ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

お子様の幸せを願って、メール、スカイプでの相談、面談を行っています。是非ご利用ください。

できることとできないこと

2009-12-31 | 育児
 いいことは、何でもしたいと思う。しかし、限界があり、どれもできることではない。ある一定の枠の中でどれがいいのか決めてすることになる。どれを選んだかということで、選んだことを問題にすることがあるが、それは大した問題ではない。何をするにしてもいろいろな方法があり、それは1つの方法であり、それがベストだと言い切ることはいつもできない。それよりもなぜそれを選んだのかの方が大事だ。
 目指す方向が違っていれば、どんな方法を選んでも目指す方向が違ってしまう。その事を見極めることの方が大事なのだ。保護者とトラブルを起きる場合、この方法でぶつかることがある。それぞれの家庭には、それぞれの子育ての方法があり、学校で指導していることとずれることはいくらでもある。ただ、目指す子どもの姿が同じならば、互いのやり方は認め合うことができる。ここをじっくりと話をし、互いに理解し合わないといつまでいってもつながらない。
 どの保護者も子どもを健全に育てたいと思っている。学校で目標を掲げている子どもの姿は、どの親でも納得できる姿である。だから、各家庭の目指す子どもの姿と一致している点を探し出すことはできるはずだ。この努力は、各家庭の保護者がすることではない。教師が各家庭に合っていることを伝えるところから始まる。学校のしていることへの信頼は、ここから始まる。家庭で育てたい子どもの姿に合致するように学校が支えているという感覚をもって保護者に当たりたい。
 子どもの一日の生活は、家庭よりも学校の方が長い。ということは、それだけ学校が負う責任は大きい。学校が傲慢になってはいけない。学校の職員は、数年経てば変わってしまう。しかし、家庭や地域はそれほど変わらない。だからこそ、家庭や地域に合わせることが大事であって学校に合わせることではない。学校は窓を広くし、どの家庭にでも当てはめられる内容をもっている。だからこそ家庭や地域も信頼し、支えようとするのだ。「うちは、学校と方針が違うから。」「学校は、学校、家庭は、家庭。」などと言わせてはいけない。常にどんな状況であっても学校が支える側になるだけの窓の広さをもって当たりたい。本来、苦情などあり得ないのだ。それぞれの家庭をサポート仕切れない学校の力不足があるだけだ。「もっと家庭を支えてよ。」という叫び声として保護者の声を聞きたい。ずれがあると思うから苦情にしてしまうのだ。いつでも学校は家庭や地域を支える存在でいたい。

思い通りにしたい

2009-12-30 | 育児
 きっと誰もが自分の思い通りに世界が動くといいだろうなと思っているだろう。実際に世界は自分の思い通りに動いている。それを実感しているか、いないかの違いがあるだけだ。
 思い通りにいかないと思ったとき、本当に思い通りになっていないのだろうかと深く考えてみる。思い通りになっていないとすれば、何かが抵抗している。その抵抗が大きいから、思い通りになっていないのだ。しかし、本当はその抵抗が自分の思い通りのことなんだ。
 一人になりたいと思っているのに、仲間の輪に入りはしゃいでいる時、仲間の輪を乱すことがある。すると、仲間からは空気が読めないとか、何しているんだと非難を浴びる。居づらくなって、輪の外に出て行く。その時、仲間への反抗を感じている。しかし、本当は一人になりたかったんだ。
 勉強をしたくないと思っている時に、勉強をしなさいと言われるといやな気分になる。無理矢理やらされている時は、学習姿勢が悪く、効率も悪い。そんな姿でいると、親から叱られる。そんな時、親に反発をする。勉強をしたくない自分が勝つ。
 好きな事をしているときでも同じだ。止めなさいと言われれば余計にしたくなる。無理に止めさせられるとそれに反発して、別の面でぶつかる。根に持っていろいろな所で反発をする。好きな事をさせてくれない人だと決めた瞬間からそれが始まる。そして、反発をしながら好きなことをし続ける。関係が悪くなってもしたいと思ったことをしている。
 いろいろな形で思い通りの自分を通している自分がある。自分の思い通りにならないことはない。
 実現しないと思っているのは、自分の中に実現しなくてもいいと言っている自分があることに気づくとほっとする。「そうなんだ。そんな気持ちも確かにあるんだ。」と。
 自分を深く見つめていくと、見えなかった自分が次第に見えてくる。本当の自分らしさは、そこにある。

