ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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子どもを理解する

2010-05-28 | 育児
子どもの教育は、まず、子どもの理解から始まります。しかし、本当に子どもを理解することができるでしょうか。
 学校教育では、複数の子どもを対象に教育が行われます。一人の子どもを理解するだけでも大変なのに、複数の子どもを一度に理解して、指導を進めるといくことは、土台無理な話です。
 しかし、実際に学校では、子どもたちに指導しています。
一体どのように、このことと子ども理解と関わらせて考えればよいのでしょう。
 すべきことは決まっているので、それを教えればよいと考えれば、ここには子どもが存在しません。
 大事なことは、こちらが教えたことと子どもが受け取ったこととは違うということです。 ここに子ども理解の必要性が出てきます。つまり、10教えたとしても受け取る子どもが1しか受け取れなかったとすれば、1しか教えていないことになるのです。10教えたら10受け取れるための指導に子ども理解が必要となるのです。
 私たちが授業を進めるときには、「大体の傾向」を利用します。いわゆる子どもの発達に合わせるということです。
 これが、曲者です。発達段階と言いながら、実は、指導の体験から得た子ども像を勝手に自分なりに解釈していることが多いのです。
 自分の解釈で作り上げた子どもの発達に合わせて指導をしているため、指導に合わない子どももいます。
 「こんな子どももいるから指導の仕方を変えよう。」と指導を柔軟に変える教師ならば、救われます。しかし、長年培った自分の経験から、間違いないと固定化したならば、指導に合わない子どもを否定してかかることがあります。これは、不幸なことです。子どもはストレスを感じます。そして、これが指導のストレスにもなります。
 ということは、子どもを理解したと思った瞬間から、ストレスがたまり始めるということになります。
 ストレスをためないためには、常に「これでいいだろうか。」と追求し続けるしかありません。そして、子どもの理解を固定化しないで、指導の方法を子どもに合わせる努力をし続けるしかありません。
 教師の実践力は、この子ども理解のための実践ということができます。指導しやすい自分なりの経営の仕方があっても、もっとよい方法がないか、探し続ける謙虚さが必要になります。
  子どものために常に最善の努力をします。これが自分の実践力を磨くことになります。そして、理屈は後からついてきます。
 「なぜ、そんな指導をするのか?」と問われたときに、いつも「子どもが・・・・。」と子ども理解から始まる理由を考えているでしょうか。それとも、「わたしが・・・・。」と教師の都合になっているでしょうか。
 ここには、大きな隔たりがあります。
 私たちは、子どもの幸せのために指導をし続けます。厳しい勤務条件の中で働く私たちです。その中でも働き続けられるのは、子どもたちが育ったことを実感した瞬間の幸福感があるからではないでしょうか。

