ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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食べ物の好き嫌い

2012-07-30 | 育児
 誰でも好き嫌いがあると思います。私は、体験的に「食べ物のの好き嫌いは、人の好き嫌いにつながる。食べ物の好き嫌いの多い人は、人に対しても好き嫌いが多い。」と感じていました。

 そのため、子どもたちには、給食の完食を求めて指導をしてきました。

 好き嫌いという感覚が、体のどの部分で強く感じるのかを探ってみました。

 すると、私の場合は、左胸の少し上の部分で「嫌い」を強く感じ、ちょうど心臓のある部分で「好き」を強く感じます。
 この強く感じる位置は、食べ物であっても、人であってもさほど変わりません。

 つまり、対象とは無関係にこの感覚が現れる時に好き、嫌いを区別しているということになります。

 食べ物の好き嫌いは、体感覚で味わっていることが多くあります。
・この食感が嫌いだ。
・このにおいが嫌いだ。
・食べたことがないから嫌いだ。
・見た目が悪いから嫌いだ。

 幼い頃は、食べた体験が少ないため、食べず嫌いということがよくあります。

 食べ物の好き嫌いをなくそうと母親が食材の形を変えたり、味付けを変えたり、食べやすいように調理法を考えるのは、この「嫌い」につながる体感覚を変えながら、食材に対するイメージを変えようというもので、母親の知恵だと思います。

 その努力ができない私は、給食時に目の前に出された食べ物を強引に食べさせることだけをしていたように思います。

 「牛乳が飲めるようになったのは、先生のおかげです。」等という保護者の声を聞くと、さらに強引になって子どもを指導していた私がありました。

 実際に成功した事もありますが、すべて成功するとは限りません。子どもが努力し、少しずつ改善する方向にもっていく方が、達成感や自己充実感を味わうことになります。

 「私は、努力をすれば、変えることができるのだ。」という自信が次につながると思います。

 もし、「先生が食べなさいと言ったから、食べたのだ。」という姿勢で食べ続けたとしたら、きっと担任を外れた時点で、食べ物の好き嫌いは元に戻っているかもしれません。

 あくまでも、食べる本人の意志が重要だと思います。それをフォローするのが教師としての私たちの役目だと思います。

 食育が叫ばれる今の時代、どのように食事を考えるかは、教師次第です。子どもが明るく健やかに育つように指導のあり方を見つめることがとても重要です。

自然体で

2012-07-23 | 育児
 私たちは、教師である前に人間です。教師というのは、私という人間のほんの一面でしかありえません。しかし、教師になった以上、その顔をはずす訳にはいきません。
 自分の意志とは別に教師として見られている自分があります。
 何か問題が起こった時に、必ずあなたの職業は?と問われ、好むと好まないとにかかわらず教師としての顔が出てきます。
 これは、隠すことのできない宿命でしょう。
 街を歩いていても、車に乗っていても、教師の顔を出さなくても、一般的に教師ならばきっとこうあるべきだと作られた価値観が、ついて回ります。

