ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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創造的であること

2010-09-29 | 育児
 子どもを育てるために、私たちは、様々な努力をしています。しかし、その努力には、自分で決めたこともあれば、人によって決められたこともあります。
 みんながやっているからとか、みんなと同じだと安心するからだとかと考えているうちは、本気で子どもを育てることには、なりません。
 借りものになっているので、その取り組みが本当にねうちがあるかどうか吟味が十分なされないまましているからです。
 自分なりに一生懸命に考えて、創り上げた取り組みならば、だれもが必死になるはずです。その考えそのものが自分であり、自分の大切にしたいものになっているからです。
 この気持ちがあるときに本気になれるのです。ですから、借りものであっても、自ら創造したと思えるまで、自分なりに納得することが大事だということです。
 常に私たちは創造的でなければなりません。子どもたちは、それをよく見ています。
 教師が創造的になれば、子どもたちも多少技術がなくても、信頼して着いてきてくれます。
 ここが教育のおもしろい所です。決められたことを決められたようにすることでは、教える教師側もおもしろくないはずです。 
 教材研究一つとらえても同じです。教科書に書いてあることをそのまま教えていると創造的にはなれません。こなすだけの授業になります。 
 子どもたちにどのよう手だてを打てば、もっと興味をもって取り組むだろうと考えたり、あの子には、どうしてもわかってもらいたいと思ったりするから、創造するのです。
 子どもを育てたいという強い思いがあれば、誰もが創造的に取り組めると思います。
 もし、創造的でない自分があるとすれば、自分の生活をもう一度見つめ直してみる必要があると思います。
 創造した取り組みが、うまくいくかどうかとは関係はありません。創造する取り組みそのものが重要なのです。
 苦手な分野については、どうしても避けて通りたくなります。せめて、みんなと同様にできればよいと考えがちです。苦手な分野こそ、変化しやすいと思います。そのことに挑戦することがすでに変化になります。 
 どんなことにでも、常に創造的であろうと心がけるところから始めたいと思います。

本質が見える

2010-09-26 | 育児
 私たちは、子どもに生きて働く力を身につけさせたいと常に願って、指導しています。
 この生きて働く力というのは、物事の本質をとらえたものでなければなりません。
 形だけになっていると、場が変わったり、条件が違ったりすると通用しなくなります。すると、一つ一つ、場に応じた形を教えることになり、教えることがどんどん増えていきます。
 しかし、本質を教えたとすれば、それは、場が変わったり、条件が違っても変わらないため、同じ事を教えるだけになります。場や条件に合った形は、子ども自身が考えることによって創造されるはずです。
 このことを考えると、本当ならば、子ども自身が考えて生み出すところを私たちが、教えてしまい、子ども自身の考える機会を奪っていることがないだろうかと反省させられます。
・時間がないからといって、つい教えてしまうことはないでしょうか。
・これは、子どもでは考えられないからといって、つい教えてしまうことはないでしょうか。
・教えた方が効率がよいといって、つい教えてしまうことはないでしょうか。
 私たちは、子どもたちを信じて、じっくり待てなくなっているように思います。
 本質は、それほど多くありません。
 その本質をつかんでいないから、教えることが多いように勘違いしているのではないでしょうか。
・本質を極める教材研究をしているでしょうか。
・子どものもっている本質を探ろうと常に探求し続けているでしょうか。
・集団の本質を見抜き、鍛え続ける経営をしているでしょうか。
 子どもの姿を力で変えることは、簡単です。しかし、子どもが喜んで姿を変えようとする力を身につけさせることは容易ではありません。
 これには、教師がいかに本質を見抜く力をもっているかどうかにかかっているのです。
 「先生、どうするの?」と尋ねてくる子どもに「このことがわかっているのならば、あなた自身で考えることができるはずだよ。」と言い返し、自分で考えて創り出した時、「それで、いいんだよ。」と認め励ましている私でしょうか。
 それとも一つ一つ丁寧に「それは、こうするのだよ。」と教えている私なのでしょうか。
 知らないからできないというのならば、知る必要があります。気づかないでいるのならば、気づく必要があります。本質かどうかは、子どもの反応を見るしかありません。
 これは、年齢に関係はありません。高学年だから、本質を教え、低学年だから形を教えればよいというものではないのです。常に本質を見極め教える教師でなければなりません。
 低学年の子どもは体験が少ない分、繰り返しが多くなるだけです。逆に低学年程柔軟であるから、本質を大切にした方が、応用がきくはずなのです。
 私たちは、自ら動き出せる子どもに育てているだろうか、子どもの反応を見ながら本質を見抜いているだろうか、探り続けたいと思います。この取り組みが実践者としての教師だと思います。