抑えられない感情

2010-05-27 | 育児
 「したくてたまらない。」、「決して許さない。」、「怒らざるを得ない。」などと強い感情が表れたときは、冷静に判断できません。
 後から後悔しても始まりませんが、どうしようもないのです。それは、感情の方が理性よりも強いからです。
 これは、強い感情ばかりではないようです。常に感情が優位に働くようです。
 「よいことをしよう。」「悪いことはやめよう。」「人に迷惑をかけてはいけない。」「約束は守らねばならない。」などと思って行動している時にも、同じように感情が働いています。その行動をしている時には、心地よい感情があります。
 好きなことをしている時も同じです。心地よいからしてしまいます。
子どもを叱る時の感情を考えてみましょう。
 叱りたくなる感情が沸き起こったとき、ムカムカします。そのムカムカした気持ちを吐き出すとすっきりします。叱った瞬間がこれです。  
 「ここは~すべきだった。」「やり過ぎたかな。」等と叱りすぎると後悔することがあります。
 これは、感情の後に理性がついてくるからです。つまり、叱った子どもの様子を見て感じるものがあるから、その感情を理性が判断します。ここも感情が優位に働いています。
 このように意識せず、当たり前にしている行動の裏にも、必ず感情が動いています。そして、私たちの行動を操っています。
 人によって叱り方が違うのは、この感情の違いによるものです。
「そこまで、叱らなくてもいいのに。」「それは、してはだめでしょう。」などというのは、叱る感情の違いをよく表しています。 
 叱る行為は、叱る側の感情の問題であって、叱られる側の行動とは、無関係です。
 手を出して痛めつけないと、本当に叱られたことが身にしみないかと言えば、そうではありません。叱られた側の感情が動けばいいのですから、手を出さなくても感情を動かすことはできます。
 大きなショックを与える方法の一つとして、手を出して痛めつけるという方法が考えられますが、これだけではありません。
・したことの重大さに気づく。
・したことで辛い気持ちになる。
・したことで苦しむことになる。
・したことで痛みを感じる。
・された相手の気持ちになる。
 いろいろな方法を考えることができます。
 しかし、叱る時には、冷静になれないのです。ついいつもの自分で叱ってしまいます。
 ここが難しいところです。そして、叱る時には別の要素が入っていることがあります。
・相手を従属させたい。
・自分を優位に立ちたい。
・優越感を味わいたい。
 などと、叱る側は叱られる側よりも優位だという思いがどこかにあり、それを確認するために叱るという行為を使っていることがあります。
 子どものためではなく、叱る側の都合で叱っていないかということです。所謂「八つ当たり」は、言語道断です。
 子どもを心から愛しているから叱るのだと本当に言い切れる「叱り」をしているかが重要になります。
 このように考えると、本当に叱らなければならないことは、限られてくるように思います。
 そして、もし、手を出さなければならない時があるとしたら、それはどんな時なのでしょう。
 体罰はいけないと決められているから体罰をしないということではないように思います。まして、自分を守るために体罰をしないなどと思っていたら、子どもは本気で叱られるという体験をすることはないでしょう。
 子どものために、本気で叱っているでしょうか。また、その裏返しとして、子どもを本気で褒めているでしょうか。
 子どもは敏感です。先生が、自分のために本気で叱ったり褒めたりしてくれるか、わかっています。教師の都合で褒めたり叱ったりしているならば、すでにそれは見破られています。
 感情で動く子どもたちを理屈で叱ることでもありません。抑えられない感情が子どもに伝わることが重要です。本気で叱ったり、褒めたりする抑えられない感情が子どもを揺り動かすのです。

わからない

2010-05-26 | 育児
 授業では、子どもたちの意見を出し合い、練り合いながら進めていきます。この時、前提となるのが一人ひとりの考えです。
 作業や活動を通して、自分の考え作りをします。そこで作った考えを基に話し合いをします。
 自分の考えと違っていたり、相手の考えと違っていたりするとなかなか自分の意見を言うことができない子どももいます。
 きっと自信がもてなくなったり、自分の考えに不安を抱いたりしたからでしょう。
 この時、「わからない。」と言う言葉を使って、話し合いに参加させたいと思います。
 自信は後からついてきます。不安は解消すれば、理解につながります。
ですから、とにかく話し合いの外に身を置かないように、必ず話し合いの傘下に入らせる努力が必要です。
 このときに使える武器がこの「わからない。」なのです。
 「わからない。」と言われると、子どもは精一杯それに応えようと頑張ります。
 例えば、
・丁寧に話をする。
・何度も繰り返す。
・文を切りながら、話す。
・結論から先に話す。
・箇条的に話す。(○つの話をするよ。)
・ものを使って話す。
・黒板を利用して話す。
など、様々な努力をして、わかってもらおうと頑張ります。
これらは、こどもの表現力を豊かにすることになります。
 つまり、「わからない。」と言うことで、話し手は、話し方を変えてうまく話をする機会が出来上がるのです。
 わからないことは、恥ずかしいことではありません。
 わかりたいという意欲の現われです。
 わからない不安を消すことができます。
 学ぶチャンスを作ることになります。
 「わからない。」と話すことで自尊心を傷つけられると考えならば、それは大きな間違いです。
 知らないことさえ知らないことがこの世の中にはたくさんあります。知っていることは、ほんの一握りです。それほど重要ではないのです。
 大事なことは、この学ぶ過程です。この過程で、考える力を養ったり、表現力を身につけたりするのです。「わからない」ということでこの能力を伸ばす取り組みが始まると考えると、この言葉はかなり大事な言葉の一つだといえます。
 わかっていることを前提にして進めるのではなく、わからない子がいるという前提に立って授業を進めると、子どもたちも安心して話し合いに参加することができます。
 教師が演技をして「わからない。」と言うことも手助けになります。
まずは、「わからない。」と言える子どもを増やしたいと思います。