 このことは、誰でもわかっています。

 そして、これが自分の行動の制限となってと少なからず感じるところです。

 この制限を強く感じるとなると、自分らしさではない生き方を迫られることになります。

 い・・・飲酒運転
 い・・・淫行
 こ・・・個人情報の漏洩
 た・・・体罰
 こ・・・公金横領

 あんないい先生がなぜ?と言われる人が事件を起こしたという記事がよく新聞に載せられます。 

どの事件も根っこは同じように思えてなりません。

 光と影

 光が強いと影も濃くなります。

教師として力を入れて頑張りすぎる時は、光が強くなります。その分反動が大きくなります。

 誰も完璧な人はいません。教師も同じです。

頑張りすぎるとどこかで闇を作ることになります。

 教員のあり方について締め付けを強くし、あたかも聖人君子を目指すようにきまりを増やしたり、制限を加えたりすることがあります。

 これでは、事件が減るどころか増える一方だと思います。

 つまり、制限を加えることは、光の部分を強くすることに他なりません。その分、影も強くなります。

 制限があっても、「それは当たり前のことでしょ。」と軽くいなせる程度の自分であって欲しいのです。

 普通の生活をしていたら、事件など起こるはずがないと言える自分がここにはいます。

 いつ見られても平気な自分
 あたならしくていいよと言われる自分
 画一された教師像ではなく、個性を十分発揮している自分

 これは自然体です。

 もしかすると、自分らしさを見つけられないのかもしれません。
 苦しんでいるから、せめてマニュアル通りに動こうとしているのかもしれません。
 
 教師として選ばれたあなたは、「あなたのもつ人間性は、教師として相応しい。」とすでに認められているのです。
 
 あとはそれを磨くだけです。

 自分のペースで、長い年月をかけて磨くだけです。

 無理をするから、反動が大きくなるのです。病気になったり、事件を起こしたりすることになってしまうのです。

 常に自然体でいたいと思います。

 こどものために何ができるだろう。
 子どもたちが幸せになるように何をしようか。
 子どもたちから憧れる生き方をしよう。

 教師として自然に考えていることが自分の憧れる生き方につながるはずです。
 
 失敗は学びです。子どもたちにもそれを伝えている私たちです。

 自分をごまかすことなく、素直に自らの生き方を子どもの目の前にさらしていいのです。

 自然体でいれば、大きな失敗にはつながりません。大きな失敗は事件につながります。

 誰もが完璧ではないのです。誰かが作り上げた教師像などは、あこがれにはなりません。

 自分自身で描いた教師像しか描けないのです。

 長い年月をかけてじっくりと磨き続けたいと思います。

 自然体で。

授業の質を高めるためのルール作り

2012-07-17 | 育児
 子どもたちが安心して授業に参加できるように、どの発言の後にも拍手を送ったり、賞賛の言葉を送ったりすることがあります。
 どんな発言でも互いに認め合える仲間になることが前提ですから、これはとても大事なことです。
 ただし、認め合うというのは、発言の内容ではなく、発言した本人を認めているのです。
 ですから、発言の内容を問うわけではありません。
しかし、授業の質を高めるためには、発言の内容を問題にしなければ、質を高めることはできません。
 これには、不安がつきまといます。間違っていたらどうしよう、自分の解釈がおかしいのではないだろうかと発言を躊躇する気持ちになってしまいます。
 しかし、十分に違いを認め合い、お互いに自分の考えを自由に話せる場が保障されていれば、安心して発言できます。それを作るための発言の後の拍手や賞賛の言葉であったのです。
 質を問題にするためには、どうしても乗り越えなければなりません。この根底には、一人一人の考え方は違っている(間違いはない)、みんなで1つの考え方を作り出すのが授業だという構えが前提として必要になります。

 そのためのルールが新たに必要となります。

 発言の後の拍手や賞賛の言葉を送っているとその拍手や言葉に焦点が当たり、発言内容に焦点が当たりません。
 つまり、発言内容に焦点が当たるようにするためのルールが必要になるということです。
 拍手や賞賛の言葉よりももっと素敵な取り組みがあることに気づかせる必要があります。

 これが、新たなルール作りです。

それは、発言した話し手の言葉とつなぐことです。

 「~さんの言うことがよくわからない。」 
 「~さんの○○に付け足しで・・・・」
 「~さんの意見とは違って・・・・・」
 「~さんの意見と似ていて・・・・・」
など、自分の考えと比べて話すのです。

 ここでは、拍手や賞賛の言葉は不要です。逆にそれが自分の考えと比べる妨げになります。
 私たちは意識を一度に2つに向けることはできません。比べることに集中させているときには、拍手や賞賛の言葉などは生まれません。逆に拍手や賞賛の言葉を送っている時には、言葉の内容を聞いていなくても拍手や賞賛の言葉を送ることができます。つまり、発言の内容とつながらないで、思考が切れている状態になります。
 これでは授業として、無駄な時間を過ごすことになります。

 いつまでも拍手や賞賛の言葉が必要な授業だとすれば、それは授業以前の問題があると考えた方がよいでしょう。つまり、人間関係を築く手段が不足しているのです。授業以外の場面でも人間関係を密にする活動を仕組み、授業でも互いを尊重し合う人間関係を築くための働きかけを増やす必要があります。

 授業の質を高めると、授業の質を高めるために貢献した子どもが認められることになります。その可能性はどの子にもあります。
 授業の質を互いに求めようとする所に相手のよさを見つけられる子どもになれば、よい発言をすることに意義を求める子どもになります。