年末に向けて

2009-12-29 | 育児
 いよいよ平成21年も残すところわずかとなった。一年を締めくくるために一度振り返る場を作ることができたら、次の年に向けての準備ができる。
 次の点で自分を一度振返ってみたい。
・今年新たに挑戦できたことは、何か。
・自分で成長したなと感じたことは、何か。
・周りの人に何らかの影響を及ぼしたと思うことは、何か。
・周りの人から影響を受けたと思うことは、何か。
 常に私たちは、人と共に生きている。このことを意識しないとエゴが顔を出す。そして、これが、問題を作り出す。人と比較することはあっても、それに優劣はつけたくない。自分らしく人と共に生きることができたら、「人は人。自分は自分。」と言い切ることができる。互いに至らないところは、補い合えばよい。それなら、互いを傷つけることなく、平和に暮らすことができる。決して自分の思い通りに人を動かすことではない。逆に動かされることでもない。傍にいても安心できる仲間でいたい。いくら上下関係のつながりがあろうともそれは、協力して一つのことを成し遂げるための上下関係であって、そのための組織の中の立場であったりすることになる。常に全体を意識し、自分のあり方を見つめていく。そして、その組織は家庭であったり、職場であったり、地域であったり、自分が作り出す集団であったりする。その時々の自分の立場が変わるし、顔も変わる。
 誰もが仲良く生きたいと願っている。そこで生きるための自分のあり方が挑戦になったり、影響を与えあったりすることになる。部分だけを見ていると見落とすことも多くなる。常に自分のいる世界の中心に自分を置き、自分の影響の大きさを意識し、共に生きるために自分のあり方を見つめてみたい。幸せな人生を送るために。
 来る年があなたにとって充実したよい楽しい年になりますように。

あなたが好きだから

2009-12-28 | 育児
 授業中に他事をしている子どもに注意をして叱ると、「どうして、僕ばかり注意するの?」「他の子は?」などと返事がくることがある。確かに他にも注意しなければならない子もいる。だからと言って、すべての子どもを注意していては、授業は進まない。だから、教師が全体に向かって話すことは、一人のために言っていることではなく、どの子にも伝えたいことだから、「注意されていない子にもなぜ注意をするのかわかってほしい。」という思いで話していることが多い。だが、その事は子どもには伝わらない。直接叱られる子と直接叱られない子では、受け止め方に違いが出てくるからだ。だから、すべての子を同じように叱ることはできない。逆にそれならば、叱らなくてもよいかと言えば、そうではない。やはり叱らないといけない。
 叱る側の姿勢がここで問われてくるのだ。まず、なぜ叱るのかということを見つめてみたい。
・他事をしていると授業を進める上で邪魔になるから。
・今、授業に参加しないと、しなければならないことが増えるから。
・授業を進めたいが揃わないと授業が進められないから。
・他事をしていることがみんなの迷惑になるから。
・授業に参加しないと今後あなたが困るだろうから。
・みんなで一緒に授業をしたいから。
・授業に参加しないと今後あなたが困るから。
・あなたも大事な一人で、放っておけないから。
 いろいろな思いがあるだろう。これらの思いの違いが叱るときの教師の表情の違いとなって現れ、子どもが叱られた時に理由を勝手に解釈してしまう。
 例えば、次のようにいろいろな子どもの思いを想像することできる。
「どうせ、先生の都合で僕を叱っているでしょ。」
「僕がいない方が本当はいいと思っているでしょ。」
「僕は馬鹿だから。わからなくてもいいんだ。」
「こうなったのは、教え方が悪い先生のせいなのになぜ叱られるのか。」
 こんな思いでいるとしたら、教師の子どもを思う気持ちが伝わっていないことになる。叱ることが愛情の証だとは考えられないのだ。
「先生は、あなたのことが本当に心配だから、叱っているんだよ。」「あなたを嫌いだから叱るわけではないんだよ。」「よくなってほしいから叱るんだよ。」と、10回20回言っても叱られた時の嫌な思いがあるとすべて飛んでしまうのだ。
 何度も他事をする子には叱ることで指導の効果を上げることはできないのかもしれない。なぜ授業中なのに他事をするのか、その理由を知り、いろいろと問いかけていくことが大事なように思えてくる。
 そして、「それが、授業に参加しなくてもすむ理由になるのだろうか。」、「どうして、そんな理由で授業にい参加しない自分にしてしまうのだろうか。」「何か不満はないのだろうか。」、「人のせいに責任を転嫁して逃げていることはないのだろうか。」、「そうしてしまう自分に何か足りないものはないのだろうか。」「それを続けることがどんな意味があるのだろう。」などと次から次へと知りたい内容が出てくる。そして、この疑問に対する返答の中から授業に真剣に迎えない子どもの問題を発見することができる。それと向き合わなければ、子どもを理解できず、子どもを自分の授業を進めるための道具として子どもを扱っていると言わざるを得ない。
 そして、この理解を通じて「あなたのことが本当に好きなんだよ。」という教師の子どもを思う気持ちを伝えることができるように思う。