発言する、しない

2010-05-25 | 育児
子どもたちの学習への取り組みの一つとして、発言する姿があります。どの子も発言できる子にしたいと思っていてもなかなかその姿にはなりません。
 ここで重要なことは、子どもが学習に主体的に取り組むことをどのように捉えているかによって異なってきます。
 教師や仲間から教えてもらうという構えでいると、発言はそれほど重要ではありません。教師や仲間が話し、それを聞いて学べば済むので、発言しなくてもよいことになります。
 これは、学習の結果としての知識を学ぶことにはなりますが、その知識を作り出す過程では、活躍していません。
 発言をすることは、ある意味で危険を冒すことになります。つまり、発言した内容について仲間からの反応に責任を取らなければなりません。
反対に発言しないことは、危険から逃げていることになります。
 責任をとらない分、自分で判断することができません。そのため、人に追従することになります。また、人が危険を冒しているのを傍観者としてみている立場になります。
 発言しない、発言できないのどちらであっても、傍観者になります。わからないならば、「わからない」と言わなければ、自分の判断はありません。
 自分事として、関わろうとする姿勢がなければ、いざ判断しなければならない時に判断できません。なぜならば、判断するためには、いろいろと判断材料を用意しなければなりません。その判断材料を元に自分なりに活付け、意味づけをしながら、どのように考えるのかを決断するのです。この過程を経て判断するからです。そして、この決断に至るまでの過程で思考力を養うことになります。
 その後、この決断に基づいて自分の考えを言葉で表現します。ここには表現力を高めるための様々な要素が隠されています。
 例えば、相手に伝えるための適切な言葉を選んだり、自分の言いたいことをまとめたり、話をする順序を決めたりします。これは、発言しようとするから生まれてきます。発言しないという立場からはこの姿は生まれません。
 ですから、発言しない、できないということは、この表現力を高める大事な時間を奪うことになります。これでは、表現力を高めることはできません。
 表現力を高める要素は日頃の授業にあることがわかります。この積み上げがとても重要になります。
 また、別の見方をすると、傍観者でいることは、人の発言に対して責任を取らない事になります。これは、無責任でいられます。この無責任さは様々な形で生活の中に現れてきます。
 「私が考えたのではない。」「あの子が言ったことだから。」と常に他人事で物事を判断します。
 これは、いじめや差別を扱ったときによく問題となる傍観者の立場と同じです。常に自分事として物事を捉える「癖」が身についているから、相手の立場がわかります。それがなければ、常に他人事で済ませることになり、関わりを作ろうとしない傍観者としての子どもを育てることになってしまいます。
 私たちは、仲間との関わりを重視しながら、授業を進めています。発言しない、できない子どもはある面、関わりをもたない傍観者になります。 ですから、人の発言を聞き流している姿を許していることは、仲間を無視する子どもを育てている事になります。これを避けるために何らかの反応をさせ、関わりをもち続ける努力が授業作りには重要だということです。
 一人の発言には必ず反応する姿を求めます。これを続けることが、常に仲間との関わりを大切にする意図を子どもに伝えることになります。
 傍観者を作らないで、どんな形になってでも関わる子どもを育てたいと思います。