エネルギー

2010-09-23 | 育児
 私たちは、一瞬一瞬にエネルギーを使って生きています。そのエネルギーの量は人によって決まっているのではないかと感じるようになりました。
 何にエネルギーを使うかによって、かなり成果が違ってくるように思います。
 これを授業で考えて見ます。
学習姿勢が身についていなければ、学習姿勢作りにエネルギーを費やします。学習姿勢が身についていれば、そのエネルギーを学習内容の習得のための支援に回すことができます。
 授業中に話を聞くことができない子が多ければ、話を聞かせることにエネルギーを使います。授業の質を高めるためには、学習内容の習得のために多くのエネルギーを費やすことではないかと考えています。
 授業を円滑に進めるための注意にもエネルギーが必要です。これは、無駄なエネルギーです。できれば、使いたくないエネルギーです。
 このように考えると本当に使わなければならない事に私たちはどれだけエネルギーを使っているだろうかと考えさせられます。
 悩みや苦しみなどにもエネルギーを費やします。深ければ深いほど、多くのエネルギーが必要になります。
 さくさくと事を進めていけばすむことなのに、悩みや苦しみがあるために事が進まないとすれば、かなり無駄なエネルギーを使っていることになるのかもしれません。
 深く考えることが無駄だというのではありません。深く考えた分、成果が上がれば、エネルギーの無駄使いにはなりません。
 気持ちを切り替えるにもエネルギーが必要です。いやな気持ちが残っていれば、それを打ち消すためのエネルギーが必要となります。
 私たちが趣味や嗜好と呼んでいる事の中にひょっとしたら、無駄なエネルギーを使っていることはないだろうかと問うことがあります。
 例えば、気分転換に喫茶店に入ってお茶を飲むことがあります。お酒を飲むのも同様です。
 お茶やお酒が好きだから、それにエネルギーを使っているというよりも、気分を変え、新しいエネルギーを作り出すためにエネルギーを費やしているとすれば、もっと効率のよい気分転換の方法は、ないだろうかと考え直すこともできます。
 癖のように当たり前にしていることがひょっとすると無駄なエネルギーを使っているのかもしれません。
 限られた時間を有効に利用するためにも自分にとって本当にエネルギーを費やさなければならないことは何だろうと考えることは無駄ではないように思います。
 自分の人生を自分らしく生きるということは、自分らしいエネルギーの使い方ができることのように思えてなりません。
 もし、自分に使命というものがあるとすれば、その使命のために多くのエネルギーを使うことが充実した人生を送ではないかと思います。
 さて、私の使命は、何でしょう。自問自答している毎日です。