光が見える

2009-12-27 | 育児
 子どもと必死になって格闘している時にちょっとした変化を見つけることは、とても嬉しくなる。
 教育実践は、まさにこの連続だ。子どもとの関係が少しでも深くなり、物事を追求する姿勢が高まったり、何か変化が見えてこないかと子どもを「これではどうか。」「これではどうか。」と見続ける。些細な変化であっても、きっとこれが問題解決の糸口になるはずだと藁をもつかむ思いで自分の指導と関係つける。そして、教育実践記録としてまとめるときには、指導の成果の可能性のあることを自分の取り組みとすることがある。
 自分の実践を積み上げ、経験を増やしながら技術を磨くという観点からまとめていくための取り組みならば、これでもいいだろう。しかし、これは、誰にでもできることではない。誰にでもできる取り組みとしてまとめるには、ある程度の量的な根拠が必要となる。これには、かなりのきめ細かな情報収集が必要となる。実践をしながら情報を集めることは、かなりの労力である。この場合、やはり仲間を集めて取り組む必要がある。
 先輩が後輩を鍛えていく環境は、今の学校教育の中では少なくなってきている。それは、どの先生にも多忙感があり、「私のために時間を使ってもらうのは申し訳ない。」などと遠慮してしまうことがあるからだ。学ぶ機会が少なくなれば、必ず教師の質も落ちていく。質を自覚すれば、質を上げることができる。しかし、子どもが変化しないことを子どもや保護者など外に問題があると考えているうちは、自分の問題を発見することができない。
 教育実践としてまとめることは、よい成果をまとめていくことではない。自分を見つめる機会であり、問題の発見の場なのだ。冬休みのこの時期をうまく活用し、今年度の教育実践をまとめてみることは、明日の教育につながる大きなエネルギーになる。

充実した毎日

2009-12-25 | 育児
 今年も残りわずかとなった。この1年を振り返ったとき、最初に頭に浮かんでくる言葉は何だろう。
 「挑戦」という言葉が浮かんだ。いろいろなことに挑戦したこの1年だ。いくつになっても新しい事に挑戦できることはとても素敵なことだと思う。挑戦しているときの時間は、とても充実している。不思議と効率が上がり、大きなエネルギーを感じて動いている。何かに支えられている気がする。また、挑戦している時は、何か事がスムーズに進みうまくいくことが多い。
 苦労を苦労と思わないでいる。新しいことの発見があり、これがとても新鮮で楽しい。どきどきする緊張感を味わうこともなんとなくゾクゾクして楽しい。こんな幸せな時間を過ごすことができたのは、自分一人の努力や姿勢だけではない。家族の理解と支えや周りの協力があって始めて叶えられることだと思う。
・時間の工面ができる。
・金銭面の工面ができる。
・人的な支援がある。
・場の提供がある。
 そして、ここに人が集まってくる。
 地道な一歩一歩ではあるが確実に前に進んでいる。とても幸せな時間を過ごしている。  
 これらは、きっと大きな愛に包まれているからではないだろうか。有難いことだと感謝の気持ちがわいてくる。
 充実した今を生きる。これが一番大事なことなのだろう。トラブルが起きた瞬間も、他人のせいにせず、うまく乗り越えられる。乗り越えられるだけのエネルギーをもっているからだ。日々の生活にある成功体験の積み重ねがエネルギーを蓄えることになっているのだろう。
 冬休みという自由な時間をうまく利用して、エネルギーを十分に蓄えてみたい。