伝えたいことが伝わった瞬間

2010-05-24 | 育児
 昨日は、娘の結婚式でした。涙が自然と出てくる瞬間が何度もありました。
 特に父親への手紙の朗読での娘からの言葉は、私の胸を締め付けるものでした。  
 いろいろな昔の思い出が語られました。その中で、私が、大切にしていたことが娘の言葉の中に現れた瞬間、大きな感動と涙で一杯になりました。
 言葉ではなく、体験を通してつかんだものがそのまま、生きていることを改めて感じる瞬間でした。
 伝えたいことは、言葉にすると短くほんの数秒になるのですが、体験は、そんな短い時間では収まりません。
 本当に伝えたいことは、言葉ではないのです。体験の中にある感じ方や物事の進め方、周りの状況など様々な要素が含まれています。
 こんな状況の中では、こんな取り組みをして、こんな感じ方をしてほしいということが生活体験となるのでしょう。
 娘の言葉は、長年の取り組みに裏打ちされた私との関係の中で生まれたものでした。
 そして、それは、言葉の繰り返しではなく、体験の繰り返しから生まれています。
 それを長年続けられるのも愛があるからなのでしょう。伝えたいことを伝えるための体験は、プラス面の体験ばかりではなく、マイナス面の体験もあります。裏返してみるから両方の体験が伝えたいことを伝える体験になるのでしょう。
 これからの娘の人生に必ず生きて働くことを確信した瞬間、喜びの涙が溢れてきました。

我の強さ

2010-05-22 | 育児
 我が強い自分だとわかっていても、なかなか止められません。これは一体なぜでしょう。
例えば
・相手の言い分はわかっていても、なかなか譲れない。
・関わったことには、必ず影響を及ぼしたいと思ってしまう。
・いろいろなところに顔を突っ込んで関わりたくなる。
・負けることが嫌いで、常に這い上がろうとしている。
・新しいことを取り入れて常に人の前に立とうとする。
 この奥には、どうも「人から認めてもらいたい。」と欲求があるように思います。つまり「私は、認めてもらっていない。」という思いがあるのでしょう。
これは自己実現の欲求という人間が本来もっている欲求そのもののようにも思えてなりません。誰もがもっている欲求です。
 どこまで求めれば気が済むかといえば、気が済むところなどありません。限りがないのです。常に満足しない自分がある限り、終わりのない旅を続けているのです。
 認められても、認められなくてもいいと思った時にこの旅が終わることは、わかっています。しかし、まだその境地に立てない自分がここにいます。
 人の役に立ちたいと思っているのもひょっとすると認めてもらいたいという自分の欲求がそうさせているのかもしれません。
 我が強いことを悪いことにしているわけではありません。ただ、これが自分を苦しめているから逃れたいと思うのです。もっと楽に生きられたら別のところにエネルギーを使えるだろうと思うのです。
 豊かな生き方は、きっとこの苦しみから解放されたときに生まれてくるのでしょう。
 まだまだ、自分の未熟さを感じざるを得ません。自分が豊かになれば、必ず回りの人々も影響を受けて、豊かになるはずだと思います。まだまだ自分を見つめ続けなくてはならないと思います。

