ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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人間理解は自分から

2012-08-27 | 育児
 最近、特に思うのですが、人との関わりや自分の状態管理に関わっても願望実現と同様に、自分次第だということを実感するようになってきました。
 
 相手の刺激に反応している自分があります。そして、その自分は、常に価値観に合った反応をしているのです。

 例えば、時間厳守な人ならば、約束の時間を必ず守ろうと自分の生活をそのように変化させます。そして、相手が遅れてきたときには、腹が立ったり、許せない気持ちになったりとあまり心地よくない自分を作り出します。
 これは、相手が時間が遅れてきたという刺激に対する自分の反応の仕方です。

 もし、時間にあまり厳しい人でなければ、反応が違ってきます。

 これは、美的感覚であっても同じです。美しさの基準が人を裁くのと同様、自分をも裁いています。

 思いやりとお節介の違いも自分の基準と他人の基準の違いが生むものではないでしょうか。

 常に自分の価値観というフィルターを通して、相手を見ている私たちがあります。

 苦しんだり、悩んだりするのは、自分のイメージと現実のズレから置きますが、これも価値観が生み出したものだと思います。

 このように自分の世界で起きることは、すべて自分次第だということが少しずつわかってきました。

 他人に責任転嫁しても問題は解決できません。自分の中に問題はあるのですから、自分を変える努力が必要になります。

 変化したいと思いながらも、変化したくない。常に安全・安心でいたいと働く脳がセーブして動きを止めてしまうのです。

 この脳のはたらきを逆にうまく利用できれば、変化も容易くなるというのが今の学びです。

 相手の起きることは、すべて自分の中でも起きることです。体験が違っているから、違うように見えるだけで、もし、同じ状況の中で同じような体験をすれば、同じ人間ですから、同じような感じ方をすることができると思います。

 他人を理解しようとする時にも相手の状況を自分に置き換えるしか考えることはできません。

 人間は、自分しか体験できないのですから、自分を通して相手を見るしかないのです。
 こんな感情になるのは、自分がどんな時なのだろうか。ひょっとするとそれに近い体験や経験をしているから、今の状況になっているのかもしれないなと思うと、相手の行動の理解に近づくのではないでしょうか。

 それでもわからないとすれば、自分の中に体験や経験がないからだと考えることができます。そして、そんな体験とはどんな体験なのだろうと、相手に聞きたくなります。相手を責めるのではなく、相手を理解するために探りたくなるのです。

 ここには、戦いはありません。理解があるだけです。互いに分かり合う所には、壁はありません。その壁を取り除くところに自由があります。
そして、そこには平和があります。そして、柔軟で創造豊かな世界があります。

 自分の価値観で裁いているうちは、この世界を見ることはできないと思います。
 そして、私も多くの価値観で自分や人を裁いて苦しんでいる私です。学び続けるのは、そんな自分を早く解放してやりたいという気持ちがあるからではないかと考えるようになってきました。

非言語で

2012-08-21 | 育児
昨日、教職員向けの研修会をしました。「心地よい人間関係を築くために」という演題で、ワークショップです。
 特にコミュニケーション能力を高めるための基礎的な構えづくりという意味で行いました。

 私たちは、日常的に日本語を使って、人とコミュニケーションを取っています。それは、年齢とともに体験を通して豊かになるため、日本語を巧みに使うことが素晴らしいと思ってしまいます。

 しかし、いくらうまく表現したとしても、その根本に「信じられない。」「本当かな。」「そうかもしれないけど・・・・。」と拒絶をしたり、疑っていたりする思いがあれば、巧みに表現された言葉でも受け入れることはできません。
 例えば、嫌いな人の話は、いくらいい話であっても受け入れられないと思うことがあるでしょう。

 逆に、言葉が少なくても、伝わるという体験もしているはずです。例えば、外国旅行です。片言で話しても何とか思いを伝え、事を済ませていくことがあります。このように言葉の巧みさがなくても、伝わる事があるのです。

 つまり、非言語によるコミュニケーションがあるということです。


 幼い子どもは、言葉が少なく、この非言語によるコミュニケーションによって相手に意志を伝えることの方が多いのではないでしょうか。

 本当は、この非言語によるコミュニケーションの方がパワーがあるのです。

 このことを理解した上での巧みさが必要なのです。

 具体的には、非言語での活動を通して、意志を伝え合うことを体験してもらいながら、そこでの感じ方をいろいろ味わってもらいました。
 
 小学校の先生、中学校の先生の違いや親しい人、初めて出会った人の違いなど様々な人との出会いの中から人との関わり制限している価値観に気づいたり、一緒に活動することの喜びを感じたりしながら、心地よい人間関係を体験してもらいました。

 参加者の方々からは、好評を得ることができました。

 職場研修として位置付くと、その職場の質の向上につながるなあと実感した一時でした。

地域人としての顔

2012-08-13 | 育児
 私たちはいろいろな顔をもっています。学校では教師としての自分、家庭では家族の一員としての顔、そして、地域の一人としての顔があります。
 職場と家庭との往復で一日が終わるという教師も多いと思います。
趣味があれば、そのつながりがあり、その顔ができます。
 いくつかある顔の中で、一番薄いのは、地域の顔ではないでしょうか。

 教師は、長年の経験を経て、自分では気づかないことが多いと思いますが、集団をまとめたり、新しい事を生み出したり、集団の前に立って話をしたりすることができます。

 これは、地域にとっても大事な財産だと思います。

 東北大震災の折に、教員が活躍できるのは、単に避難所が学校だったというだけではないと思います。

 地域の組織が動くまでの組織を維持する時に、大いに教員として培った力が役に立ったのではないかと思います。

 地域の教育力の低下が叫ばれている現在、このような教師の力は、学校だけに留めておくのはもったいないと思っています。

 よく職場の地域を大事にしましょうと言われますが、それよりももっと大事にしなければならないのが、自分が今暮らしている地域の人々とのつながりだと思います。

 教師が地域に根付けば、必ず地域の教育力は上がるはずです。
それをうまく活かしていないのが今の地域ではないでしょうか。

 私たちが自分の暮らす地域にもっと積極的に関わることで、人間関係を築き、信頼を生み、地域の力となっていくのだと思います。

 今の時代、教師は風当たりが強く、なかなかよい評価を得ていないため、なかなか地域に入りづらいという面もありますが、ここは人柄です。

 私たちの教師としての誇りや自信は必ず役に立ちます。

 地域から求められる人材となることが教員を終えてからの人生にも大きな影響を与えるものだと信じています。

 これは、私がかつて教職を離れて月曜休みを体験したときの思いからです。
 今住んでいる場所は、生まれた場所とは異なっているため、幼なじみの友達などはいないのです。全く知らない方ばかりの地域の中で生きているのです。
 月曜日に近所を歩いても、知らない人ばかりでした。定年後の生活もこのようだったら・・・と思うと寂しくて仕方がありませんでした。

 そこで、地域の水防団に入ったり、自治会の役員をしたりしながら、地域の人々とつながりを作りました。

 今では、挨拶を交わせる関係になりました。
 小さな子どもからも、「ラジオ体操のおじさん」と声をかけてくれます。

 地域に生きているんだという実感があります。