仲良し

2009-12-24 | 育児
 子どもたちは、多くの問題を抱えて学校に来る。その問題を解消するために学校でトラブルを起こす子どももいれば、その問題にとらわれることなく学校生活を楽しく送ることのできる子もいる。ここで、大きく影響するのが、仲間との関わりだ。
 学校生活ではどの程度の仲間関係を築けばよいと考えているのだろうか。私は、男女の区別なく、年齢に無関係で仲良く活動できる子どもにしたい。(社会に出れば、これは日常的に起こりうることであり、好き嫌いを言って活動できることは少ない。)
 だから、次の活動での姿が重要である。
1 ペアでの活動
2 グループ活動
3 異年齢集団での活動
この時に、仲間関係を見る次の6つの視点で子どもを見て育てたい。
・自ら進んで関わろうとしているだろうか。
・相手に敬意をはらっているだろうか。
・協力的に活動しているだろうか。
・自分の思いを十分伝えているだろうか。
・相手の思いを十分受け止めているだろうか。
・活動に喜びを感じているだろうか。
 誰とでも仲良くするということは、このことが実現されたときの子どもの姿だと思う。
 しかし、深く関わりを求めるようになると、これが邪魔をすることがある。深い関わりを作りたい子から安定した安心感を求めるために、深く関わる子とそうでない子を区別して、独占しようとしたり、他の子どもを排斥しようとしたりする。これがトラブルを生む。
 大人であれば、うまく使い分けているが、子どもはそれほど器用ではない。というよりうまく使い分けるための学びが学校生活の中にあるのかもしれない。
 いつでも傍にいたいという気持ちを抑えきれないため、場をわきまえることができないということになる。授業中であっても、休み時間であってもいつも相手を視野に入れておこうとする。これが、活動を制限したり、活動の阻害になったりする。ここが自己中心的な子どもの一面が出てしまうのだ。私的・公的の場をうまく使い分けられる子どもにすることで相手に敬意を払うことになる。
 教師に子どもの仲間関係を見る6つの視点を見逃して、仲間関係を子どもに任せて指導しないでいると、子どもの人間関係を壊してしまったり、より複雑にしてしまったりする。子どもの人間関係を常に把握していることがトラブル解消の近道になり、活動のねらいにあった取り組みを意識させることがトラブル解消につながる。