愛情を確かめるために

2010-05-21 | 育児
最近、子どもたちの様子を見ていると、愛情を求めている子どもが多いのではないかと心配になります。
 それも、いろいろな形で現れます。一見愛情の問題ではないように見せるため、つい見逃してしまうほど巧妙です。
・いたずらや悪さをする。
・悪口を言う。
・言われたことをする。
・褒められることをする。
・困らせる。
・学校に行くのを嫌がる。
・物を隠したり、壊したりする。
・心を病む。
・自分を傷つける。
・病気になる。
 本当に愛情を確かめるためにしているのかと思うほどです。
相手に気づかれると、愛情をかけてもらえないことを知っているので、気づかれないように必死で隠します。それも、意識せず、無意識にしてしまうことがあるので、厄介です。
 予兆が必ずあります。いつもと違った反応を必ず見せます。これを見逃すから大変です。気づいてもらいたいために次第に強い反応になっていきます。
 ひどいときには、病気になったり、自分を傷つけることまでしてしまいます。愛情を確認するためには手段を選ばないので、厄介です。
 正にゲームです。愛情を確認するための愛情ゲームです。
 思い返せば、私自身もたくさんこのことをしてきました。子どもの頃は特に感覚的でしたから、言葉でうまく伝えられない分、体の反応となって現れていたように思います。
 愛情を確認できるまで続けるので、問題解決にはかなりの時間がかかります。
 愛情をかけ過ぎることはありません。ただし、子どもが欲しがる愛情かどうかが問題です。子どもの欲しがる愛情でなければ、いくら愛情をかけても、愛情をかけたことにはなりません。愛情は、愛情を与える側でなく、受け取る側で決まります。
 また、溢れるほどの愛情をかければ、溢れた分は人に分け与えることができます。そして、親から離れることもできます。
 いつもコップ一杯の愛情を得たいと子どもは思っています。足りなければ足りない分を欲しがります。この巧妙さを見破ることができれば、愛情のかけ方も違ってきます。
 愛情を欲していないだろうか、常に子どもの心の叫びに敏感になりたいものです。
 心配な姿を見かけたら、まず「この子は、愛情を確かめていないだろうか。」と疑ってみてはいかがでしょう。

いじめから考える

2010-05-20 | 育児
 いじめは許されないことは当然ですが、いじめる側の根本の問題が解決しなければ、いじめはなくならないと思います。
 いじめる相手への差別意識があるのかもしれません。
 ストレスがあり、そのはけ口になっているのかもしれません。
 仲間に振り回され、意思の弱い自分があるのかもしれません。
 人より優位に立ちたいというエゴがあるのかもしれません。
 なぜ、こんな状況が生まれてくるのでしょう。
社会全体が複雑になり、ストレスをためる人が増えていることは、確かです。また、そのはけ口が見つからないで困っている人も多いようです。そして、、批判したり、不透明さを強調したり、不安材料が社会全体に蔓延しているのも事実です。
 楽しい話や心が温まる話が豊かさを運んでくれます。生活自体に楽しさや豊かさをもっている人は、社会がどうあれ、自分らしく生きています。
自分らしく生きることができれば、社会に振り回されることはないでしょう。せめて、子どもたちには、心が豊かになる体験を積ませたいと思います。
 それには、関わる大人の「笑顔」と「豊かな心」が重要な鍵になります。
自らを磨き、素敵な大人として、子どもたちと接したいと思います。
そのためには、
 自分を見つめる機会を増やすこと
 人の誠意に支えられて生活が成り立っていることを見つけること
 周りに起きることは、自分次第でその価値が決まること
 振り回されそうなときに、一度立場を替えてみること
などができそうです。心のあり方でかなり柔軟に対応できることがみつかります。
 誰もが幸せに暮らしたいと思っています。人を不幸にして、優越感を味わうような卑劣な考えをせず、自らの中に幸せ感を作り上げる努力をしたいと思います。

