悩まないで子育てをしている人などいないのではないでしょうか。
 悩む裏には、子育てに一生懸命なその人が見えてきます。子どもが憎くくて子育てをしている人はいません。子どもが嫌いで子育てをしている人もいません。
 「自分に似ているので、いやだ。」という人もいます。
 子どもの側からすると大変迷惑なことです。  
 子ども自身も自ら生きようと精一杯です。生まれた時からそれは、始まっています。五感を使って精一杯自分を生かすための情報を集ます。
 そして、一番身近な人をモデルにして、一生懸命に生きているのです。その環境に一番適応しているのは、子育てをしている親です。
 その親をモデルにして必死に生きようとしているのです。
 ですから、親の意図とは違って、モデルとなる親から得られるだけの情報をすべて得ようと必死です。
 となると、親と似てくるのは、当然だとは思いませんか。似ない方が不自然です。もし、子育ては、親が意図的にしないとできないと考えていると、それは、違います。親の気づかないところでも子どもは情報を集めて、必死に生きているのです。
 生活する空間の様子
 生活の中で聞こえてくる声の状態
 生活の時間の使い方
 生活の中で扱われている見方・考え方
これらは、育てる側が無意識のうちに準備されたものが多いでしょう。
それがすべて子どもが育つために必死で手に入れようとしている情報です。
そして、その中で一番適応して生きている親の生き方を真似ているのです。
 それが一番生きやすいからです。それが一番安心できると脳が判断するのです。
 今生きているその環境の中で一番生きやすい生き方を求め続けているのです。それは、意識的ではなく、無意識的です。
 これは、環境が変わっても同じことが言えます。小学校に入学すれば、小学校の環境に合うように生きようと精一杯の自分を創り出します。
 この時のモデルは誰でしょう?それは、担任教師です。担任教師が子どもにとってのモデルとなります。 
 そう考えると教師の一挙手一投足が子どもの生きるための情報となります。子どもは自分を生かすために必死で見ているのです。ですから、敏感な子ども程早く適応できます。
 これは、社会に入っても同じです。家庭をもっても同じです。すべて、自分を生かすための精一杯の努力なのです。そして、子育ても同じです。
 このように考えると、精一杯努力しているのは、子どもだけではない事に気づくでしょう。時間の経過が違うだけです。誰もが全力を尽くしているのです。
 生きているその環境も環境も刻々と変化しています。その変化に対応しようと無意識のうちに精一杯自分を生かそうと努力しています。 
 その変化に対応しようと精一杯生きているから、対応出来ないときに問題が生まれます。そして、悩み、苦しむのです。
 複雑な世の中になったから、この世の中でモデルにする対象が見つけにくくなっているのではないでしょうか。そのため、自分をどのように生かしてよいのか、その生かし方がわからずに苦しんでいると考えたらどうでしょう。
 モデルがいないなら、自分で創造するしかありません。これからは、そんな時代になるのかもしれません。
 創造できる自分が「生きる力をもった自分」ではないでしょうか。
誰もが全力を尽くしているのです。今は、創造できる自分を創り出す努力ができる自分でいたいと思います。

見方を変えてみる

2010-10-05 | 育児
 心と体がつながっていると強く感じる時は、疲れている時のようです。
 こんな時、無理をすると体のどこかに変調を来します。ここはぐっすり休んでまずは、体を労りたいと思います。
 でも、仕事が込んでいて休めない、今しかないと思って無理をしてしまうことがあります。
 ここも考え方次第だと最近感じることが多くなりました。
 本当に今しかないのだろうかと疑ってみます。そして、もし、今しかないと考えたならば、それは本当に自分しかいないのだろうかとまたこれも疑ってみます。そして、人に任せたり、頼りにしたりすることはできないのだろうかと考えます。
 多くの場合、自分でしかないと思ったことでも人ができることがたくさんあります。自分しかできないことは、それほど多いものではないようです。 
 この裏には、人を信頼していないでいる自分があるかもしれません。そして、人より常に優位に立ちたいという自分があるかもしれません。任せることで、何か負い目を感じる自分があるかもしれません。そして、任せるような自分ではいけないと自分自身を否定的にとらえている自分があるかもしれません。
 任せられないと思う自分を見つめてみるといろいろな自分が見えてきます。どの自分も少なからず、自分の中にそんな自分があるように感じます。 
 そして、それはいつ作られたのでしょう?今までの人生を振り返ってみると、必ずそう考えた方がよいと決めた一瞬があるように思います。別の場面では別の価値観を自分が創り上げた体験をしたのです。
 この体験が多ければ多いほど、仕事に対する様々な自分を創り上げたように思います。
 その中で一番生きやすい自分が、今の自分を支配しているように思います。だから、他の価値観は陰に隠れていて見えないようにしているのです。
 人に頼ってみる体験をすれば、また新たな自分の価値観を生み出すことができます。
 今、体を休めて、人に頼ってみる体験をする機会が生まれたのかもしれません。頼ったことを申し訳ないと思う自分があるかもしれません。しかし、それ以外にも発見する価値観はきっとあるはずなのです。
・頼った相手のすばらしさを発見することができます。
・他人の仕事ぶりと自分の仕事ぶりの違いを発見することができます。
・頼り方が旨いか下手か、自分の頼り方が見えてきます。
・休んだことによる新たな自分の体の変化を感じることができます。
・仕事が組織で動いてることを再発見することができます。
・仕事を再度見直すことができます。
 内から仕事を見ている時と外から仕事を見ているときでは見えるものが違ってきます。その発見の機会が休んだ時なのです。
 見方を変えることで仕事への取り組みが今以上に充実することになれば、休むことはプラスになることかもしれません。
 すべて自分次第なのです。失敗はありません。ただ、学びがあるだけです。