本質をつかむことがゆとりを生む

2009-12-21 | 育児
 焦りは禁物。焦りがいい結果を生み出すことはない。「ゆとりをもって何でも取り組もう。」とよく言われる。しかし、目の前に起こるであろう事がうまくいくかどうか不安を感じている時に、焦りが出てくるのも自然な心の動きだ。
 万全に準備ができればいいが、万全に準備ができていなくてもしなくてはならないことがある。私たち教師にはそれが多すぎる。小学校であれば、全教科を教えなければならない。そんなときに毎日すべての教科の授業の準備を完璧にすて毎日を過ごすことは到底無理な話だ。一番大切にしかければならない授業であってもなかなか満足のいく準備ができることはない。
 しかし、考え方を少し変えるだけで焦りは消えていく。
1 万全の準備などはない。できることしかできない。
2 しなければならないことに振り回されてはいけない。
3 ねらいを具体的な姿としてイメージすればすることが減る。
4 この授業で絶対に欠いてはいけないことを明らかにする。
5 繰り返し指導することと今することを区別する。
6 学習姿勢ができていないことで焦らない。繰り返せば必ず身につく。
 授業を組み立てるときに複雑にいろいろ考えてしまうから、することが増えていく。この授業では何が大事なのかを追求する。これは、授業を単純にすることであり、同時に本質をつかむことになる。これができれば、後は、そのために何をすればよいのかが見えてくる。
 教科書会社が出している指導書には授業の一例が示してあるとして考えると楽になる。つまり、本質を追求するために何をすべきかということが書いてあると読み取るのだ。時間の経過に沿って書いてあることをすべてしようとしてもできるとは限らない。目の前の子どもの実態を知っているのは、授業者だけだ。子どもの実態に合わせて工夫しなければ、ねらいを達成できない。だから、教科書会社の出している指導書通りにすることではない。工夫と改善が必要となる。ここが授業者の力の見せ所だ。
 ただ、教科書を使わないで授業を進めると子どもも保護者も不安になる。子どもや保護者は教科書通りすることが学習だと思っているし、教科書の裏に隠れているねらいなどは知らない。だから、教科書をうまく利用しなければ、子どもや保護者の不安の解消にはつながらない。補足の説明に教科書を使ったり、教科書の内容と今しようとしていることを関係つけたりする。また、教科書を情報源として利用することもできる。
 ゆとりを生み出すだめの努力が本質の追求になると考えれば、今ゆとりがないからと言って焦ることもない。近い将来、ゆとりを生み出せる自分を創り出すための努力を今しているのだ。だから、若いうちの本質をつかむ努力は、ゆとりを生むための武器になる。

夢の実現

2009-12-20 | 育児
 子どもたちの生活を見ていると、目の前の楽しさだけを追っている子どもが多いように思う。興味関心を示したことにすぐに飛びつき、「しなければ、よかった。」と後悔する。我慢をして、夢の現実に向かってこつこつと努力することがなかなかできない。夢が段々大きくなるとその実現までの道のりも長くなる。だから、夢が叶わないから諦めてしまっているわけでもない。お笑いがブームになるのもよくわかる。目の前の面白さに飛びつけば、すぐにそれが手に入るからだ。
 考えられることは、一つ一つの目の前の小さな夢の実現を自信につなげていないからでないだろうか。
 人は不安を乗り越え、できたと思う瞬間に自信がもてる。しかし、「できて当たり前」と言われると、その自信は消えていく。私たちは、「できたよ。先生できたよ。」と笑顔で言ってくる子どもたちときちんと向き合っているだろうか。忙しさに流されたり、自分の価値観が優先したりして、素直に「すごいね。頑張ったね。」と喜ばないで、できて当たり前にしていることはないだろうか。
 もし、これが今の子どもたちを作っているとすれば、大変なことだ。まず、自信をもたせてやりたい。どんな些細なことからでもいい。認められることから一つずつ始めたい。褒めてよく育てるといわれるが、褒めるためではない。子ども自身に自信をもたせるために褒めるのだ。よさ見つけも同じだ。よいところを見つけることが目的ではない。子ども自身に自信がもてるところを見つけるためによさ見つけをするのだ。見つければそれで済むことはない。自信につなげるための手立てが必要なのだ。見つけた子どもよりも見つけられた子どもの姿を見ていないといけない。本当にそのことがその子に自信につながるかどうかだ。だから、よさ見つけをしたときには、仲間の拍手や教師の賞賛が重要なのだ。よさを見つけるだけに終わっている姿をよく見かける。
 夢の実現のために、日頃の自信の積み上げを大切にしたい。