力が抜けるとき

2010-05-18 | 育児
肩に力が入っている時は、顔つきはどこか緊張しています。無理をしているなあと感じます。この状態にいる時には長続きしません。どこかで力を抜かなければならないからだです。
 長く続けるためには、いつもの自分でいることがこつになります。続けていると必ず、期待されます。
 すると、いろいろと余計なことを考えてしまいます。
・続けないと期待を裏切るのではないか。
・続けることに値打ちがあるようにしてしまってはいないか。
・続けられないことが問題だと思い込んでしまう。
 続けていると、惰性が生まれます。そして、当初の思いを忘れてしまうことがあります。ここが一番問題です。
 何のために始めたのかがわからなくなると、内容も伴ってこなくなります。こちらの方が問題です。
 始めたら、続けなければならないと考えることも自分で決めたことです。これに価値があるわけではなかったはずです。
とにかく、始めたときの意図を忘れないことです。続くか続かないかはそれほど大きな問題ではないのです。
 形を壊して、新しく作り変えることも可能です。それができるのも可能性をもった自分を自覚することになります。
 何が正しくて、何が正しくないのかは、自分で決めるしかありません。人に振り回される人生を歩むことは疲れます。自分らしく生きるためにも自分のペースを崩さないことが重要だと思います。
 子どものしつけも同じです。毎日の繰り返しが大事ですが、なぜそれを繰り返すのかが明らかになっていないと、意図とは違うところで子どもが形を身につけてしまいます。
 必ず、意図を明らかにして自分のペースで続けることを進めます。また、それを理解できる仲間を作りたいと思います。その場が安心できる場になり、決めたことを自由に扱うことができます。

もう少し待てば

2010-05-14 | 育児
 子どもたちに任せたことでも、なかなか進まず、ついこちらから口を出してしまうことがあります。
 任せている間に、時間がないとか、次にしなければならないことがあるとか様々な要因が頭を持ち上げるのです。  
 そのため、任せておけばできることでも、できない状態で終わってしまったり、叱ってこちらが手を出したり、文句を言ったりしてしまいます。
 子どもは、任されたこと以外、こちらの意図などは考えられないので、こちらの思い通りになるはずがありません。
 そのくらいのことなら言われなくてもできなければ困ると思っても、言われなければできないのです。まだ、言われなくてもできるだけの力をもっていないのです。
 期待をしながら、任せるために余計なことまで考えてしまうのです。任せたならば、任せたことが最後までやり切ることができるように見守ることができれば、子どもの頑張りが見えてきます。また、時間がかかったり、他事に誘惑されたりする原因がわかってきます。
 これは、子どもへの対応だけではありません。誰に対しても同じです。
こちらの思い込みが相手との関係を崩していることがあるのですが、なかなかそれに気づかないのです。
 期待するから、裏切られた気持ちが生まれます。期待がなければ、腹もたちません。
 トラブルの原因を自分が作り出していることに気づいていないために、問題を大きくしたり、複雑にしたりしているのです。
 もっと単純に物事を捉えることができたら、きっともっと楽に生きられるのではないでしょうか。
 問題を単純に考え、複雑にしないことがとても重要に思います。思い込みだったんだと気づいたときに世界が変わって見えます。
 子どもに任せたことならば、「もう少し待ってみよう。」と余計なことを考えず、子どもを信じてみたいと思います。すると、必ず子どものよさが見えてきます。

トラブルが起きる

2010-05-12 | 育児
 子ども同士、教師同士、子どもと教師、保護者と教師、保護者同士、いろいろなところでトラブルが起こります。
 いろいろな原因があると思いますが、自分を主張し合うことから起きることが多いのではないでしょうか。
 もともと同じ人間などいるはずがないので、主張し合うということは、トラブルが起きて当然だということになります。トラブルが起きない方が不思議なくらいです。
 しかし、現実にはトラブルが起きることの方が少ないのも事実です。ということは、起こす人が、トラブルを起こしやすいと考えた方がよさそうです。
 トラブルを起こしやすい人たちは、きっと何かを抱えているのではないでしょうか。
・何か満たされないものがある。
・我慢して、こらえていることがある。
・不満の吐き出し方がわからない。
・うまく思いを相手に伝えられない。
・もっと自分をわかってもらいたい。
 まだまだいろいろあると思います。安心できない状況がきっとあるのでしょう。
 ひょっとすると、誰かに助けを求めているかもしれません。トラブルを起こすことで、注目を集めることもできます。
 何が正しいのかということよりも、感情をうまくコントロールできないところに問題があるように思います。私たち人間は感情の動物だといわれますが、この感情のコントロールがうまくできれば、きっとトラブルも少なくなるのではないでしょうか。
 スイッチが入ると自動的に動いてしまいます。そして、トラブルを起こすつもりはなくても起きてしまうのです。複雑な世の中ですから、いつどこで、スイッチが入るか予想もつきません。
 世の中には、トラブルの原因となりやすい情報が多く流れているため、不安を抱えている人が多くなっているように思います。
 安心して生活できるようになるには、安心な場を確保するだけではなく、常に安心な状態にできるように感情のコントロールができる自分を作り出すことが大切なように思います。

