若い頃は、自分を生かすことで精一杯で、なかなか他人に目を向けることができないことが多いと思います。
私自身、全部自分で抱えて、自分の責任で何とかしなければならないと考えることが多くありました。
そのため、悩みや苦しみも自分の力で解消しなければならなという気持ちでいました。そして、実際に自分なりに今まで苦難を乗り越えるための知恵を培ってきたように思います。
しかし、よくよく考えてみると、自分ひとりの力で乗り切ってきたように思うことでも、実際には多くの人の支えがあって乗り切ってきたように思います。というよりも、支えがなくては乗り越えられないということだと思います。
自分自身が身に付けた価値観一つでもそうです。
価値観は、過去の体験によって作り出されてきます。それは、親から躾けられてきたことかもしれませんし、強烈な体験によって創り出されたものかもしれませんが、必ず価値観を作り出す人との関わりがあります。環境も同じです。必ずその環境を作り出す人がいたはずです。
そして、身に付いた価値観を元に、社会の中で生きていくわけですが、その価値観を武器にきっと人と関わり、相手や自分を評価しながら、問題解決に当たってきたように思います。
また、生きながら多くの価値観を身に付け、複雑にし、自分が生きる社会に適応しやすい自分に創り上げてきたように思います。
必ず、人との関わりの中で自分を磨いてきています。そして、これが、相手にも大きな影響を与えてきています。
言葉を通じて、人と関わることが多く、言葉が一人歩きして、誤った形で相手に伝わることもあります。その言葉を通して、また、多くの人が影響を受け合って生きています。
今ここで、私が書いているブログに目を通す人に何らかの影響を与えていることも確かです。
その人のもっている価値観によって、私のブログの価値が裁かれます。
よい評価をもらうとうれしくなります。悪い評価をもらうと自分を見つめなおす機会だ、どのように考えたらいいのだろうと真剣になります。
このように、有形にしろ、無形にしろ様々な形で私たちは、影響を与えたり、与えられたりしているということです。
だから、人には、親切にしなさいとか、思いやりをもちなさい、感謝をしなさい等と言おうとしているのではありません。
影響を与えている自分を意識することは、あるでしょうか。
影響を与えられている自分を意識することは、あるでしょうか。
相手のせいにして逃げているうちは、影響を受けないように自分の殻を閉じていることになりますが、この時でも、自分の殻を強くするために人の力を借りていることになり、やはり、影響を受けていることになります。
自分を責める場合も、同じです。
人との関わりなしに自分を生かすことはできません。
自分を見つめるのも同じです。人との違いを意識したときに自分らしさを見つけることができます。
人と同じであったら、自分か他人かわかりません。
実際の所、人はみな同じだということも確かです。しかし、ひとり一人みな違うということも確かです。
すべて、見方一つで考え方が変わるということです。
自分は、今、何を見ているのでしょう。
自分なのか、他人なのか、誰を見ているのでしょう。
他人の中に自分を発見することもあります。
この「他人の中に自分」を発見した瞬間に、相手の気持ちがわかる自分になるのではないでしょうか。
その時には、相手を責める気持ちは生まれません。
「自分も同じようにするかもしれない。」
「自分も同じように考えるかもしれない。」
「自分も同じように感じるかもしれない。」
平和な世界を作る人は、きっと自分と他人が同居している人なのかもしれません。
自分と他人の壁がなくなったとき、相手との関係がよくなるのではないでしょうか。
さて、私たちは、誰を見ているのでしょう。
私自身、全部自分で抱えて、自分の責任で何とかしなければならないと考えることが多くありました。
そのため、悩みや苦しみも自分の力で解消しなければならなという気持ちでいました。そして、実際に自分なりに今まで苦難を乗り越えるための知恵を培ってきたように思います。
しかし、よくよく考えてみると、自分ひとりの力で乗り切ってきたように思うことでも、実際には多くの人の支えがあって乗り切ってきたように思います。というよりも、支えがなくては乗り越えられないということだと思います。
自分自身が身に付けた価値観一つでもそうです。
価値観は、過去の体験によって作り出されてきます。それは、親から躾けられてきたことかもしれませんし、強烈な体験によって創り出されたものかもしれませんが、必ず価値観を作り出す人との関わりがあります。環境も同じです。必ずその環境を作り出す人がいたはずです。
そして、身に付いた価値観を元に、社会の中で生きていくわけですが、その価値観を武器にきっと人と関わり、相手や自分を評価しながら、問題解決に当たってきたように思います。
また、生きながら多くの価値観を身に付け、複雑にし、自分が生きる社会に適応しやすい自分に創り上げてきたように思います。
必ず、人との関わりの中で自分を磨いてきています。そして、これが、相手にも大きな影響を与えてきています。
言葉を通じて、人と関わることが多く、言葉が一人歩きして、誤った形で相手に伝わることもあります。その言葉を通して、また、多くの人が影響を受け合って生きています。
今ここで、私が書いているブログに目を通す人に何らかの影響を与えていることも確かです。
その人のもっている価値観によって、私のブログの価値が裁かれます。
よい評価をもらうとうれしくなります。悪い評価をもらうと自分を見つめなおす機会だ、どのように考えたらいいのだろうと真剣になります。
このように、有形にしろ、無形にしろ様々な形で私たちは、影響を与えたり、与えられたりしているということです。
だから、人には、親切にしなさいとか、思いやりをもちなさい、感謝をしなさい等と言おうとしているのではありません。
影響を与えている自分を意識することは、あるでしょうか。
影響を与えられている自分を意識することは、あるでしょうか。
相手のせいにして逃げているうちは、影響を受けないように自分の殻を閉じていることになりますが、この時でも、自分の殻を強くするために人の力を借りていることになり、やはり、影響を受けていることになります。
自分を責める場合も、同じです。
人との関わりなしに自分を生かすことはできません。
自分を見つめるのも同じです。人との違いを意識したときに自分らしさを見つけることができます。
人と同じであったら、自分か他人かわかりません。
実際の所、人はみな同じだということも確かです。しかし、ひとり一人みな違うということも確かです。
すべて、見方一つで考え方が変わるということです。
自分は、今、何を見ているのでしょう。
自分なのか、他人なのか、誰を見ているのでしょう。
他人の中に自分を発見することもあります。
この「他人の中に自分」を発見した瞬間に、相手の気持ちがわかる自分になるのではないでしょうか。
その時には、相手を責める気持ちは生まれません。
「自分も同じようにするかもしれない。」
「自分も同じように考えるかもしれない。」
「自分も同じように感じるかもしれない。」
平和な世界を作る人は、きっと自分と他人が同居している人なのかもしれません。
自分と他人の壁がなくなったとき、相手との関係がよくなるのではないでしょうか。
さて、私たちは、誰を見ているのでしょう。