今を育てる

2010-09-22 | 育児
 私たちの脳は常に働いています。常に刺激を受けているので、考え続けています。
 目の前の子どもの姿を見ていても、過去の出来事が思い出され、「こんな姿があったな。」「こんな思いでいる子なんだろうな。」などと考えたり、未来を予測し、「この子は、これからどんな姿になっていくだろう。」「こんな子になってほしいなあ。」などと思い描いたりしながらと絶えず、脳を働かせています。
 これはすべて現実ではなく、教師が創り出したイメージの世界でしかありません。
 そのイメージがよければ、まだよいのですが、悪ければ、いつもそのイメージを変えようと目の前の子どもに改善のための指導をし続けます。
 これが、子どもにとっては大変辛いものになります。
教師が勝手に作り上げたイメージに合わせて、子どもを指導するのですから、目の前にいる現実の子どもではありません。
 このことを深く考えると、目の前にいる子どもをとらえて指導することはかなり難しいと思います。
 子どものとらえ方だけでなく、私たち教師は常に目標を意識しています。その目標は、現実ではなくこれもイメージです。子どもにこんな力をつけたいとか、こんな姿になってほしいとかというものは、教師が創り出したイメージです。そのイメージに合わせるために子どもを指導するのですから、やはりこれも現実ではありません。
 教育は、一方的にこちらの思いを伝える訳ではありません。育てるのですから、子ども自身が変化するための指導をします。
 指導の難しさは、ここにあります。
つまり、現実の子どもをイメージ通りに変化させるために何ができるのかということを考えることになるのです。
 目の前の子どもたちの現実から出発しなければ、本当の変化は望めません。現実を理解し、その現実から目指す方向に向けて歩み出させることが出来たときがよい指導ができたということになります。
 目の前の子どもが何を考え、何を望んでいるのかがわからないと現実の子どもをとらえたとは言えません。
 現実の子どもに合わせて指導するということは、子どもの願いに合っているので、子どもに無理はありません。
 現実の子どもが歩きたいと思った方向に歩み出しているのか、それとも歩きたくないと思っているのに歩ませようとしているのかは、わからないからです。
 子どもがわかりたいと願っているとすれば、わかりたいことへの支援が可能ですから、指導しやすく、楽に支援ができます。
 しかし、わかりたいという願いよりも別に興味関心があるとすれば、まず、わかりたいという願いをもたせるところにエネルギーを使わなければなりません。
 10人の子どもがいれば、10通りの願いがあります。例えば、わかりたいと思っていることを前提に授業を進めれば、思っていない子どもは、置き去りになります。前時の授業がわかっていることを前提に授業が進めば、わかっていない子どもは置き去りになります。
 どの子もわかる授業にするためには、前提となる子どもの今をとらえる必要があるということです。 
 目の前にいる子どもの今をとらえて、授業を進めるためにには、常に今を確認する必要があります。
 ここを丁寧にする教師は、本気で子どもに力をつけさせようとする教師だと思います。
 わかったかどうか、常に確認し、前進するのです。1時間にいくつものステップを作り、そのステップを確実に上らせるための手だてを用意しなければなりません。
 初めから、このようなきめ細かな指導ができるようにはなりません。失敗を重ねながら、現実の子どもから学ぶ教師だけができるようになるのです。
 ステップの荒さに気づかせてくれるのは、子どもです。それも現実の子どもです。今しかありません。指導している今をきちんと見つめることから逃げては、ステップの荒さに気づきません。
 どの子もわかっているのだろうか、今の指導で困ってしまった子どもはいないだろうか。などと自問自答しながら、現実の子どもから学び続けるのです。
 子どもの今を変える指導ができなければ、的確な指導ではありません。この「今」の連続が授業なのです。
 「今」を育てる教師こそが、子どもに本当の力をつける教師だと思います。

可能性を奪っていないか

2010-09-18 | 育児
 見方が変わると見えるものが変わってくることは、誰もが知っています。しかし、その見方を変えることがなかなか出来ないのはなぜでしょう。
 私たちは、これだと思ったら、そのこれだと思った見方からいろいろなものに当てはめてみてしまう傾向があります。

 例えば、この子は、優しい子だと思ったら、その子がする様々なことをその優しさとつないで見てしまいます。
「~だから、優しい子なんだ。」「やっぱり、優しい子なんだ。」とその子を優しい子だと思い込むようになります。
 そして、極めつけは、「優しい○○さんなら、~してね。」「優しい○○さんだから、きっと~するだろう。」などと勝手に枠をはめてしまいます。

 そして、その期待とずれると「そんなはずではなかった。」と言うことがあります。

 この枠ができると、子どもは、自分の安心安全のために、優しい自分を演じ続けなければならなくなります。
 優しい面もあるなという程度に留めてあれば、まだ救われます。こちらの思い込みが強ければ、それが負担になります。
 同じように「あなたは、リーダーでしょ。」「あなたは、できる子だから。」「あなたは、思いやりのある子だから。」「あなたは、真面目な子だから。」などいろいろな姿に当てはめてみると、結構使っているように思います。
 もし子どもにこんな姿になってほしいという願いが強くて、言っているとしたら、子どもはどれ程負担を感じていることでしょう。
 どんな姿にも、自分を変えることができるのが私たち人間です。枠をはめられたところから、生きづらくしていることはないか常に見ていく必要があります。
 このことについては、教師なら、十分気を配らなければなりません。子どもの生き方に枠をはめていないか、可能性を奪っていないかを見る必要があります。
もし、「あなたは、だらしがない子だ。」「あなたは、できない子だ。」「あなたは、ルーズな子だ。」などと子どもを決めつけたとしたら、悲劇です。そんな面があるかもしれないが、そうでないかもしれないしれません。それが変わることだってあるはずです。
 固定して見ると追求をやめてしまいます。可能性が消えてしまいます。 
 どうか、子どもを見続けてください。そして、その子の可能性を信じ続けてください。
 このことは、保護者にも伝えたいことです。我が子を見る自分を見続けることが、子どもの可能性をのばすことにも関わらず、枠をはめて子どもを縛っていることに気づいていない保護者が多くいます。
 見栄であったり、エゴであったりしないだろうか。子どもが犠牲になっていないか、注意を払いたいのです。
 第三者の立場で、冷静に見つめないとつい思いこんでしまいます。
誰もが陥り易い所です。
 ただ、だからといって自分を責めることはしないでほしいと思います。気づくだけでいいのです