必要なときに必要な情報が

2010-05-07 | 育児
 私たちが力をつけるきっかけは、どこにあるのでしょう。研修をしなさいと言われても、その気がなければ、研修に身が入りません。仲間に誘われて、仕方なく研修に参加しても同じです。
 やはり、自ら求めている時が一番身が入ります。
 この時を作り出すきっかけは、「わからない。」「困った。」などと自分の中に空白が生まれている時に動き出すのではないでしょうか。
 ということは、この空白を作り出すことが、力をつけるきっかけということになります。
 子どもたちがすぐに結果を欲しくなるのは、まさにこの空白を嫌っている証拠です。
 悩んで苦しんで得た結果の方が記憶として強く残るのも、きっとこの空白の時間が長かったからではないでしょうか。簡単に結論が出たことは、あまり記憶にも残りません。
 得たいと思ったことにすぐに答えが出るようならば、それを繰り返し使いたくなるようにしないと記憶に残りません。 だから、復習が必要なのでしょう。
 よりよく生きたいと私たちは常に生きています。その生きやすさは、この脳のはたらきを理解するところから始まるように思います。
 私たちは、脳のはたらきを十分理解していないために余計なところで腹を立てたり、意味のないことで悩んだりすることがあるように思います。
 最近のバラエティ番組でよく脳を扱っています。流行のようにも見えます。しかし、本当に生活に役立つためには、日常生活の人の営みを脳のはたらきから、分析することのように思います。
 言葉がどれほど脳に影響を与えているのか、知れば知るほどびっくりします。知らないことさえ知らないでいる私たちです。子育てに脳のはたらきを生かすとびっくりするほど効果を上げるように思います。これから追求が始まります。