所見への期待

2009-12-19 | 育児
 保護者にとって通知表の所見は、通知表を見る時の大きな楽しみである。手書きが少なくなった分、先生らしさは、文の表現に託されることになる。保護者は、「うちの子を先生はどのように見ているのだろう。」ということがとても気になるところだ。
 記述内容から次のような表現に整理できる。
1 事実を書く
2 能力を書く
3 その子らしさを書く
4 教師の思いを書く
<例1>歌を歌う
 1 リズムに合わせて、歌を歌いました。
 2 リズム感がよく、曲に合わせて体を動かして歌うことができました。
 3 明るく元気な声で歌を歌うことができました。
 4 お手本となって歌を歌うことができ、とてもすばらしいです。
<例2>掃除をする
 1 隅に落ちたごみを拾うなど丁寧に取り組みました。
 2 汚れを見つけ、きれいになるまで丁寧に掃除をすることができました。
 3 掃除分担の仕事を誠実に最後までする姿が見られました。
 4 部屋の隅のごみまで拾い、よく気がつく面も見られ感心しました。
 同じような表現であってもかなり書きぶりで違ってくる。保護者が知りたいのは、学校での生活の事実だけではないと思う。教師の顔が見える言葉を期待していると思う。

目の前の子どもを見る

2009-12-17 | 育児
 私たちは、目標に向かって子どもを育てている。育てるために自分のもっている力を精一杯使って今の状態から引き上げようと努力する。その時、自分の願いが常に子どもの前にぶら下がっている。
 「願う姿にするためには、この手を打とう。」
 「もし、こうなってしまったらどうしよう。困ったぞ。」
等と、子どもの行き先を考えたり、心配したりしている。
 しかし、これは、子どもを見ているようで子どもを見ていない。今の子どもの状態とは無関係に作り上げた自分の行き先の子ども像から子どもを見ていることになる。今の子どもの状態をきちんと見るということとは違う。
「この子は、何に悩んでいるのだろう。」
「何か困っていることはないだろうか。」
「どうして、こんな姿を示すのだろうか。」
「何がこういう行動をさせるのだろうか。」
等と子どもの今の状態への問いかけがなされて、初めて今の子どもを見ていることになる。
 一人ぼっちでいる子を見つけた時、仲間と仲良く過ごさせたいという重いから、遊びに誘って集団に入れようと指導することがある。入るきっかけがなかなか作れないで困っている子ならば、この指導は有効に働くかもしれない。もし、その子が仲間から疎外されていて入りたくても入れない状況だったら、この指導は効果を上げることはない。
 つまり、今の状況を的確につかまなければ、それに合った的確な指導はできないということになる。
 私たちは子どもへの指導に慣れてくると、自分の思い込みで子どもの状態を判断し、子どもに声をかけて指導してしまうことがある。そうではない。指導する前にきちんと子どもの状態をつかむ時間を作りたい。子どもの言い分を聞くのもそれに当たる。どういう状況で何をしたのかを聞くことによって子どもの状態をつかむことができる。
 口数が多いと子どもを観察する間を作ることができない。口数が多いということは、自分の願いを伝えようとしている姿であり、子どもを見ていない証拠である。口を出す前にまず、子どもを見たい。すぐに口を出すのは、危険な行動をし、命を守るために一刻も早く止めなければならない時だ。
 子どもへの願いが多くなると口数も多くなる。これは、教師の願いを伝えるだけで、子どもの言い分を聞くことができない。それでも子どもは我慢をして聞いている。そのうち、我慢できなくなると爆発する。目の前の子どもを見ているようで見ていないと、いずれ子どもから離れてしまう。
 指導がうまくできなくても、目の前の子どもをよく見て試行錯誤をし続ける努力をすれば、必ず子どもとの信頼関係を築き、遅々たる歩みではあるが、的確な指導ができるようになる。