 拍手や賞賛は、そのよい発言をした時にこそ、生まれるのです。

 一旦、拍手や賞賛は脇に置き、授業の質を求める子どもにするために、自分の発言と仲間の発言を比べることに焦点を当てて発言をさせる授業を目指したいと思います。
 
 この時に大事なことは、仲間の発言に対して、「わからない。」と平気で言える学級になっているかどうかが重要です。
 「わからない。」という発言の前提には、「相手の話をわかろうとしている。」があります。これを教師が認めることで、「わからない。」が言いやすくなります。比べるためには、まず相手の発言を理解することから始めなければなりません。それが一人一人を認めることになります。拍手や賞賛の言葉がなくてもいいのです。
 つまり、「わからない。」「~と付け足しで・・・」「~と似ていて・・・。」などの発言はすべて、相手を認めているからできる発言です。
 ここに焦点を当てることの方が質が高いことはすでにおわかりでしょう。

 今まで話をした後に拍手がなくなったり、賞賛の言葉がなくなったりすることで不安を抱くのではと考える方もいるでしょう。
 しかし、次の子どもの発言の中に「~さんと・・・・」という言葉があれば、子どもは不安を抱くことはありません。自分が認められているという感覚を味わうことができます。
 名前を挙げることが不安の解消につながります。
ですから、きちんと話し方を教えておくことはとても重要です。

 授業の質を高めるためには、今まで培ったルールを壊さなければならないことがあります。より質の高い発言を意識できる子どもにすることが子どものためです。

 今作り上げている授業は、質を生み出す授業になっているか見つめ直したいものです。

常に現在可能な最善を尽くしている

2012-07-09 | 育児
 わたしたちの目の前で、子どもたちは様々な姿を見せてくれます。
そして、その一つ一つに価値判断をし、子どもを評価しています。
 人が話をしているときに、話をよく聞こうとしている子どももいれば、そうでない子もいます。
 もし、私たちが、話をよく聞こうとしている子を学習に前向きなよい子だ。そして、聞いていない子は、学習に対して消極的でだめな子だと判断したとすれば、それはその教師の価値判断によるものです。これが正しい判断かどうかは別です。

 もし、聞いていない子が話がよくわからないから、聞いても仕方がないと思っていたとしたら、その子は、学習に対して取り組みが悪いと言い切ってよいでしょうか。わかるように話をしたならば、学習に積極的に取り組むかもしれません。
 また、逆に話をよく聞こうとしている子が、「先生に褒められたいから一生懸命に聞こう。」と思っているとしたら、本当にその子は学習に対して前向きだと考えてよいしょうか。学習内容も十分理解せずに、ただ、教師の顔色を伺っているのであって、学習に興味関心があるとは言えません。

 これは、極端な例ですが、目の前の現れる子どもの姿だけで判断すると間違った判断を下すことになるということです。
 
 私たちは、子どもの自立を願っています。これは、自分の価値判断で行動する子どもです。

 行動の裏にある思いを十分に汲み取らないと間違った判断をしてしまいます。

 誰もがわかりたい、知りたいと思っています。

しかし、過去の体験や経験の違いから行動の仕方が異なってきます。

 うまく自分を表現できない子どもは、常に損をしてしまいます。うまく甘えられない子どもが損をしてしまいます。

  
 教師の価値判断が、子どもの状況を見誤ってしまうことになることがあります。また、誤った指導をしてしまうことにもなりかねません。

 学びは、その子その子のレベルになります。それぞれの学びの上に積み重ねていくしかないのです。

 学習でつまずきの多い子どもは、そのつまずきを取り除き、補う所から始めなければ、積み上げにはなりません。でないと足下から崩れてしまいます。

 いつも力になるのは、過去の体験や経験です。

 話し下手な子どもは、話す体験や経験が少なく、話すことに自信をもつ機会が少なかっただけです。話し下手になろうと思って話し下手になったわけではありません。話し下手な子はその子なりに精一杯頑張っています。それしかできないのが今の姿です。
 教師に反発する子がいます。わかってもらいたいと思いつつも、うまくそれを伝えることができないために反発しているのかもしれません。これも過去の体験や経験の中にうまく伝える術を学ぶ機会がなかっただけです。反発しながら、「先生、こっちみて。」のサインを出して関わろうとしているのかもしれません。
 うまくものを扱えない子どもがいます。扱い方を知らなかったり、扱い方の意味がわからないために粗末に扱ったりしていることがあります。これも体験や経験がないからです。現状のミスを叱っても力になりません。欠けていることを補うしかないのです。体験や経験を重ねるしかないのです。

