ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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状態が能力を決定する

2013-12-24 | 育児
 日ごろから感じていることですが、もっている力を十分に発揮している人もいれば、そうでない人もいます。もっと力を出してほしい方もいます。
 力があってもそれを出せないでいる人を見ると、もったいないと思うこともあります。

 こういう時、「教育に対する情熱が足りない。」「自分の生活を優先させる考え方が間違っている。」「もっと子どもの気持ちになって指導をしてもらいたい。」「教育観をもっと磨いてほしい。」などと教師の力量の問題ととらえられがちです。

 初任の頃から力量に差があったかといえば、そうではありません。
生まれながらに身に付けた特性は別として、教師となった以上は、子どもの健全育成のために力を発揮しようとどの教師も思っています。

 ただ、その後の「教師として育つ環境」に差があったために力量に差が出たと考える方がよいのではないでしょういか。

 体験していないから考えが及ばないことはいくらでもあります。体験したからこそわかることもあります。

 これが教員経験の差だというとそうではありません。出会った教員の質の違いが大きいと思います。

 強い信念に支えられて自ら学び続ける人は別ですが、学ぶ機会があり、学ぶ状況がそろっていれば、自然と学んでいきます。そういう学びができる環境を築くのは、管理職の仕事になります。個人の努力だけでは、職員の研修意欲を高めるだけの素地をもった風土を作り出すことはできません。
 多くの職員は、職場の風土に染まっていくと考えた方がよいと思います。

 それよりも、近年気になるのが、教職員一人ひとりが、もっている能力を十分発揮できるだけの状態を保っているかどうかということです。

 教職員のメンタルヘルスが盛んに叫ばれるようになった現在、能力を十分発揮できずにいる教職員がたくさんいます。

 打たれ強いといわれる方が少なくなりました。

 保護者からの要求や教育行政や管理職からの指導、社会の教員へのまなざしなどから、自分の力を十分に発揮できない状態になっている教職員が増えているように思います。

 つまり、理想の教師像を現実とのギャップに苦しんでいるように思います。

 誰もがよい教師になりたいと日々実践を行っています。理想の教師に近づく努力をしています。

 誰もが現在可能な最善を尽くしています。

 今の時代は、かつての「わが道を歩む」時代ではなく、評価されているという他者の目を気にしながら歩む時代なのだろうと思います。
 自分のペースで、能力を高めていくゆとりがありません。若い教師もベテランと同様の資質を求められている時代のように感じます。

 しかし、できることしかできないのです。いくら力んでもそれほど簡単に力をつけることなどできません。

 余計な評価を気にするあまり自分の力を十分発揮できないことが問題です。評価されていることを気にせず、できることを精一杯しているうちに力量は、高まっていきます。

 対象となる子どもも変わります。社会の変化に合わせて学習内容も変化します。職場も転々とすることが多く、職場の人間関係も変わります。

 自分の置かれている状況の中で、やれることしかできないのが現実です。
この状況の中で自分なり全力でできることをするしかないのです。

 評価に振り回されていると自分を見失い、よい評価を受けるために生きる自分になってしまいます。

 初心を思い出し、なぜ教師になろうとしたのか、どのような教師を目指しているのか、自分自身の教員としての夢を確認し続けることが自分を大事することだと思います。

 志を見つめ、今の状況の中で精一杯力を発揮できる私たち教職員でいたいと思います。

子どもの育ちに合わせて

2013-12-02 | 育児
 私たちは、子どもの成長を常に願っています。そして、その成長に関わることができる喜びを感じています。これは、保護者が子どもの成長を喜ぶ姿と全く同じです。
 
 ここで大事にしたいことは、その成長が、子どもの発達と合っているかどうかということです。

 教師や保護者の願いと子どもの願いと合っている時には、無理なく自然な形で成長をしていきます。しかし、教師や保護者の願いが強すぎると、その反動が返ってくることがあります。
 例えば、
 「できたはずなのに、できなくなってしまう。」
 「教師や保護者の前での姿とそうでないときの姿が異なる。」
と感じる姿を子どもが見せる時、多くの場合は、願いが強ぎるようです。

 子どもからすると、教師や保護者の言うとおりにしていかないとそこでは生きていけないと感じているために教師や保護者の願いに合わせているだけです。つまり、外からの力で抑制されている状態だったということになります。

 子どもの願いは、欲求として現れます。これは、子どもの発達と大きな関係があります。

 乳幼児期・・・・・・生理的な欲求、安心・安全欲求が強い時期です。
           (寝たい、食べたい、排泄したい、守られたい、愛されたいなど)
 児童期・・・・・・・所属・認知の欲求が強い時期です。
           (受け入れてもらいたい、認めてもらいたいなど)

 思春期・青年期・・・自己実現の欲求が強い時期です。
           (~になりたい、実現したいなど)

 マズローの欲求の段階と重ねてみるとよくわかります。
 ・低次の欲求から次第に高次の欲求に高まっていく。
 ・低次の欲求が満たされるとより高次の欲求を求めるようになる。

 これを子どもの自立から考えていくと、
乳幼児期は、食事や排便、衣服の着脱、生活のリズム作り、物の準備や整理整頓など、身辺自立や生活自立を目指すことになります。

そして、児童期は、この自立の上に立った自分の能力を伸ばすための学習に力を入れ、できることを増やしたいと考えたり、自分の特性を見つけたり、学習自立を目指すことになります。

そして、思春期・青年期となると、自分の進路を決めたり、職業を決めたり、自分を社会の中で生かせるための社会的自立を目指すことになります。

 教師や保護者として、子どもの願いに合っているかどうかは、この目指す自立に合わせることではないでしょうか。

 このように子どもが、夢を語り、夢を実現するためには、それまでに育てなければならない自立があります。

 このように整理すると、家庭ですること、学校ですること、そして、互いに協力してしなければならないことが見えてきます。

 学校任せにしても子どもの成長はありません。家庭任せにしても子どもの成長はありません。

 両者が目の前の子どもにとって、「今、何が必要なのか。」を十分に理解しながら、互いに協力することが重要になります。

 忘れ物一つでも同じです。両者の関わりがとても重要になります。

○物事を始めるためには物の準備をしなければならない→考え方を家庭で躾ける
○何を準備するかを明確にする→学校が事前に知らせる
○準備ができているか確認する→家庭で確認する
○物が揃うとスムーズに事が始められる→学校で承認

 「できて当たり前」、「できなければ叱る」にしているとすれば、子どもは育ちません。

 忘れ物をするということは、何かが欠けているか、育ちが不十分だと考えることができます。目の前の子どもを叱る前に教師として、保護者としてできることがあるはずです。

 子どもは、育てられたようにしか、行動できません。

 子どもは、教師や保護者の刺激に対する反応をしているだけです。忘れ物をしたとすれば、どんな刺激を加えて、躾けてきたのかが、教師や保護者に子どもが問うているのです。

 刺激が足りなければ、両者が協力して、繰り返し刺激をするしかありません。

 子どもは「できない→できる時もあれば、できない時もある→できることが多くなる→いつもできる」という順番で育っていきます。

 目の前の子どもの育ちに合わせて育てるしかありません。