通知表で伝わること

2009-12-16 | 育児
 いよいよ学期末となり、子どもも保護者も通知表を今か今かと待ちわびている。どんな評価が下されるのか、期待と不安で満ちている。
 そんな子どもや保護者の期待に沿う通知表を渡すことができるだろうか。そのための学期末の教師の努力は大変なものだ。日頃の取り組みから見つけた子どものよさや可能性をすべて伝えることはできない。いろいろ見つけた中からどれを選んで子どもや保護者に伝えることが、今後の子どもの取り組みに生きてくるだろうかと悩み苦しみながら通知表を作成する。
 項目ごとの評価については、絶対評価となり、その子なりの持ち味を示すことができる。しかし、これだけでは、子どもや保護者は満足しない。これらの項目で示された事実を担任教師は、どのように受け止め、どのように方向付けをしようとしているのか、知りたくなるものだ。
 子どもが自分のよさに自信をもち、可能性を追求しようとするために何に気をつけたらいいのだろう。どんなことに挑戦したらいいのだろう。その答えを作り出すヒントがもえらえると有難いと思う。
 事実を伝えるだけでは満足しないのだ。教師の思いや考えが知りたいのだ。そして、これが所見となって現れてくる。
 教師の所見は、子どもや保護者にとっては、一つの視点となる。「先生は、うちの子をこのように見ているのだ。」「こんなことに着目してみていてくれるのだ。」と教師の考えや思いを読み取ろうとするのだ。それがないとつまらない通知表となってしまう。
 「私ごときが所見を書くなんて。」とか「すべてを見ているわけではないので、間違っていては大変だから。」などと所見に自分の考えを書かないでおこうとする姿もあるが、これでは保護者は満足しない。誰も完璧な所見を期待しているわけではない。担任教師の見方が正しいということではなく、担任教師の見方が知りたいということだ。だから、それを示さないことが不満となる。日常的に子どもと関わりをもちながら、子どもを育てようとしている教師だからこそ示さなければならないのだ。
 その子を思って日頃していることは極端な指導かもしれないが、実際にしていることだ。それを理解してもらうためにも所見として自分の思いを示すことが子どもや保護者からの信頼を得ることにつながる。だから、ここはしり込みをしている場合ではない。未熟であっても堂々と所見を書くことが重要なのだ。自信は後からついてくる。まずは、ごまかさないで子どもや保護者の前に正々堂々と立つ自分を築きたい。結果は後からついてくる。

行動とその背景

2009-12-15 | 育児
 教育をすると行動が変わっていく。日々の実践は、子どもの行動の変化を見て、その育ち具合を見つめていることになる。子どもの変化に一喜一憂して教育実践の糧にしている私たちだ。
 しかし、その行動だけを見ていると、落とし穴にはまってしまう。子どもの行動を支える意識は何だろう。どんな背景があって今の行動を取っているのだろうと考える。つまり、「教師が言ったからするのだろうか。」、「友達がしているからするのだろうか。」、「教師の言ったことがよいと思ってするのだろうか。」、「せざるを得ない状況になったからするのだろうか。」、「褒めてもらいたいからするのだろうか。」それとも、「ねうちを感じてするのだろうか。」どれなんだろう。いろいろと考えることができる。
 この背景を探ると、指導したことがこれでよかったのかを探ることができる。私たちが目指しているのは、子どもの自立だ。だから、教師がそばにいないとできない姿では、本当に育ったことにはならない。
「この子は、本当に育ったのだろうか。」「この環境だからできるのではないだろうか。」と子どもの育ちを疑ってみたい。
 子どもが教師が見ていないところでも同じ行動を取るとすれば、それは、本物だ。教師に認められたいからではない。ひょっとすると、教師の顔が浮かぶのかもしれない。その行動を取ると気持ちよくなったり、さわやかになったり、充実感を感じたりするからかもしれない。ここが大事だ。
 子どもたちが教師のいないところで見せる姿をつかみ、子どもの育ちを確認しなければ、自己満足に終わってしまう。
 子どもの育ちをつかむためには、教師から離れたところでの子どもの姿についての情報をどれだけつかめるかが重要になる。
 同僚や子ども、保護者等からの情報、記録等といろいろと集めることはできる。この情報収集が子どもの育ちを確かなものにする。教師がいないところでもできる姿を見たり聞いたりすれば嬉しくなる。「やってよかったな。」と充実感を感じることができる。そして、「この指導はよかった。」と確信を得る。
 目の前の姿だけでなく、見えない背景を見ようと努力するところから始めてみたい。きっと素敵な子どもの新しい一面を発見することになるだろう。