 どのように頑張っても、過去の体験や経験から学んで身につけたことしか、武器にはなりません。

 できないからと言って責めることは、子どもに自信をなくさせることでしかありません。

 できない状況があるだけです。そこから始めるしかありません。責めたくなるのは、教師に子どもに合わせる力がないと考えた方がよいでしょう。
 

 評価の時期になりますが、子どもをだめにしているのは、教師の価値判断ではないかと、自分を見つめ直す機会でもあります。

 どの子も今置かれた状況の中で、常に現在可能な最善を尽くしています。

 本当にその子どもを活かすために、努力することは、まず、よく観察をするところから始まります。そして、子どもが最善を尽くしていると思えた時、子どもを評価することなく、「ああ、一生懸命なんだ。」と心から応援したくなります。そして、その子らしさを評価することができます。

 絶対評価で、客観的に評価することが求められていますが、これは、個々の能力を正確に見届けるためのものです。
 大事なことは、評価することではありません。その評価を元にどのようにその子を育てるかが重要です。
 どのような体験をどのように積み上げれば、その子が伸びるのでしょうか。ここがポイントになります。

 評価のための評価をしているうちは、子どもを育てることはできません。

 どの子も常に可能な最善を尽くしています。
その上に立って、教師として、できることは何かをじっくりと考える機会として今の時期をとらえたいと思います。

学習の4つの段階

2012-07-02 | 育児
 私たちは、子どもに力を付けようと日々の教育活動を行っています。この時に大事にしたいのが、学習の4つの段階です。
 
 若い頃は、何を教えたらよいかということを知り、それを子どもに与えるだけで精一杯の時期がありました。次第にそれだけではいけないと感じるようになりました。

 それは、教えられたとしても子どもの力になっていないことがあることに気づいたからです。

 教えても、力を付けていなければ、教えたことにはなりません。

つまり、学習の成立は、教えられた側次第だということです。

 教えられる側の子どもをよく理解しないと、効果的に教えることはできません。ですから、常に子どもの反応を知ることが重要になります。

 学習は車の運転ができるまでの過程と同じです。

1 知らないからできない段階(無意識的無能)
  運転の仕方を知らないから運転できない。
2 知っていてもできない段階(意識的無能)
  運転の仕方を知っていても運転できない。失敗をし続ける。
3 意識すればできる段階  (意識的有能)
  習ったことを意識して運転すれば、運転できる。
4 意識しなくてもできる段階(無意識的有能)
  意識しなくても運転できる。
 これらの段階を引き上げるには、インパクト(強い衝撃)と繰り返しが必要です。

 学校での多くの時間は、1の段階から2の段階に引き上げることに費やしています。2の段階から3の段階に引き上げるために、宿題を出し、学習の補充を家庭にお願いしているのが現状です。

 子ども自身が自ら学習を進められるようにすれば、子どもなりに時間を見つけて学習の時間を作ることになります。

 しかし、現実的には、宿題だからしなければならないという思いで学習に取り組む子どもたちが多いと思います。

 これは、自習の仕方についての仕方が身に付いていないから自習ができないと考えた方がよいでしょう。

 宿題のように言われたことしかしないという学習に慣れているため、自習ができないのです。

 自習ができる子どもに育てるにもやはりこの学習の4つの段階が必要になります。

 1 自習の仕方を教える段階
  時間の使い方、めあての立て方、点検の仕方、ノートの使い方、
  学習したことの活かし方、参考図書の利用の仕方 等
  かなり教えることがたくさんあります。
 
 2 自習の仕方に慣れる段階
  教えてもらってもできない段階ですから、繰り返しが必要です。
  少しでも自ら取り組めば○ということもあります。
  何を使って学習したのかを見直すこともあります。
  取り組み方を褒めて、充実感を味わわせることもあります。
  繰り返しこれらを行います。
 
 3 意識すれば自習ができる段階
  自習の時間を設定して取り組めばできる段階になります。
  学習することのおもしろさやたのしさを実感することが増えれば、
  学習嫌いにはなりません。繰り返し自習を行いながら、価値を見い
  出すことができる段階です。どんどん褒めて意識すればできる自分
  に気づかせる必要があります。

 4 意識しなくてもできる段階
  学習する機会が必要だと思わせるような取り組みを用意することが、
  自ら進んで学習する機会を作ることになります。
  やり方はすでに身に付いているので、意識しなくても自分らしい自
  習ができます。機会を作るように促すことが教師として重要なはた
  らきかけになります。

 常に子どもが学習の4つの段階を経て、身につけていくと考えると、私たちはもっと子どもたちに教えることがあることにびっくりします。

 子どもたちも求めているものです。教師がまず、この4つの学習の段階を意識し、日々の子どもをじっくりと観察し、今目の前にいる子は、~について今どの段階にいるのかをじっくりと眺める必要があります。