人権感覚を磨く

2010-09-15 | 育児
 可愛そうだ、辛そうだと感じるとそばにいたくなったり、手助けをしてあげたりしたくなることはないでしょか。
 考えるというよりも感じるとつい体が動いてしまいます。相手に働きかけてしまいます。
 刺激を受けるとすぐに反応してしまうのが、私たちです。そして、その感じ方を疑うことは、ほとんどありません。
 寒いと感じても、それを「寒い」と感じてはだめだという人はいません。 
 辛いと感じたと聞いたら、「そうか。辛いのか。」とは言いますが、ほとんどの場合、「辛いと感じていいのだろうか。」とは言いません。言うとしたら、相手を意図的に鍛えたいとする対象がある場合でしょう。
 でも、人権感覚だけは、感じ方を疑わなくてはならない感覚です。人権感覚は、自分自身に働きかけるよりも相手に直接働きかけることになります。また、人に対する見方・考え方・感じ方ですから、対象を変えたら、対応が変わる等というような器用なことはできない感覚です。
 働きかけが直接相手の刺激になるから、影響は大きくなります。
 ですから、自分の感じ方を疑う必要があります。
 対応の仕方によっては、人を巻き込み、自分の人権感覚を広げようとする場合もあります。疑うことなく人を巻き込んだ場合の相手に対する影響の大きさを考えることなく、行動してしまっては、取り返しがつかなくなります。
 配慮をし過ぎることは、この人権感覚についてはありません。
では、どのように配慮できるのでしょう。
他人の事を自分事にすることが大切な配慮になるのではないでしょうか。
 これは、なかなかできないものです。多くの場合、人に起きることを自分に置き換えないでいるから安全で気楽になれるのです。
 でも、自分の体の一部に起きていることだと感じると、安全ではなくなってしまいます。
 この人に起きることは、自分にも起きることだと感じることができれえば、他人事にはならなくなります。
 これは、感覚です。人が痛いと感じたことを自分も痛いと感じるのですから、なかなか難しいのです。
 同じような体験をすれば、きっとその感覚はあるのですが、そのような体験がなければ、なかなか感じることはできません。
 人とうまく関われなくなった人が多くなっている今の時代。この人権感覚も磨かれなくなっているのではないかと心配です。
 体験を重視し、人と関わることの失敗体験が多ければ、その分の学びも多くなります。幼い頃にこの体験を十分させ、人権感覚を磨くための機会を増やすことはとても重要だと感じています。
 昔と遊びが変わってきている分、人との関わり方を学ぶ機会が少なくなっているのが今の子どもです。遊びの中でのトラブル解消が人権感覚を磨くよい機会だと思います。
 外遊びを友達としている子どもたちをしているとほっとします。