ノート作り

2009-12-14 | 育児
 授業中に板書をノートに写している子どもの姿を見ると、とても辛い気持ちになる。それは、自分のノートは、自分の考えで作り上げたノートになっていないからだ。板書を写している時、写すことだけに集中し、なぜそんな板書になるのかを考えていない子どもが多いように思う。授業では、学習した内容を理解することが目的であって、間違えないように写すことが目的ではない。板書は、自分の考え作りのためにあくまで参考にしたり、不足を補ったりするもので、決して写すことではない。友達が話している間も一生懸命に板書を写している子どもがいる。「何を聞いているの?」そして、「今考えないで、いつ考えるの?」と言いたくなる。
 きっと家に帰って復習に生かすつもりで写させているのだろうが、今理解しておかないと家で苦労するだけだ。わかって書いたものではなければ、意味がない。
 それならば、自分の作ったノートに補足のためのメモや強調のための工夫などを教え、聞きながら短い時間で書き込む力を身につけさせることが必要だ。考えながら聞く。そして、足りなかったら補う。そんな構えで授業でノートを作らせたい。常に思考を働かせ、自分がより深く理解するための道具としてのノートに作り上げるようにさせたい。
 聞きながら書くということは、かなり高い能力が必要だ。話し合いの最中に聞きながら書けるのもほんのわずかとなる。このことを考えると、話をしたり、聞いたりする時間と書く時間をきちんと分けて授業に取り組ませるところから始めないと考えながらのノート作りはうまくできない。
 だから、書いたことを使って振り返りができる自分らしいノート作りは、子どもに任せるまでの丁寧な指導が必要である。
・板書を使って、振り返りの時間を作る。
・色や線、→等を使って強調しながら、板書を構造的にわかりやすく説明する。
・色や線の使い方の約束を示す(作る)。
・書く内容を確認したり、思考の流れを確認したりしながら、説明する。
・教師の指導したことを真似るように指示したり、ノートに一緒に書き込むように話したりする。
・聞きながら、一緒に書き込む方法を教える。
・自分ですでにノートに書いてある内容は書く必要がないことを教える。
・短い言葉で短時間でまとめることを教える。
 このような指導をしないと、自分の考えに付け加えるためにメモしたり、強調したり、仲間の話を聞きながら書き込むことができるような力を身につけさせることはできない。子どもに任せきりになっているから、子どもは板書を写せばよいという安易な方法を身につけていくことになる。教師のキメの細かい指導が十分なされていないと板書を写す子どもになっていく。

語ることができるか

2009-12-13 | 育児
 自分に自信をなくしている人が多い。世の中に情報が多く流れているから、その情報に振り回されてしまう。その情報についていけない自分を見た時、自信を失う。しかし、本当に自分にとって必要な情報なのだろうか。自分が今の自分を精一杯生かすためにどんな情報が必要なのかを選んでいる自分はあるだろうか。与えられた情報に自分をかき回され、自分自身を見失っている自分ではないだろうか。人の期待に応えようと情報にしがみついている自分ではないだろうか。人の目が気になり、自分を偽って扱っている情報はないだろうか。
 そんな状態で自信をなくしている自分があるとしたら、集める情報は、ほとんどが無意味な情報でしかない。無意味な情報をいくら集めても意味がない。自らに必要な情報をいかにうまく集めることができるかが重要なのだ。見たいものしか見えないのが私たち人間だからこそ、もっと自分に焦点を当てて必要な情報を集めたい。
 子どもは、私たちほどの情報収集能力があるわけではない。むしろ情報収集能力が育つ段階にいる。だから、目の前の子どもにとって必要な情報は、何かを常に考えながら、的確に子どもたちに伝えることが教師としての重要な働きとなる。教師の都合ではなく、目に前にいる子どもにとって大事な情報だからこそ、語りたいと思う。「今、この話は、あなたにとってとても大事な話なのだ。」という思いをもちながら子どもに伝えることができたら、子どもたちの聞く姿も違ってくる。もし、語れない自分だとしたら、子どもを見ていないのかもしれない。もし、必死に教師の話を聞こうとする子どもになっていないとすれば、話す内容を吟味したい。そして、語る自分を振り返ってみたい。必死になって語る自分なのか、本当に必要感を感じている話をしている自分なのだろうか。子どもたちに伝えたい内容を十分吟味しながら、子どもと真剣に向き合う教師でいたい。