やる気に支えられているか

2010-10-01 | 育児
 教師の多くは、活動をする時にやる気をもたせて取り組ませています。
 ですから、活動の始まりには、意欲を持たせるような話題を提供したり、興味関心がもてる資料を提示したりします。
 これらがなくてもできる学級というのは、かなり育った学級だと思います。
 なぜならば、常に課題意識をもち、前向きに取り組む子どもに育っているので、教師側の姿勢に左右されません。自分で学習意欲を高めることができるので、教師の活動意欲を高める取り組みは必要ないことになります。
 そんな学級は、それほど多くはありません。多くの学級の場合、この取り組みが必要になります。
 ここがとても重要なポイントです。
 つまり、慣れてくると当たり前のように取り組みますが、子どもの意欲に支えられて取り組んでいるのか、意欲とは関係なく慣れているから取り組むのかは雲泥の差です。
 やる気が欠けると活動が滞ったり、問題解決が依存的になったりします。
 具体的には、一つの活動は、席を立ったり、ノートに記録をしたり、ものを準備したりと様々な細かい多くの活動から成り立っています。その細かい活動一つ一つにかける時間が違ってきます。
 全員が揃うまでの時間に差ができます。ですから、活動が伸びたり、中途半端な活動になったりするのです。
 また、トラブルが起きたとき、やる気のある子どもが多ければ、早くそのトラブルを解消し、次の取り組みをしようと互いに協力することができます。やる気がなければ、そのトラブルを口実に取り組みから逃げたり、トラブル事態を楽しんだりする姿も見られます。子どもにとって、やる気がないことを姿で示すよい機会になっているのです。 
 ですから、活動の様子がスムーズにいっているとしても、本当にやる気に支えられて活動が進んでいるのか、慣れているから活動が進んでいるのかを見極めることは、とても重要だということです。
 これは、子どもを見るしかありません。活動から離れようとしている子どもとそれを食い止める子どもとが必ずいます。
・活動が逸れないように注意をする子どもは、食い止める子どもです。
・話題が逸れている時に質問する子どもは、食い止める子どもです。
・取り組みを見通して、建設的な考えを出す子は、食い止める子どもです。
それとは別に
・自分だけできればよいと考えている子が多ければ、食い止めることはできません。
・教師が注意を促したり、話題を提供したりしているうちは、食い止める子どもは育ちません。 
 教師は常に全体を眺め、学級の質を見極める必要があります。子どもの質を見極めながら、指導援助をしなければなりません。
 個のつまずきを教師一人で救うことはできません。仲間意識を育てなければ、救える子どもの数は限られてしまいます。
学級の質は、次の2つで見極めることができます。
・どの子も、みんなで一緒に勉強したいと願っているだろうか。
・どの子も、もっと深く知りたい、わかりたいと思っているだろうか。
 どちらも教師の認め励ましでこの姿を育てることができます。
「みんなで学習できてよかったね。」
「~さんのおかげでよくわかったね。」
「みんながいるから、ここまで深められたね。」
等と常に集団で学習することのよさを教師が子どもに投げ続けなければ、集団のよさは見えてきません。
 多くの場合の評価は個人の評価になっているため、集団の評価は、教師がするしかありません。互いのやる気に支えられて集団が成り立っていることを教師自ら訴え続けるしか評価はないのです。
 学習内容を教えることだけに四苦八苦しているうちは、この集団の評価が疎かになってしまいます。
 自らの力を試されるのもこの集団の評価になります。
 子どものやる気を高める取り組みをし続け、集団の質を高めてほしいものです。2学期は、それができる時期だと思います。