本当のその子らしさ

2010-09-14 | 育児
 よさ見つけをよくしますが、私たちが見つけているよさ見つけは、本当にその子のよさなのでしょうか。本当にその子のよさとして見ているでしょうか。誰にでも見える姿をその瞬間にその子が見せただけならば、それは本当にその子のよさと考えていいのでしょうか?その姿が早く現れただけだとしたら、いずれ他の子にもその姿は現れてくるはずです。
 誰もが認めてくれるその子のよさとしてきちんと見極めるということは、かなりの時間がかかり難しいものです。ですから、この子のよさは、一体何だろう?と探り続けるしかありません。
 一旦決めてしまうと、それがその子の色となり、それが強化されていきます。仲間からもその目で見られ、その子自身もそれが、自分であるかのように動き出します。
 「あんな優しい子がどうして?」「あなたは頼りがいのある人だと思っていたのに。何だか裏切られた気持ちになった。」などと言う言葉を浴びせられないかびくびくしている自分を創り出したら、それはその子の本当によさではないはずです。それは、自分のよさに自信がもてず、疑り続けているからです。
 誰から何と言われようと「私はこれだ。」と自信をもつことができれば、これは、本当にその子のよさとして、輝くものになります。
 そんなよさならば、どの子も一目置くものになります。
ですから、本気で探らなければなかなか見つかりません。
子どもにはいろいろなよさがあります。
・行動のよさ
・能力のよさ
・見方や考え方のよさ
・その子らしいよさ
 私たちはいつもどこをみているのでしょう。
 初めは見えるところのよさに目を奪われます。深く探ると目ではみえない所のよさが見えてきます。この方が自分を認めてもらえたという気持ちがより深くなります。
 そして、よさは、その子を自分が知っている視点から分析して探求するというよりも、深く思い続けているとふとわき上がってきます。それが、実によく当たっているのです。
 一生大事にしてくれる大切な自分らしさです。ただ、常に動き回っている子どもは、自分のよさになかなか気づきません。これは、子どもだけでなく、私たちもそうかもしれません。自分のよさを気づくことは難しいのではないでしょうか。
 自分を外側から眺めることができれば、別ですが、多くの場合、内側にいるため、なかなか見つかりません。
 外側から見ている私たち教師だから見えるのです。そして、仲間も外側から見ています。
 つまり教師が言うその子のよさを「そうだ。」「そうだ。」と応援してくれるのが仲間ということになります。
 仲間は、「そのくらいのことなら、僕だって。」「私も同じだわ。」などと自分と比べています。
 比べたとき、やっぱりすごいと思うかどうかが大事になります。
 このことからわかることは、何でも認めて励ませば、よさになるというものではないということです。「やっぱり素晴らしい。」と納得させるためには、探り続けなければなりません。
 固定すると楽になります。追求をし続けることがより深く子どもを見ることになります。
 子どもから目を離すことなく、追求し続ける自分でありたいと思います。

本当の理由は

2010-09-10 | 育児
 期待する姿にならない時、どのようにすればいろいろな方策を考え、悩み苦しむことがあります。
 この時の問題解決の仕方は、常に今までの自分の解決の仕方以外に思い浮かぶことはありません。
 原因を考え、考えた原因に合った解決方法で対処します。
ここに大きな落とし穴があることに気づいていないためになかなか問題が解決できないことがあります。 
・原因が本当に問題の原因になっていないかもしれない。
・原因は一つではないかもしれない。
・原因を考えるよりも解決が早い方法があるかもしれない。
 例えば、忘れ物をした子どもに忘れた理由を聞くとします。
きっと様々な答えが返ってきます。
・家にないから
・おうちの人が買ってくれないから
・時間がなかったから
・時間割を合わせなかったから
・友達に借りればよいと思ったから
・なくてもできると思ったから
・もってくるのが面倒だったから
・したくなかったから
・興味がなかったから
・嫌いだから
・別のことに気を取られているから
 忘れ物をなくす根本的な原因に触れていなければ、忘れ物をなくすきっかけを作ることはできません。
・家にあれば、忘れないのだろうか。
・おうちの人が買ってくれば、忘れないのだろうか。
・時間があれば、忘れないのだろうか。
 これらは、自分の中に忘れた原因があると考えてないため、きっとまた、忘れ物をするだろうと容易に考えることができます。忘れ物をする自分から逃げているからです。
 自分の中に原因を考えたとしても、「借りればよい。」とか「なくてもよい。」とか「面倒だ。」などと安易な考えをしているとすれば、これもやっかいですが、安易な考え方ができない体験を用意すれば考え方を変えることができます。
 「したくない」とか、「興味がない」「嫌いだ」「別の事に気をとられている」を原因に考えられたとすると、これはかなり深く自分を見つめたことになります。普段はあまり表面に出したくないもので、常にふたをしています。
 これを口に出すと自分自身を否定されたり、相手を傷つけたりすることになってしまうので、隠しておきたいことになります。
 ここに焦点が当たった時、興味関心・意欲がもてる対象となるか、対象に対して余程強い願いが必要になります。 
 興味のないことに興味をもつことは困難です。いつ忘れても仕方ない状況にあるのですから、自分の力ではなかなか解決できません。
 こんな時は視点を変えるしかありません。つまり、対象との関わりではなく、自分のあり方に目を向けます。
・忘れ物をしない自分にすることがねうちがある。
・忘れ物をしないといいことがある。
 自分の努力だけでは限界があります。手助けが必要になります。
 忘れ物をしない努力が認められる環境が必要です。
努力をすれば認められると思えば、安心な場になります。その場にいることが居心地がよいということになれば、努力をし始めます。
 叱っても根本的な解決にならないのは、ここにあります。
・子どもの周りに努力を見過ごさない仲間がいるだろうか。
・子どもの周りに努力を承認する仲間がいるだろうか。
 忘れ物をする子どもではなく、その子どもを見続ける仲間の存在が重要になります。
 集団を利用して、個を育てるというのは、このことになります。
 忘れ物をする子どもを叱っても、問題を複雑にしたり、解決を遅らせたりします。
 叱りたくなる自分がいるのは、何故なでしょう。問題を複雑にしたり、解決を遅らせたりするのに何故叱りたくなるのでしょう。
 叱ってしまういつもの自分があります。叱ってしまう本当の理由は何でしょう。そんな自分を見つめてみたいと思います。