自分って、言葉

2010-05-06 | 育児
 大型連休を自分見つめの機会として、過ごしてみました。社会の動きとは全く関わりなくこの時間を作ると、とても静かに時間が過ぎていく気がしました。
 子どもを指導する自分がどんな自分なのかを見つめ、知ることが指導する上でとても大切なことだと改めてわかった一週間でした。
 人は感情の動物だと言われますが、この感情を揺り動かすのが、言葉です。その言葉によって一喜一憂しているのが、私たち人間です。
 安心できる言葉が多ければ、安心できる場を作ります。そして、不安を作り出す言葉が多ければ、それだけ不安な場を作り出します
一つ一つの言葉がどれ程影響を及ぼしているのかをあまり、意識せずに私たちは使っていますが、繰り返し使うことでそれが子どもの中に無意識に入り込んでしまいます。
 課題意識が強ければ、それが子どもに伝わっていきます。問題が多い学級になっていきます。
だめだと叱ることが多いということは、否定されることが多くなります。励ましの言葉が多いことも同じです。これも今できていないことが前提になっているから励ますのです。
 指示や命令が多ければ、従順になることに慣れていきます。その雰囲気の中で、自分で考えなさいと言われても自分で考えるようにはなりません。指示されたから考えることになります。
 私たちが育てたい子どもは、どんな言葉の渦の中で育っているのでしょう。
例えば、自己肯定感がもてる子どもにしたいならば、自己肯定感がもてる言葉を日頃から多く使うことになります。
 それでは、自己肯定感がもてる言葉とは、何でしょう。
 目標や課題を示す言葉ではありません。
 指示や命令と言った行動を表す言葉でもありません。
 今の姿がいいのだと子ども自身が思える言葉がそれになります。
つまり、承認することです。
 「それで、いいよ。」「よく頑張るね。」「素晴らしい。」「すごいね。」などがそれになります。
 これは、褒め言葉になりますが、褒めるためにこの言葉を使うわけではありません。あなたの今のそれがいいというあなたの存在を認める言葉なのです。
 いくら褒めても、それ以上に叱る言葉が多ければ自己肯定感をもてるようにはなりません。常に自己否定されているのですから、自信がもてるようにはならないのです。まずは、自己肯定感を感じる言葉の量の問題になります。
 それよりも大切なことは、言葉の質になります。つまり、どんな質の言葉を使って子どもを叱ったり、褒めたりしているかということなのです。
 この言葉の質について、あまり考えていないところに問題があります。
いくら褒める量が多くても効果があがりません。
 例えば、あなたはバカだといわれた子どもが、いくら行動を多く褒められても自分はバカだとい意識がある以上自分を肯定することはできません。
逆に、素晴らしい子だと言われている子どもが、していることはだめだと多く言われても、自分を否定することはありません。
 つまり、褒め言葉の前に何がつくかということです。
「あなたは、素晴らしい」となれば、自分を肯定された意識になりますが、「その行動が素晴らしい」となれば、子どもには、自分を肯定されているのかどうか伝わりません。
 一人ひとりの子どもをどのように見ているかという子どもへの見方がそのまま言葉となって現れてきます。
 無意識のうちに「だめな子だ。」と思っていると、やっている行動や能力などを褒めることはあっても子ども自身を素晴らしいとは褒めません。
 ここなのです。子どもを無意識のうちに「だめな子だ。」と思っているのか、それとも「素晴らしい子だ。」と思っているのかなのです。
 それが、日頃の言葉の量や質となって出てくるのです。温かいクラスには相手を思いやる温かい言葉が多く飛び交っています。
 それは、教師が作り出すのです。決して子どもではありません。相手を傷つける言葉を多く使っていれば、自然と相手を傷つけてもよい学級になっていくのです。
 教師の言葉への敏感さが学級を作り出します。
 どんな言葉をどのように使っているかを見つめてみたいと思います。

自分を知ること

2010-05-01 | 育児
 わかっているようで、わかっていないのが自分です。私たちは、常に人や環境の影響を受けて生きています。
 それは、反応として現れます。それも繰り返されることで癖となり、意識から無意識へと入り込んでいきます。
 そのため、どれほど人や環境に影響されているのか知らず知らずのうちに自分のものとして取り入れてしまっています。
 常に反応をしている私たちです。価値観さえも、自ら生み出したわけでなく、反応の結果だということにも気づかないで生きています。
 周りの人々の中に自分と同じような反応をする人を発見します。反応という視点から見ていると特別な反応をしているわけではなく、誰もが同じように反応しているように見えます。人間だから、結局は同じなのでしょう。
そして、もしあの状態に置かれたとしたら、きっと同じように考えたり、同じように行動したりするだろうと考えるようになります。
 人の痛みがわかる人がいます。
 辛いだろうな、苦しいだろうなと思えるのも、経験があるからこそ感じられるのです。もし、そのような体験をすれば、きっと自分もその痛みがわかる人になっているでしょう。
 失敗が許せるのも、きっと相手の立場になったら、きっと同じようになるだろうと思えるからなのでしょう。
 罪を憎んで、人を憎まずといわれますが、これも同じ立場で考えられるからなのでしょう。ここまで考えると何が本当の自分なのか、次第にわからなくなってきます。
 大型連休には、この自分を見つめることに少し時間を作りたいと思います。
 「人が一番関心のあることは、自分だ。」と聞いたことがあります。さて、どんな自分が発見できるか楽しみです。