気づいていないから

2010-09-07 | 育児
 子育てで一番難しいことは、育てる側が気づかない点を育てることです。
 自分で気づくことならば、まだ意欲的に取り組めますが、他人から指摘されたことならば、素直に受け入れられる場合とそうでない場合があり、育てる視点になるかどうかは不確定です。
 まして、気づかない点は育てられません。
例えば、靴を脱いだ時にそろえることは、当たり前だと思っている子は、靴を脱いだ時後の靴を見ます。ですから、脱いだ靴の状態を知っています。そろっていないと何か違和感を感じます。
 靴をそろえる習慣がない子は、脱いだ靴を見ません。いつも前を向いているので、脱いだ靴の状態が目に入らないのです。
 指摘されても、面倒だとか、別にしなくてもいいと思っていれば、そろえようとはしません。したとしても、それは言われたからするのであって、まだ自らしようという気持ちにはなっていません。それは、靴を揃えることに価値をもっていないからです。
 きちんとそろうことの気持ちよさを実感しなければ、また、同じように脱いでも靴をそろえないことが多いでしょう。
 ですから、靴が揃っていないことに気持ちよさを感じる感覚を身につけさせることの方が、靴を揃える習慣を身につけさせる近道になります。
 脱いだら靴を見て、揃っている靴を眺めさせます。そして、そこに美しさを見つけて教えるのです。「揃っていると、きれいだね。気持ちいいね。」と何度も繰り返し教えるのです。
 脱いだ靴を見なかったら、「見てごらん。」となります。
気づかなければ、「きれいに揃っているかな。」と揃っていることの価値観から攻めます。揃っていることにねうちがあることを繰り返し教えるのです。
 靴を揃えたら、褒めます。
 この繰り返しをすることで、脱いだ靴を見る習慣とともに脱いだ靴を揃える習慣が身に付きます。
 揃えることの美しさが価値観として身に付けば、靴だけでなく、別のものにも広げることがでいます。
 本の整理、タンスの整理、かばんの中の整理など気づいていない点を指摘すれば、広がっていきます。これも、育てる側が気づかせることで広がります。
 でも、立ち止まれないのが子どもです。すぐに次のことをしたがります。私たちは、この立ち止まらせることにエネルギーを使うことが多いように思います。
 強制的に立ち止まらせたり、目の前にえさをぶら下げて、我慢させたりといろいろな手を考えます。
 子どもが立ち止まり易くなれば、指導がしやすくなります。
 立ち止まれない自分に気づいていないから立ち止まれないのかもしれません。
 振り返りの大切さに気づいたら、必ず立ち止まるようになります。
立ち止まり易いのは、次の時です。
・一つの活動が、し終わった時
・新しいことを始めようとした時
・約束の時間が経過した時
 この時に、何をさせたいのではなく、何に気づかせたいのかに焦点を当てることがとても重要になります。
 しかし、私たちはすぐに何をさせたいのか、行動だけを求めてしまいます。それにその価値をつけて、立ち止まらせることに慣れていないのです。これに気づいていないからできないことかもしれません。
 私たちは、まず習慣化した指導の癖に気づくことから始めなければならないかもしれません。

感情のコントロール

2010-09-06 | 育児
 私たちは、五感を通して常に刺激を受け、反応している。それも無意識でしていることが多い。
 意識して感じようとしていること以上に無意識に反応していることが多い。
 その時々の感情はほとんどすべて、反応だと考えたら、一体私たちは、自分らしさはどこに現れるのでしょう。
 感情は、過去の経験や体験から作られます。
テレビドラマを見て感傷にふけっている時の感情の動きは、まさにテレビドラマに反応して、それを楽しんでいることになります。悲しもうと思って悲しむのではありません。反応して悲しくなるのです。
 これと同様に、子どもの姿を見て、喜んだり、腹を立てたりするのも同じです。その姿を見て喜ぼうと思ったり、腹を立てたりしようと思って喜んだり、腹を立てたりしている訳ではありません。その姿を見ると反応してしまうのです。
 これでは、過去に使われている自分でしかありません。
 反応することにエネルギーを多く使っています。もっと自分らしく想像的に時間を使うことができたら、この反応にエネルギーを使う量が少なくなるのではないでしょうか。
 私たちが苦しんだり、悩んだりするのは、この反応によるところが大きいように思います。
 私たちの身の回りに起きる事を自分の価値観で判断し、どうしようと悩んだり、これは困ったと心配になったりするから、エネルギーをそのために使っているのです。
 悩んだり、心配したりせず、事実として受け止め、怒ったり、叱ったりせず、すべきことをするという構えがあれば、もっとうまく時間を使うことができるように思います。
 子どもに身につけさせなければならないと思ったのならば、身に付いていないことに悩んだり、苦しんだりすることなく、身に付いていないのだと思って、すべきことをさくさくとすることが大事なのでしょう。 
 将来を案じて、悩むこともありません。過去を悔やむこともありません。あるのは今だけです。今を何とかするしかないのです。 
 このことが本当に大事だと気づいたら、もっと子育てが楽になると思います。
 悩む必要のないことで悩んでいるのです。そして、感情が事の進みを遅らせているのです。 
 すべて、OKにすれば、前向きに進むことができます。至らなくても、必ずよい所を見つけて、OKにするのです。その積み上げが至らないことが少しずつ改善していくのです。
 時間がないからと焦るのもあなたの価値観です。
 なるようにしかならないのに焦るのは、あなたの価値観です。
 無理をさせれば、必ずどこかでツケになって返ってきます。
 まずは、いつも穏やかで感情を自分でコントロールできる自分になれるように自分磨きを続けたいと思います。

じっくり子どもを見る

2010-09-02 | 育児
2学期が始まり、夏休みの作品処理に多くの時間を割くことが多いのではないでしょうか。
 この時に、子どもの作品を処理することに目を奪われ、子どもから目を離してしまっては、せっかくの2学期の大事なスタートを台無しにしてしまいます。
 出来る限り早く済ませて、子どもの夏休みを経て、成長した子どもの様子をつかむ努力をしたいものです。
 作品処理の中に現れる子どもの姿や思いも成長を理解する上でとても大事になります。
・作品の完成度
・作品作りへの取り組みの足跡
・作った作品への思い
 これらをつかむことで、子どもがどんな夏休みを過ごしてきたのか想像することができます。
・自らの力を伸ばそうと必死で頑張った
・親の力を借りて、自分の力を伸ばした
・親に指示されることが多く、自分の力を十分発揮できなかった。
・親の支援を得ることもなく、指示されたことに縛られて、すべきことをする程度の力を出した。
・安易な考えで取り組み、1学期の取り組みほどの力を発揮できなかった。
 子どもの姿を想像することで、どの子にどんな声をかければよいのかが見えてきます。
「こんな力があるんだね。気づかなかったよ。」
「粘り強さが身に付いたね。これなら、安心だよ。」
「残念だったね。でも、本気になれば、必ずできるよ。」
「自分だけの力でやり切ったことが素晴らしいよ。これからが楽しみだね。」
「どうしたの?あなたらしくないよ。心配事でもあるのかな?」  
 夏休みの課題への取り組みの裏には、一人一人違った姿があります。その姿を見過ごさないことが、2学期の順調なスタートになると思います。